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2018年8月17日 (金)

文芸同人誌考

 受贈している文芸同人誌には小説教室の生徒の修業作品の発表と、地域で合評会の可能な範囲で文芸愛好者が同人になているものがある。両方とも、読者は生徒や同人であろう。
 作家の森村誠一は、作家というのにはある程度の商業的に成り立つ読者数がなければば、作品を発表しても作家とは言えないと、している。小説教室の同人誌には作家を意識した人とたちの集まりなので、ビジョンをもった作品が多い。それが小説としては当然なのだが、街中ジャーナリズムの立場では、日常のつまらないことの作文も情報として貴重である。
 私が所属している「砂」という雑誌などは、原稿が足りないので、書いてほしいという要望がくるほど、会員が減っているようだ。ちょうど私自身は、日本外国人特派員協会などでの記者発表会などに出席しようとすると、受付で、媒体は何ですか?発表した証拠は?ただのブロガーでは出席お断りです、といわれることがある。仕方がなく、自由報道協会の会員であることを告げると、許可される。
 そうなると、ジャーナリストとして印刷物に記事掲載した事実を示すことの必要性がある。しかし、71歳のときに、雑誌や機関新聞への編集業を辞めてしまったたので、それがない。そこで同人雑誌ならば、自費であるが印刷発行されるので、それに活用しようと、日ごろの取材記事を掲載することにした。すると、文学フリマでその「砂」誌を買う人が出てきた。どうやら、取材対象の関係者が買いに来たらしい。《参照:「砂」の会
  ただ、これで社会的に発表者として認められるかどうかは、まだ不明である。
  それがなければ、誰も読んでいないということもあり得る。それでも、読者不在を前提にして、読む人との出会いがあることをじっと待つということになる。結局、書くという過程にかなりの価値があるので、商業的な大量の読者が期待できなくても、ひたすら完成度を高めた作品を発表するということの意義はある。

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