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2018年7月31日 (火)

西日本文学展望 「西日本新聞」7月24日・朝刊=茶園梨加氏

題「家」
野見山潔子さん「解体」(「火山地帯」193号、鹿児島県鹿屋市)、西村敏道さん「微(ほほ)笑みのかげに」(「飃(ひょう)」108号、山口県宇部市)
鳥海美幸さん「冬の終わり」(「龍舌蘭(りゅうぜつらん)195号、宮崎市」)、北村節子さん「街灯」(「佐賀文学」35号、嬉野市)、田ノ上淑子さん「降灰は空の彼方(かなた)に」(「原色派」72号、鹿児島市)、右田洋一郎さん「沙知とクロとプリズムと」
(「詩と眞實」829号、熊本市)、三井春生さん「もっこすの記(第6回)」(「季節風」24号、北九州市)
「火山地帯」193号は島比呂志さん生誕100年特集、立石富生さん『小説 島比呂志』(火山地帯社)、島比呂志さん著書『生きてあれば』(1957年)に言及 。
文芸同人誌案内掲示板:ひわき さんまとめ)

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2018年7月30日 (月)

情報の秘境探検のひとつの分野としての文芸同人誌

 文学フリマを広島でも実施するという。《参照:文学フリマの広まりと同人誌イメージとの関係を考える
 そうなると、そこにどんなことが書いてあるかを、ほとんどの人が知らない。「文芸研究月報」という冊子を出していた時には、大手メディアの新聞情報が主であった。そこで、バランス上、知る人の少ない文芸同人誌の情報を流していたのである。当時は、まだメール通信がパソコンの主体だった。当初から、どこにもない情報の源にしていたのである。月報に新聞社からの記事を転載すると、自社の記事を勝手に転載するな、訴えてやるという対応があった。その時に、文芸同人誌は、よむ人が少ないので、その情報とバーターしませんかなどと対応していた。
 しかし、同人誌のいくつかからは、お前なんかに読んで欲しくないと、排除された。それは視点が異なるのである。作品評と情報化とは、基本が異なるのであった。

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2018年7月28日 (土)

文芸同人誌「星灯」第6号(東京)

【「リベンスキー『一週間』の受容と展開―英国・日本・中国の国際的拡がりのなかで」島村輝】
 ロシアのプロレタリア文学者リベンスキーの「一週間」という作品は、1922年の発表当時から評判で、アジア各国に翻訳されていたそうである。これと小林多喜二、井上ひさしなどの作品と、弾圧時代の共産党員の動向や小林多喜二の創作活動の状況が明らかにされている。とくに池谷信三郎の日本語訳の経緯を読むと、その時代の知識人の意識と、民衆の社会意識の反映が読みとれる。関東大震災の混乱した雰囲気に、民衆が巻き込まれた事情などを考えてしまう。
【「井上ひさし『一週間』―そして多喜二『地区の人々』を読む」佐藤三郎】
 井上ひさしは、多喜二の党生活とその創作について、随分多くの者を書いていたらしい。ここに出てくる(M)というのはゾルゲ事件にもつながる松本某のことであろうか。この論でもMの人物が多く出てくるので、わからないところだが。いずれにしても、国内問題を外国との関係に大きく影響されることは、現代でも同じ。情報化時代のなかで、海外からの視点で自国の状況を考えることの重要性を感じる。
【「戦後反共風土の形成――山崎豊子『沈まぬ太陽』を手掛かりに」本庄豊】
 日本共産党という政党は、保守系派の政治家と民衆のイメージダウン対策の的になることが多い。大衆ポピュリズム的な中傷のなかで、国民に一定の支持を獲得しているのは、民衆に平衡感覚が存在していることを示している。
 なかでも、文学的には思想的なビジョンが確立しており、社会性の強いものが支持されている。ここでは、山崎豊子の作品の解説である。テレビドラマ化されたものなどを、自分は見ているが、全体を俯瞰した評論は大変に勉強になる。関心を持って読んだ。人間の道徳感は、理論的に理解していても、組織内での自己利益のため、倫理感を優先するという傾向もある。その調和の道を見つけることができるのか、その答えはないのだが、探して行くしかない。
『「『負け犬の社会主義』にならぬためーー共産主義でいこう!」紙屋雪』
 「負け犬の社会主義」というものが、どういうものかわからないが、ロマンチックである。個々に取り上げている思想には、少し理解できるものがある。
 まず、安倍政権による働き方改革関連法は、経団連の巨大資本の要請で実現した。現代の資本主義のあり方は、現在の民主主義システムを破壊する方向にあるということである。マイナス金利になった日本資本主義は、利益の産み場を失い、労働者を安く働かせて、そこで生まれた利ザヤを得るという方向にきていることが分かる。
 また、ベーシックインカムについて、ここでは実現可能性を論じているが、その欠点についての視点がない。日本の年金制度において、運営の問題点が指摘されているのは、その資金の多くを国民が出資しているため、内部情報を知る権利があったからである。ベーシックインカムのように、公務員が支給する仕事になると、それがまるで自分の権力で、国民に恵んでやるという意識から、権力化する危険がある。気に入らないらない意見の持ち主には「お前には支給を止めてやる」と恫喝する可能性がある。ロシア革命後にしても、レーニンやトロツキーなどは、政策の具体的で公平な実行者を国民がどうしたら選別できるかを、議論している。スターリンの独裁でその発想は抹殺されったが。今後は、官僚を選挙で選ぶのも一方法であろう。
【「情勢と人生の曲がり角でー昭和30年代からー加藤周一論ノート(5)」北村隆志】
 昭和は長く、社会的な激動の時代である。ステージごとの状況判断が、その時ごとに変わってくる。加藤周一というと、現代を生きた評論家と言える。時代ごとにその観察と解釈をしているようだ。
 ここでは、加藤周一が1949年の「文藝」10月号で「文学は時代を作るもので、時代を反映するものではない」「人生の原型をつくるもので、人生を模倣するものではない」と記しているそうである。これはこの時代における文学が生活文化カルチャーの主流を占めていた時代のものであろう。
 現代はあらゆる情報手段のなかで、文学のカルチャーに占める比率の低下から、それが妥当ではないと思えて仕方がない。そのことが大衆ポピュリズムの席巻を招いているのではないか。
発行所=〒182-0035調布市上石原3-54-3-210、北村方。「星灯編集委員会」。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2018年7月26日 (木)

