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2018年9月23日 (日)

ポストモダンはモダンの立ち技から寝技に

 菊池寛の「日本文学案内」を批評の対象とした《 「文学が人生に役立つとき」(伊藤昭一)》を書いた。この対象とした原本は、菊池寛が当時に雑文としてあちこちに書いたものを集大成したものであろう。
 雑誌に書いていた文学に関する価値論も入っている。
-- 私の理想の作品と云へば、内容的価値と芸術的価値とを共有した作品である。語を換へて云へば、われわれの芸術的評価に、及第するとともに、われわれの内容的価値に及第する作品である。
 イプセンの近代劇、トルストイの作品が、一代の人心を動かした理由の一は、あの中に在る思想の力である。その芸術だけの力ではない。芸術のみにかくれて、人生に呼びかけない作家は、象牙の塔にかくれて、銀の笛を吹いてゐるやうなものだ。それは十九世紀頃の芸術家の風俗だが、まだそんな風なポ-ズを欣んでゐる人が多い。
 文芸は経国の大事、私はそんな風に考へたい。生活第一、芸術第二。 (菊池寛「文芸作品の内容的価値」・大正十一「新潮」)--

 特徴的なのは、文壇での主張に事あるごとに、反論や批判ができることであろう。彼の著作を読んでいると、ヘーゲルの社会の歴史的発展段階論の影響がある、と気づいた。だから、現代と大きく変わる意見ではないが、どこか古い。それは、人間の認識力は間違わない、という前提があり、作家たちがそれを確信していたふりをしていた時代だからであろう。
 しかし、その時代、菊池寛が発見して世に出した横光利一などが「機械」という作品を書き、語り手の「私」がどこか変ではないかのかと思わせる、または会社の経営者や社員があおかしいのか、そういう語り手が幻想をみているような視点で物語で進む。いわゆるポストモダンのメタフィクションを展開してるのである。j柔道で立ち技ばかり気にしていたが、寝技もあったと気がつくようなものだ。

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