« 2018年5月 | トップページ | 2018年7月 »

2018年6月30日 (土)

西日本文学展望「西日本新聞」6月27日・朝刊=茶園梨加氏

題「生死」
城戸祐介さん「出産者」(「第七期九州文学」42号、中間市)、西田宣子さん「雨上がりの公園で」(「季刊午前」56号、福岡市)
小河原範夫さん「疑似的症候群」(「ガランス」25号、福岡市)、田川喜美子さん「思い子」(「長崎文学」87号、長崎市)
寺井順一さん「ラメンタービレ」(「西九州文学」40号、長崎市)、深田俊祐さん「風船飛ばし」(「南風」43号、福岡市)、藤代成美さん「月の道標」(「照葉樹二期」13号、福岡市)
宮崎県教職員互助会「しゃりんばい」が40年の歴史に幕

同記事は今年1月31日掲載ののち休載されていましたが、今月から再開しました。いくつもの同人誌評が廃止されているなか、有り難い存在です。
文芸同人誌案内掲示板:ひわき さんまとめ)

| | コメント (0)

2018年6月28日 (木)

文芸時評7月(産経新聞6月24日)村上春樹 「死」は生き返る=石原千秋教授

はじめの「石のまくらに」は、例によって(そう、例によってだ)大学生時代にふとしたことから一夜をともにした少し年上の、和歌を作る女性の思い出。ところが、この女性はセックスをして「いく」時に別の好きな男性の名を呼ぶのだ。それは「ぱっとしない、よくある名前」だった。しかし、その名前は彼女にとってかけがえのない名前だと理解した。名前はどれほど平凡であっても、人は「この私」でしかあり得ないし、逆にたった一人の「この私」であり得る。柄谷行人は、これを「この性」と呼んだ。予期していなかったが、彼女から歌集が送られてきた。その歌には、「今」とそして「死」があふれていた。いまでも「僕」はその歌を暗唱できる。「僕」にとって彼女は「あの」にはならなかった。「記憶」だけがそうさせたのだ。
 2つ目の「クリーム」は、「ぼく」が18歳の時に、かつて同じピアノ教室に通っていた女性からリサイタルの招待状をもらったがホールには誰もおらず、「人はみな死にます」というキリスト教の宣教車の放送を聞きながら呆然(ぼうぜん)としていると、老人の幻(?)が現れて、「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円」を思い浮かべろと言われる。それは人生で「説明もつかないし筋も通らない、しかし心だけは深くかき乱されるような出来事」に出合ったときに思い浮かべるといいらしい。不可能の繰り返しこそが人生だと言うかのように。
3つ目の「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」は、「僕」が大学生の頃にありもしないレコードについての音楽評論を書いたら、後にニューヨークのレコード店でそのレコードを見つけた。買おうと思って再度店に行ったら影も形もなかった。さらにその後年、チャーリー・パーカーが「僕」の夢枕に立って、「私が死んだとき、私はまだ三十四歳だった」と言って、しかし君が夢で演奏させてくれたことに感謝しているとも言った。「僕」はその夢の「記憶」がなくならないうちに「正確」に書き留めた。やはり「記憶」。

 「三つの短い話」が語っていることはたった一つだ。「記憶」を「あの」にしない方法。それができれば、「死」は生き返るのだと。
参照=早稲田大学教授・石原千秋 「死」は生き返る

| | コメント (0)

2018年6月27日 (水)

文芸同人誌「文芸中部」108号(東海市)