「小説は、紙と鉛筆さえあれば書ける」高橋弘希氏

「小説は、紙と鉛筆さえあれば書ける」

 さまざまな本を読み込んで、「今度は自分が書きたい!」と小説を手がけ始める人も多いけれど、高橋さんは「自分はそういうのじゃないですね」とあっさり言う。

 ならば、なぜものを書き始めたのか。どうして小説だったのだろう。

「とりあえず小説は、紙と鉛筆さえあれば書けるんで。小説にハマっていた大学生のある時期に、そのままの流れで自分も書いてみて、そのまま書くことにもハマってしまった」

 動機はシンプル。その原動力となったのは?

「書いていて、うまくいった! という実感が持てたときはおもしろさを味わえるかな。ある場面を書いているとして、そこがうまくいけば、ああよかったなと満足します」

《参照:芥川賞受賞・高橋弘希インタビュー「小説と将棋は似ているかもしれない」

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2018年7月25日 (水)

「北方文学」の啓蒙主義的編集

  文芸同人誌というと、文芸誌のなかで、文芸同人誌となどは、自己表現的な作品が多い。読んでもよまなくても、知見に影響しないような、人それぞれの生活ぶりを知る見聞を広める程度のものが多い。
 雑誌「北方文学」は、自分の知らないことや、名作の読み方を学ばさせてくれるので、別格である。《参照: 「北方文学」第77号に読むH・ジェイムス論と柴野毅実論
引用があるのは、こちらで紹介することにした。このほか。映画「アギーレ」論なども面白いが、そうするとコンラッドの「闇の奥」のあらすじなども、どこかで紹介しておいた方がよいのかな、と改めて考えてしまう。文芸情報の時事性はここで触れられるが、古典のあらすじはなかなか追えない。

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2018年7月24日 (火)

文芸同人誌「季刊遠近」第67号(横浜市)

