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2018年8月20日 (月)

詩の翻訳はなぜ誤訳がよいのか?朔太郎の論から

 萩原朔太郎が「詩の翻訳について」誤訳の方がましだという趣旨の主張をしている。これは、言葉がについて、ただその国の言葉がわかるという人が訳すと、まっとに理解できるように訳してしまうので、言葉を新鮮に生まれ変わるという作用を、減じてしまうからであろう。
 詩には、言葉を別の新しい感覚を生み出すという機能を求める。それが極端になったのが難解な現代詩であろう。菊池寛は、言葉を正しく情報伝達に使うという趣向が強いために、不可解さを排除した。そこで、科学が発達し世の中から不可解なものがなくなれば、詩は滅びるとした。
 この理屈は、文学の大衆化には役立つが、言うに言われぬ感じをひょうげんするには、言うに言われぬ感じでるというしかない。これが小説の原理であろう。これを、言葉の別の使い方で、直接表現したいとすると詩になる。
 そこから、下手にイメージを貧しくする言語的に正しい翻訳よりも、誤訳の方がましであるということになる。
 ただ、文学の文学性ということになると、言葉のイメージをずらした文章などが個性の発揮しどころでもある。

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