 本誌の三田村博史編集者が「季刊文科」74号の「同人誌相互評」・「文芸中部」107号―描くことの意味と意欲―と題し、掲載作品の紹介と批評を記している。そこで、同人たち全員が10年以上修業を積んだ人たちで、意欲にみちた同人雑誌であるとしている。その通り、常に一定の水準以上の作品であることは、確かである。
【「REPOROGRAM」加納由佳子】
 SF小説で時空の構成がわかりにくい。「史昌の生きている2035年は、この少女の生きている時代から17年後だ。目の前の少女の名は怜亜という。2018年の1月に彼女は妊娠し、史昌が生まれることになっている。史昌は17歳だった。彼が現在、夢中になっているゲームは「REPOROGRAM」というソフトで、他人の過去に飛び記憶を書き換えることができる。新進気鋭の時空旅行感覚ゲームソフトだ」
 と、いうような世界である。現代人を取り巻く世界の情報の複雑性をゲーム性を素材に取り込むというものであるのか、時空の違いが具体的にイメージしにくいので、意味が受け取りにくかった。
【「どこに行くのか」堀井清】
 作者の確立した独自スタイルによる問題提起、人生の峠を越えて「どこに行くのか」そのもの物語である。構成が巧い。まず、アマチュア写真家の神屋が作品展をする。鑑賞に来る人は、友人くらい。真鍋と元木が友人である。元木は作品展に行くが、妻がサークルの教師と浮気しているのを疑っていて、見張ったりする。真鍋は会社経営者だが、作品展に行かず、愛人と駆け落ちをする。それぞれの行動をえがきながら、どうなるのであろうという興味を掻き立てる手法が効果的。ここでは、なんとなく、どうにもならないという人生の本質に触っているように読める。
【「雲雀荘の春」朝岡明美】
 社会に出た女性が能力がありながら、企業内のパワハラ、セクハラによって、対人恐怖症になって会社をやめた女性。その女性の眼を通して見た雲雀荘アパートの人間模様を描く。パワハラ、セキハラは、重大な社会問題である。しかし、ここでは風俗小説的な扱いになっていて、話の仕立て素材とされているところが、力みがなく軽い味わい。
【随筆「物質と文学<生と死の仲良し>『影法師、火を焚く』の量子的解釈」名和和美】
 本誌に連載の「影法師、火を焚く」(佐久間和宏)第8回の合評会の様子と、自身の解釈を記す。作風が、語り手の「私」が、同一人でないため、誰がどうしたのか、関連が掴みづらいということであるが、各編ごとに単独で読みとれる面白さもあるようだ。
 そこから、作者が「私」と書く「私」は同様な認識による「私」なのかーーという疑問なのか、存在のもととする物質論に入る。量子力学の光の存在が粒子か波動なのか、さらに粒子理論から「ひも」理論まで、」世界の構成にまで、話が及ぶ。そして認識に対する物事の「不確定性理論」にまで及ぶ。面白い観賞法である。
 作品にはジャンルの区別があって、絵画は枠の中に絵具の形がある。それが素材を生かして立体的になれば彫刻である。文芸は文字をもって、自由な視点でイメージや幻像を産みだそうとする。そうすると語り手の主体は、誰なのかっということが、疑問になる。たとえズブズブの私小説の「私」であっても、それをどう認識するかの把握の仕方で、異なってくることがわかる。
【「『東海文学』のことどもから(1)」三田村博史】
 同人誌「文芸中部」の発祥にかかわる同人誌の歴史と来歴、関係者を知ることが出来る。文学芸術は、過去にはカルチャー全体のなかで作品の映画化などで比重が大きかった。しかし、現在では事実の情報化、バラエティー化とコミックの比重におよばず、カルチャーでの位置が小さくなった。事実の方が面白いのだ。いまの文芸作品は、ポストモダン時代に入ってプレ・モダン時代の様相に近い状態かもしれない。そのなかで。文学の系譜を同人誌の歴史から見る傾向は増えるのではないか、と思わせる。
 まだ、意見を述べたい作品があるが、それについて書くのは長くなりすぎる。
発行所=〒477-0032東海市加木屋町泡池11-318、三田村方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

| | コメント (0)

2018年6月26日 (火)