 本誌の会長であった永井靖(安藤昌原)氏の追悼号でもある。つい前日まで元気だったらしく、一人暮らしで連絡が取れなくなったので、同人仲間が不審に思って、自宅を調べると、浴槽で自然死していたという話を春田道博氏が、記している。鍵がかかった個人宅の場合、異変を感じて警察に連絡しても、無理やり部屋に入ることは出来ない。身内の者でないと権利がないのだ。自分の友人もそうであった。故人の「私の中の文学の位置」(安藤昌原)が掲載されており、音楽作曲畑からから文学に傾倒していった過程が興味深い。新宿三角ビルの朝カル小説教室で、久保田正昭文氏の教室に参加したという。
【「家計呂麻海市」藤民央】
 父親の遺品の整理と、故郷の父の代からの近所付き合いの大変さを題材にしている。91歳で亡くなった父の遺品を点検していると、夢に父が現れるとか、それから、故郷にかえるとか、話があちこち飛ぶが、毛局は、父親の遺品は保存しておくことにする話。
【「再開は雨の夜」花島真樹子】
 若い頃に関係のあった男女が、年月を経て偶然再会するが、その時はなにごともなく過ぎる。懐かしい雰囲気の、よくあるような話。話の運びでは落ちがある構造だが、ここではそれがない。
【「別離」小松原蘭】
 東大の博士課程の研究室生の恋愛の成り行きの話。思い入れがそれなり出ている。
【「象の夢を見た日」浅利勝照】
 田崎という、昔は派手な生活をしていた男と、久しぶりに再会すると落ちぶれているようで、金を500万円貸して欲しいという。用意をしたが、田崎は自殺をしていた。話の素材は面白いが、語り方の手順が不安定で、なにかあるのだろう、と思うがあまりはっきりしない読後感が残った。
事務局=〒225-0005横浜市青葉区荏子田2-34-7、江間方。「遠近の会」。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2018年7月22日 (日)

古池や~の英訳について

  ドナルド・キーン氏の「東京下町日記」に(京新聞7月22日朝刊)で、俳句の英訳について述べている。
 芭蕉の古池や~の句はつぎのようである。
The ancient pond
A frog LEAPS in
The sound of the water
  これにに対し、宮森麻太郎氏の英訳について萩原朔太郎が述べている。「詩人回廊」(詩の翻訳について
The ancient pond!
A frog plunged splash!
(古池や蛙とび込む水の音)
  
 やはり翻訳は、何人かの訳を読み比べると面白い筈である。

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2018年7月17日 (火)

文芸同人誌「海馬」41号(神戸市)

【「旅のいざない」山際省】
 修三という男の人生遍歴を描いたもの。思い出話が入るため時代の推定が難しいが、四半世紀以上前のことであろう。内容は、幾つかのエピソードの積み重ねで、それをなべてある。駅で2、3日過ごしていると、警官に職務質問されてしまう。それが不満で、対応に協力しないので、交番委に連れて行かれる話。富士製鉄のJ建設会社の飯場で働く話。大型2種免許も取得する。生活苦もなく、自由な気分の生活情報である。最近の文芸同人誌に多い無思想性の生活記録。
【「彼と私と」山下定雄】
 自転車修繕作業と公園の雲梯にこだわる話が延々と続く長編の連結した作品らしい。彼と私は、分裂した存在として語られるが、それぞれのこだわりを主張しながら、統一された「私」として、読者に伝達される。こだわりをああでもない、こうでもないと繰り返すことで、人間性の一面を表現している。
【「タンゲーリーアの歌声」永田祐司】のんびりした
 出だしが、アルゼンチンの港の様子からはじまる。その運びが、話が長いことを暗示している。しかし、骨組みは、人探しの物語でできている。かつての恋人を探しだすために、日本からこの国にやってきた男が寺沢という68歳の男であることが2ページほど読み進むとわかる。彼女には娘がいるが、そのことも寺沢の思い出話のなかでわかる。
 人探しの間に寺沢とタンゴ歌手の関係から、彼の人生上の出来事が思い出物語として描描かれる。結局、探した彼女は見つけ出した娘によって5年前に亡くなっていることがわかる。こうした作りでは、何でも語ることが可能である。よくぞ書いたものだと感心する。そ一方で、の長所がある代わりに、極彩色の糸で織られた手毬のようにあれこれと目を引くことで、話が分裂し、統一的な印象を散漫にするようだ。
 このような幾つもの話を同時進行させるのに巧みなのが、宮部みゆきであろう。息もつかせず読ませる。ベストセラーになるのも当然。そのかわりああ、面白かった、で終る。それと異なる味わいを出すことが純文学としての道だとは思うが、難しいものだ。
発行人=〒675-1116加古郡稲美蛸草1400-6、山下方「海馬文学会」。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2018年7月16日 (月)