文壇バー「風紋」が閉店ー東京新聞26日夕刊

無頼派作家の太宰治と交流があった林聖子さん(90)が東京・新宿で営むバー「風紋(ふうもん)」が二十八日、五十七年の歴史に幕を下ろす。太宰が入水自殺してから七十年の節目に、檀一雄や中上健次ら多くの作家に愛された文壇バーの灯が消えることを、常連客らは惜しんでいる。 (増井のぞみ)
22日に店で「風紋終幕の会」が開かれ、常連客が集まった。二十代のころから通う井本元義さん(74)は「林さんは静かに客の話を聞いてくれる。詩情や歴史、知性がある」。作家森まゆみさん(63)も「ピュアな人柄で、いつ来ても居心地がよかった」。口々に店との別れを惜しんだ。《参照: 太宰ゆかり 文壇バー「完」 小説のモデル女性経営半世紀 新宿の「風紋」あさって閉店
 文芸誌「海」第2期に執筆している井上氏も通っていることが、記事に出ている。
林聖子氏の話は昨年のコスモス忌で聴いた。《参照参照: バー「風紋」の林聖子氏が森まゆみ氏に父と文壇人を語る(上)》

| | コメント (0)

2018年6月25日 (月)

旅先での情報アンテナー長野・文芸誌「構想」記事があった

 このところ、同人雑誌への投稿原稿づくりをしていたが、身内から短い旅の周遊券がもらえたので、でかける。まず、東御市のとうぶ休養村で一泊。《参照:大田区休養村とうぶ
  その後、上田市の旧真田町、別所温泉とまわる。2日目の別所温泉の上松屋という宿に泊まったら、地域新聞「信州民報」というのが置いてあって、その新聞にー文芸冊子「構想」第64号発行!構想の会」という記事があった。編集発行人・崎村裕さん。44頁て6編を掲載。内容は掌編「何か」(陽羅義光氏)、童話「アリジゴクのおくりもの」(岡本みちお氏)、短編「遥かなる地へ」(嶋田貴美子氏)、連載「中期の幸徳秋水-6-」(崎村裕氏)、連載「ルネサンスと宗教改革」-教権の解体ー西欧精神史ー3-」(雨宮湘介氏)、装画・奥村直氏、とあった。みなさん健筆をふるっているようである。明日から、パソコンの修理メンテに入るので、その前のミニ情報である。

| | コメント (0)

2018年6月21日 (木)

筒井康隆さん新刊「誰にもわかるハイデガー」を語る

今回の本は筒井さんが平成2年に行った講演が基になっている。その2年ほど前、後のベストセラー小説『文学部唯野教授』などの執筆に追われた筒井さんは、胃を痛めて入院。死が身近にある病院生活の中、手に取ったのが『存在と時間』だった。約1カ月で通読し「死を魅力的にとらえている。これを分かりやすく、面白く伝えたい」と思ったという。
 「死への恐怖は自分固有のものだから、どんなに仲間を集めたってやはり震え上がる。でも死が避けられず来ることを認識し、きちんと向かい合うことで自分のすべきことに『真剣さ』がうまれる-というわけです。将来死ぬということに落ち込む人は相当いるけれど、これで多少はね、気が楽になると思うんです」

 出版から90年が過ぎても『存在と時間』への関心は衰えず、国内でも入門書や新訳の刊行が相次ぐ。興味深いのは死をめぐる思想だけではない。〈世間に流通している普通の既成の解釈のパターンで何でもしゃべってしまうしゃべり方〉などと説明される〈空談(くうだん)〉への批判的なまなざしは、瞬く間にネット上で言葉が拡散するSNS全盛時代に重く響く。
  
《参照:産経=筒井康隆さん新刊「誰にもわかるハイデガー」 死を思い、生を見る

| | コメント (0)

2018年6月16日 (土)