海の日に冷房のない部屋で同人誌を読む

 16日の海の日は、どこにも出かけず、同人誌を読むことにした。朝、部屋の温度は29度、湿度69%。そこで、不在の家族の部屋の窓とベランダの窓を開けて風を通して、冷房なしで耐えられるか試してみた。午前中は、室温が31度まで上がった。湿度は67度に下がる。扇風機を使う。午後には室温33℃。湿度65%。その後、それが最高温度。夕方5時には、32度になる。湿度は67%に上がる。
 転居前の夏では、熱中症になりそうで、シャワーを浴びてまぬがれたほどだったが、現在の住まいは、それほどではない。ただ、酷暑のなかで、一日中在宅していることがなかったので、ひとつのデータになる。
 ところで、同人雑誌を2刷読んだ。商業雑誌と根本的に異なるのは、短編なのに長篇のような書き出しのものが多いのに気付く。まあ、読者のために創作しているのではないのであろうから、それも悪いとは言えない。出だしの無駄な部分で、字数を使いすぎて、テーマを描ききれないという損失がある。もしかしたらそれは、テーマがない前衛作品なのかもしれないのだが。

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2018年7月14日 (土)

漫画の立ち読みご自由にどうぞ――。

  書店の売り上げの話の主流がだいたいマンガかファッション誌になっている。文芸情報は、一部マニアの世界になっているようだ。一種の秘境の世界としてみるようになっているのかも。かつてはライフスタイルのヒントになっていたのだが。

ーーー漫画の立ち読みご自由にどうぞ――。
 大手出版社の小学館が、書店で漫画を立ち読みできないようにするフィルム包装(シュリンクパック)の取りやめを呼びかけ始めた。名付けて「コミックス脱シュリンクパックプロジェクト」。この春、一部の書店で包装をやめたところ、少女・女性向け漫画で売り上げが20%増えたため、今後拡大する方針だという。

 小学館によると、シュリンクパックは、立ち読みや破損を防止するために30年ほど前から多くの書店が採用したという。ただ、近年は出版不況や漫画離れの影響で「漫画売り場に立ち寄る人が減っていると実感していた」(小学館マーケティング局・福本和紀さん)。電子書籍の場合、試し読みを設けると漫画の売り上げが増えた実績があるため、「まずは読んでもらうため、接点を増やしたい」と、包装を解くことを試みた。

 今年3月から5月に全国の書店36店に呼びかけ、「闇金ウシジマくん」「MAJOR 2nd」「空母いぶき」「海街diary」「コーヒー&バニラ」など、35作品の1巻と最新巻について、包装をかけずに1冊まるごと読めるようにした。版元から呼びかけての大々的な取り組みは異例のことだという。

 その結果、少女・女性向け漫画では、包装をかける一般書店に比べ、売り上げが20%増えたという。少年・青年向け漫画では売り上げに顕著な変化はなかったが、書店員へのアンケートでは好評を得たことから、小学館は今後、さらに他の書店への拡大を検討する。
《朝日デジタル:漫画の立ち読みご自由にどうぞ――。》

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2018年7月12日 (木)

文芸同人誌「胡壺」第14号(福岡県)