文壇バー「風紋」2018・6月28日閉店へ

今年で没後70周年を迎える作家・太宰治の作品のモデルになった林聖子さん(90)が営む東京・新宿の酒場「風紋(ふうもん)」が2018年6月28日をもって閉店するという。檀一雄や中上健次ら多くの文人が集い、一世を風靡(ふうび)した「文壇バー」が、またひとつ消える。19日は桜桃忌。《参照:バー「風紋」の林聖子氏が森まゆみ氏に父と文壇人を語る(中)》
 林さんは、母親・富子さんとともに戦前から母娘2代で太宰と親交があった。太宰が1947年に発表した短編小説「メリイクリスマス」で、林さんはヒロインの少女として登場。富子さんも主人公の「唯一のひと」として描かれた。
 太宰の世話で新潮社に入った林さんは、「三鷹(東京)の自宅に印税を届けに行ったこともありました」と懐かしむ。「サービス精神が旺盛で、面白い話を次々にしてくれる人でした」。48年6月、太宰が入水(じゅすい)した三鷹市の玉川上水の現場にも駆けつけた。
 初代「風紋」を新宿5丁目に開いたのは1961年。当時は住宅街の一角にあり、4坪(約13平方メートル)の小さな店だったが、「人間失格」を出版した筑摩書房社長の古田晁(あきら)や太宰の親友・檀らがひいきにしたことをきっかけに、作家や編集者、詩人、映画監督らでにぎわった。太宰の師・井伏鱒二も訪れた。
■朝日新聞=ママは太宰治が描いた少女 文壇バー、また一つ終幕

| | コメント (0)

2018年6月14日 (木)

同人誌季評「季刊文科」74号=評・谷村順一氏

《対象作品》
秋尾茉里「あさがおの花」(「babel」創刊号・大阪市)/猿渡由美子「胸の底の辺鄙なところ」(「じゅん文学」第94号・名古屋市)/森本智子(「襖の向こうに」vol.11・大阪府)/島田奈穂子「近藤さん」(同)/小島千佳「二つに一つ」(「あるかいど」63号・大阪府)/谷河良彦「辞書物語」(「樹林」Vol.634・大阪府)/木下衣代「柔らかな裂けめ」(「黄色い潜水艦」67号・兵庫県)/渡邊未来「くるみの翼」(「ガランス」25号・福岡県)/山内弘「沈黙の解答」(「空飛ぶ鯨」第18号・埼玉県)/和泉真矢子「あなたもそこにいたのか」(「メタセコイア」第14号・大阪府)/灰本あかり「薄ら日」(「文芸 百舌」第2号・大阪府)/伊藤礼子「儀式」(「八月の群れ」vol.65・兵庫県)。

| | コメント (0)

2018年6月13日 (水)

文芸同人誌「あるかいど」64号(大阪市)

【「親指の爪」西田理恵子】
 古老の独白文体の作品。太平洋戦争末期の米軍による無差別住民爆撃のすさまじさを語る。古老の子供が孫を連れて遊びにきたので、語って聞かせるという話の設定。過去の出来事の叙述に、創作的な工夫をしているのがわかる。なかで、爆撃の最中に紙屋の親父さんが、家族を抱えたまま、立って死んだという終章などは、この形式でないと、ぴたりと決まらないものであろう。
【「人間病患者」高原あふち】
 作中人物ごとに、その人物の視点で物語を進める視点移動タイプの小説。人物は小野田博、妻の貴子、博の父親の香久山、博の娘である海音。複雑な家族関係のなかを、それぞれの立場から、自分の事情を語るので、関係性はわかりやすい。ただ、作品が長くなるのは、手法上の特性である。にもかかわらず、人物が多いので細部の人物の立ち上げに深みが欠ける。エンターテイメント化してしまう欠点がある。ミステリー小説なら、犯人を追及するとか、意外な動機を展開させる複雑な出来事をわかりやすく語るのに適している。純文学は人間の内面を照らすので、人物が多いのは不利に働く。有馬頼義や野間宏の作品に視点移動の作品があるが、人物の書き分けは2、3人と記憶している。
【「自転車泥棒」高畠寛】
 邦夫という男の閉塞的な心理が伝わってくる。表現力の巧さかから、作者の思うところに抵抗感なくついていける。邦夫は、自転車泥棒の嫌疑をかけられ、ストレスが溜まってキレる話。ここでの警察の対応描写は、かなり実体験に近いものと受け取れる。一般論であるが、警察署ごとに扱った犯罪件数の統計を比較して、署長の成績のバロメータとしているらしく、自転車泥棒の検挙が、件数を稼ぎに貢献しているようだ。
 扱い件数が少ないと、わざと鍵の掛けていない自転車を、路地や公園に放置して、それを離れたところで、警官が見張っている。誰かが通りかって、不審に思ってその自転車に手をかけたり、調べたりしていると、その人間を自転車泥棒の現行犯で捕まえる。それで件数が稼げる。これは、キャリア署長から保険をとった保険会社の女性社員から得た情報である。
【「三つ巴」池誠】
 何の話かわからずに読み進むと、普通の建築工事の合間か、工事を装うかして埋蔵金探している話のようだ。それにしても、滑稽味が薄いのが、不気味。それと、この作品に限らず、作中で夢の中の話を出すがことがよくある。小説の読者が、作品の中に入り込んでいる時は、夢の世界と同じ実体験でない世界にいる。そこに、作中の人間が実体験で夢を見ることを記されることは、二重の非現実体験をさせられることになる。そこに、よほどの強いイメージ力がないと、情景の把握がし難い。これは自分だけの癖かもしれないが。
【旅行記「サラバじゃ」木村誠子】
 アラビアのサハラ砂漠やピラミッドなど、読むだけで行ってきてみたような気分にさせられる。文章での表現の力量が優れている。よく、現地の写真を見せてもらうことがあるが、それよりもこの一文のほうが、面白い。
 その他、メールなどで対話をした「月の満ち欠け」座談会や、「掌編小説集」などがある。とくに掌編では【「朝鮮学校の学芸会」住田真理子】が大阪らしい話で、印象に残った。メディアはトランプ&キム会談の話題でもちきりだが、70年前のこの歴史の過程に生きていた当事者は少なく、自分たちに直接経験のない出来事の波立ちの煽りでその始末することの不合理さを感じてしまう。
発行所=〒545-0042大阪市阿倍野区丸山通2-4-10-203、高畠方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

| | コメント (0)

2018年6月12日 (火)

対立的な社会思想は互いに似てくる

 トランプ&キム会議の話題で持ちきりだが、資本主義的独裁者と社会主義的独裁者との対談は、両者のどちらの主張も貫徹しないものなるのは見えている。東西冷戦時代、シュンペイターという経済学者は、対立的な社会主義制度と資本主義制度は、互いに似通ってくるという予測をしていた。
 実際にそれは起きている。資本主義の札束第一主義のマネたりー経済のなかに、ボランタリー経済が生まれている。その事例が《参照: 安久工機と「触図筆ペン」の開発物語(4)》である。これは、文芸同人誌「砂」に掲載した現場取材でも評論である。
 対象企業は、すでに経済誌や新聞に多く掲載しているが、このよう文学的な視点での評論はない。たまたま、「砂」誌の記事協力を要請されたので、こうした評論が失実現できた。今後は、どのようなものになるか、編集者との話し合いを16日に行う予定だ。

| | コメント (0)

2018年6月11日 (月)

女性記者にセクハラを多くするのは、警察幹部だった

  犯罪に関し情報を独占する警察だから、そこから睨まれたら情報が取れない。それを利用するのが警察である。女性記者に対して、セクハラをする。その実態が明らかになっている。《参照:メディア内女性被害で#Me Tooの声挙げる!
  フリーライター時代に、注意すべきなのは女性担当者だった。経済団体の、規模の大きい組織ででは、受付嬢や広報担当者は、うら若く可愛い娘系の女性が多い。そこで、相手にセクハラと思われる行為をして、仕事を失う男の情報をいくつか得ていた。時に、そうした事件で機関紙の仕事を外した人の代わりに、仕事を任された例もあった。
そうした体験も、世間のありふれた出来事として、忘れてしまう。女性記者の被害者も、ちょとしたセくハラを乗り越えて仕事をしなければ、一人前扱いされなかった過去があるようだ。そのため、」ことさらに表沙汰にできな風潮がある。
 伊藤詩織氏は、最近では、「性暴力被害を乗り越えて活躍する」といった言い方をされるらしい。人間の尊厳をレイプによって破壊された心の傷は、乗り越えることなどできず、一生傷になって残るという。
 人間は、目の前に示されないことはないものとする。一般論である。誰も居ないところで、美しい花が咲いていても、誰も知らなければ、ないのと同じ。セクハラ問題も、専門新聞でもつくらないと、なかったことになってしまうのであろう。