【「緑の花」井本元義】
 病を得て入院中の77歳の男性「私」が、自分の容貌の醜さや、自己存在の意味性の薄さを意識しながら、これまでの人生遍歴のなかで文学に傾倒した記憶をかたる。
 若い頃は、香港の街に憧れた。中国語習得グループの教室「緑の会館」に参加する。そこで、小美という日系中国女性に出会い彼女の個性と美しさに魅せられる。そこから、「私」の美意識と欲望の遍歴が語られる。一応、物語的に論理的なつじつま合わせにも、わかりやすく読めるが、それが読者サービスになるのだろうか。そのことが、内面的なイメージの飛躍を押さえているかも。中国文化への耽溺が表現されている。話はちがうが作者は、6月に閉店した新宿の文壇バー「風紋」の東京新聞記事に客として、コメントを述べている。文学的な遍歴キャリアの豊富さがわかる。
【「夜の庭」ひわきゆりこ】
 男は、世間のしがらみから離れ、勤めをやめ、見知らぬ街の見知らぬ貸家に住む。物語のようなものはない。だが、男の出会う不動産の女や、貸家の大家の女性の風変わりな描写が面白く、見知らぬ街での男の自由な新生活ぶりが、興味深く読み込むことが出来る。小説という表現の必要条件を満たしているので、架空の謎めいたの世界の中でも説得力をもった存在感がある。
 作者の「自作を語る」には、優れた絵画の風景には、その世界に入り込んでしまいたくなる気持ちにさせるものがあるーー。という趣旨がある。
 たしかに、小説の男は、風景画の世界に入り込んでしまったのか、と納得する。その意味で、成功している。要因には、男の設定があらゆる世間のしがらみから解放された状況にしたことであろう。そういうことがあったらいいなと、読みながら羨望させるものがある。心がのびやかになる。同時に、風景画のなかの生活を味わう精神を、文学作品として描くという希有な世界を表現していることで、貴重な作風に感じた。具体的な名画を選んで、その世界に入った話などもぜひ読みたいものだ。このジャンルでの専門作家になることにも期待したい。
【「凶暴犬とガマガエル」雨宮浩二】
 福岡に仕事で赴任してきた僕は、街中で野犬に襲われて、近くのジャングルジムに上って危機を逃れる。その時の犬の表情に恐怖を覚える。その事件があってから、ある人間との接触の時に、普通の何げない表情の中に、凶暴犬の表情があるのを見つけてしまう。
 常識的に見れば幻視にすぎないのかも知れない。ここでは人間の本質の中に、優しさと凶暴性が同時に保持されており、凶暴犬の性質は誰にでも隠されているのではないか、という恐怖感を表現する。
 会社でクレームを処理する仕事をしているが、昼弁当を買う店の販売担当者の女性との交流や、会社にクレーム電話をする男の存在など、話の展開は豊かである。僕は常に、未来に対して恐怖と警戒心をもって生活しており、その心理がスリリングに伝わってくる。
 本作の「自作を語る」によると、凶暴犬にやられたことは実体験らしい。それがいまだにトラウマになっているようだ。ただ、それから離れて読んでも、我々がの現状がそのまま継続するとは、限らないことに対する鈍感な社会の雰囲気を擬人化して表現するのに成功している。動機不明な殺人事件などのニュースが飛び交う日本の社会不安が巧みに暗示されている。
【「戻れない場所」桑村勝士】
 東京で官僚となり、産業行政の担当者の身分で、出身地の工場団地企業招へい活動を視察に行く。そこでの用事を済ますと、かつての青春をすごした地域に行ってみる。
 そこから時間は、過去にもどる。中学校と親しい悪ガキと、溜池でのルアー釣り(作者好みらしい)。そして、いじめをする別の悪ガキ。そこでの復讐など。
 しかし、現在ではため池は埋められて近代的な街になっている。完全な断絶の帰れない場所になっている。一種のビルドゥングス・ロマンの変形とも読めるが、そうした分類が適切かどうかは、わからない。
連絡窓口=〒811-2114福岡県粕屋郡須惠町上須恵768-3、樋脇方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2018年7月 8日 (日)

第三回文学フリマ札幌 (2018/7/8)開催

   第三回文学フリマ札幌 (2018/7/8)が開催されている。後援に札幌市・札幌市教育委員会・北海道新聞社などがある。地道に地域文化に定着していることがわかる。

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2018年7月 6日 (金)

小説同人誌「ココドコ」1回限定号(大阪市)