| | コメント (0)

2018年6月10日 (日)

文芸同人誌「奏」第36号2018夏(静岡市)

【講話録「小川国男―その文学とキリスト教」勝呂奏】
 でかけなくても、講演の内容が分かるというのは、助かるというものだ。対象も幅広い文芸愛好家を対象にしたものらしく、比較的やさしく分かりやすい。
 私が小川国夫を知ったのは「アポロンの島」で、島尾敏雄の高評価で世に出たということぐらいである。その時作者が30代ということだが、自分は作品の私小説なところから、若者が精神的な遍歴と旅を結びつけたもので、作者の若書きと思って読んでいた。本誌の評論履歴などで、大森の教会にいたことを知り、自分はこの土地の生まれなので、地縁のようなものがあるのだな、と受け取っていた。関心は、極限まで切り詰めたと思われる簡素な文章であった。どこまで短くしても、表現力として通じるかの実験をしているような作風に視線がいって、その背景に聖書や宗教的な意味づけがあるとは気付かなかった。
 ただ、地球の乾燥地帯の風土に生まれた発想を、日本人が取り入れるとこうなるのか、という程度のものであった。それでも結構読めるものなのである。
 この講演録によって、宗教者による生き方の追求の文学であることが理解できる。とくに、小川国男の神が「弱い神」であった、という指摘は興味深い。強くない神は、存在する意味があるのか。居てもいなくてもどうでも良い存在なのではないか、というサルトル並みの無関心無神論とのせめぎ合いの問題を抱えていたようにも、解釈できる。しかし、親類にも入信をすすめたというから、やはり元からの宗教者であったのであろう。
【「評伝藤枝静男(第三回)勝呂奏」
 独自の私小説の表現法を開拓したイメージがある藤枝静男である。事実というのは、人によって認識の異なるという現象を巧く活用して、新境地を開いた作家のように思える。
 医師という職にありながら、作家として世に出る、あるいは出たい、という自己表現者の意欲がわかる。それが「近代文学」という文壇との渡し船に乗った事情がこの評論でわかってくる。作品には文芸評論家に失敗作とされるものや、成功作とされるものが、あるという。
 そのような、ムラがあるというのは、自己表現者の藤枝にしてみれば、どれも独自の個性を表現した同等なもので会ったのかも知れない。充分個性的なものは、その人だけがわかるもので、他者には理解不能なところがあるはずである。個性的なものを書けという編集者の言葉を信じてはいけない。それは、凡人の理解できる範囲においての話であろう。
 興味深いのは、評論家に出して「一読してイヤなところがある」ということを気にしているというところである。そこには、自分の本音のところを、客観的な自己意識でなぞると、美意識的に一致しないという認知的不協和が発生するという現象ではないか、とも思える。本心を出し過ぎたと思うと、そで良いのかと落ち着かなくなることがある。
 本質的には、事実的なところを歪んで認識すると、独自の表現として表れる面白さに、藤枝は取りつかれていたとも、勝手読みしてしまうところもある。
 そう考えると、あのへんな事実的な話から異世界に進入する歪んだ作風の所以がわかるような気がする。
【小説の中の絵画(第八回)「森茉莉『ボッチチェリの扉』(続)-硝子戸越しの部分画」中村ともえ】
 森茉莉を全く読んでいないので、歯が立たないのだが、このなかで「贅沢貧乏」の主人公・牟礼魔利が注文に応じて小説を書こうと奮闘している、という件りがある。どうやって小説を書こうか、と苦労する。たしかに、どうであれば小説で、どうでないと小説でないか、本来は大変な工夫がいるのであろう。しかし、同人雑誌の作家たちは、いとも簡単に小説を書きあげてしまう。読む立場からは、これは小説になっていないのでは? と疑問をもったとしても、「小説でないものを、小説として読んだ」とは紹介しないのである。べつに買い求めたものではないので、贅沢はいえない、唇の貧乏である。
【「堀辰雄旧蔵洋書の調査(十三)-プルースト⑦」戸塚学】
 資料研究家のなかのマニアかオタク的なデータ―ストック。堀辰雄研究者がいたら、こういう資料の存在を紹介しておこう。
発行人=〒420-0881静岡市葵区北安東1-9-12、勝呂方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