 本誌は、第一号きりの同人誌。読者は、参加者とその知り合いたち対象ということか。このような試みもあるのか、と珍しいので紹介する。同人の「私家版」のようなものか。同人誌に所属していない書き手たちでもないようので、こうする理由がわからないところがある。同人誌の森に新種の樹を植えるというのだろうか。
【「空のあわいに」水無月うらら】
 本篇の終わりに鷹匠の技に関する参考資料書として、3冊が記されており、鷹匠として登場する女性の描写に生かされていることがわかる。話は、男には交際している女性がいる。結婚を前提にしているが、男はその気がない。女性は、彼の曖昧な態度に結婚を断念、去って行く。その男が魅力感じるのが、仕事と鷹匠を両立させる女性。
 自己表現としては、書いて充実感があるのだろうが、読む方は鷹匠というジャンルを楽しむ人の存在を知ることの面白さがある。
【「エンバーミング」内藤万博】
 アメリカの西部劇のような世界というより、そのもので、ベンジャミン・ウイッカーマンという屋敷を舞台に、銃の早打ちが自慢そうな、アメリカ人が集まる。話は、遺体保存された霊廟にまつわる話で、人間関係の心理を追求する。文学的にはフォークナーの「エミリー薔薇」やヒチコックの映画「サイコ」のような素材を使ったのに似る。書き手はとても楽しく充実しているであろう。読む立場では、アメリカの風俗へのノスタルジアを楽しめる。べつに外国人たちの話でなくてもよさそうに、とも感じる。
【「色の白いは七難隠す?」山川海蹴】
 ネット販売とスマホのアプリケーションなど、現代の職業人の生活と風俗の様子が、結果的に細部がわかる。選挙への姿勢や、制度としてのベージックインカムの話題なども意識している。色白の女性主人公は、母親を施設に入れている。生活のありさまが、ぶりが描かれているように読めたが、読み終われば、恋あり転職ありの生活の大変さのなかで、平和な日常が定着されている。
【「やさしい いえ」三上弥栄】
 触井園荘(ふれいそのそう)という2階建てのコの字型のアパートの住民たち。アパートはノスタルジックであるが、住むのは現代人。ミオリという「私」が住人として、アパート生活をかたる。無職で、大家さんらしいカオル子さんの犬の散歩役をしている。彼女を知る僕は既婚者で、妻と共働き。子供がいるので、子育てにイクメンをしなければならない。このように視点を変えながら、登場人物の仕事や生活が描かれる。書く方は、書きやすいだろうが、読む方はいちいちこれはだれであろうと、推測しながら読むので面倒。
 かつては、近代小説では、それだけ読者に負担をかけるとなると、それなりに重い内容の出来事があるのだが、現代小説ではそうとは限らない。それだけ文学が物語性から離れないと、通俗小説になってしまう。そうしない工夫の結果がこうなるのか、とも思う。
【「町工場に住む」田中さるまる】
 まず、通勤途中に電車のホームから、ビルの上から人が落ちるのを見る。父親が町工場の社長をしていたが、交通事故でなくなり、その事業を承継している息子が主人公。町工場だから、職人の技術があれば事業は続けられる。引き継いだ町工場は、海外に仕事をとられ、経営が良くない。そこで職人技をもつ社員を活用して事業の維持拡大をはかるが、冒頭のビル身投げを見たことで暗示させられるように、事業はうまくいかない。
 社員には外国人労働者がいたり、ベテラン専門職社員と職人でない2代目社長の駆け引きが主に強調されている。町工場の一部としてのリアルな面がある。ただ、経理の人間や銀行の存在がないため、文学的な表現としての環境であろう。全体に精神的な存在として主人公の心理にとどまる。舞台となる町工場はかなりの現金資産があり、工場の不動産価値がある状態で、経営者の生活上の維持は困難ではない。
そうなると、とりあえずの生活状況よりも、状況の悪くないなかで、精神的な不満足があることを示していると読み取れる。そのために、話がすっきりしなまま終わるのは、純文学のスタイルなかにおさまるためのものであるのか、という感慨も出る。
発行所=〒530-0035大阪市北区同心2-14-17、光ビル512、「ココドコ」製作委員会(代表・黒住純)。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2018年7月 1日 (日)

文芸時評(東京新聞6月26日)村上春樹「三つの短い話」=佐々木敦s

  『文学界』7月号に、「最新短編3作同時掲載」として、村上春樹「三つの短い話」が掲載されている。実はこれは、ちょっとした事件である。村上の小説が狭義の「文芸誌」に載ったのは、二〇〇五年に『東京奇譚集』としてまとめられる諸編が『新潮』に連載されて以来、じつに十三年ぶりのことであるからだ。最新短編集『女のいない男たち』は、『文学界』と同じ版元ではあっても、総合誌の『文芸春秋』に載ったものだった。だからどうということでもないのだが、現在の「日本文学」における最大の異端児と言ってもよい、この特異な作家の「文芸誌的世界」への帰還(というのも大袈裟(おおげさ)だが)が、何かを意味しているのかどうか、少しだけ気になりはしている。
  「三つの短い話」は、実際どれも、かなり短めの作品である。だが、むしろそれゆえにこそ、村上春樹という小説家の個性と才能を端的に表した、純度の高い仕上がりになっている。三編とも作家自身を思わせる「僕/ぼく」が語り手であり、語られる物語は、いずれも彼がまだ非常に若かった頃の思い出が中心である。
《参照: 村上春樹「三つの短い話」佐々木敦

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