| | コメント (0)

2018年6月 9日 (土)

同人誌評「図書新聞」(6月2日)評者・越田秀男

 『我が愛しのストーブ』(小川結/(「穀雨」22号)。北風小僧の寒太郎~と歌う灯油売りも近年見かけなくなった、にもかかわらず、エアコンも設置した、にもかかわらず、冬は石油ストーブ、夏は扇風機、と頑ななアラ80父。あきれ果てる同居のアラ40娘。と、別居の妹がやってきてエアコンを……姉「33度以下は扇風機!」と、いつの間にか感化されていた。
  「あらら」9号、 炎で競作。〝『炎』水口道子――狐と狸と人間の化かしあいから共棲へ。『水の炎』渡邊久美子――震災・津波は喜怒哀楽、人生の全てを奪った。『炎・焔・熾』松崎文――竈の炎の多様な顔、ホカホカご飯! 『炎の野球選手』大西緑――蘇る炎のストッパー津田恒美! 『炎のごとく』磯崎啓三――夏野はや炎のごとく一樹立つ。
 『献体』(猪飼丈士/「民主文学」631号)。伯母が老人ホーム入所の際、身よりが主人公だけで、身元保証人になるため、四十数年ぶりに会った。その時伯母は「献体登録証」をみせた。なんで献体? その真意がわからずじまいで十五年後、緩和ケア病棟。死が切迫した段階でも伯母の意志は変わらない。主人公はこれまでの伯母の人生に深く想いを寄せる。
 『祈り』(石崎徹/「ふくやま文学」30号)。広島平和記念公園に訪れた親子五人が遊園地気分で時をすごす。さて帰るか……父親がもう一度、と慰霊碑に。母も……子等も。休日でごった返す人垣をかき分け碑にたどり着くと、不思議にも五人が収まるに足る空隙ができ、皆父に倣って祈りを……と、回りの人々までもが倣って黙祷――《急に静寂が群衆を支配したかのようだった》。
 『海の止まり木』(北嶋節子/「コールサック」93号)。主人公の母は長崎で被爆、一命を取り留め結婚、子に恵まれる。が、主人公が小学校にあがるころ原爆症を発症、一年足らずで世を去る。と、姉も発症し同じ経過を辿った。この有様は〝風評〟となり「ピカドンがうつる」、イジメ。成人した主人公は相思相愛の恋。結婚の承諾を得るため、父を伴い、娘の親代わりの兄に会いに行くも、けんもほろろで拒否された。それから四十年後、主人公が経営する喫茶店に、その兄がやってくる、台風の到着と、彼女の死の知らせを伴い。追い返すわけにもいかない……。
 『陸か海か』(平山堅悟/「AMAZON」488号)。陸か海かは、父が韓国人、母が日本人の、両生類的生き方の主人公の有り様。彼は居酒屋の屋上のラウンジでヤクザっぽい客の顔面に青丹を食らわせてしまう。この一件をキッカケに店の女と身の上話をする程度に関係が。女は中学生のころ、親が同和地区に住まったことを因とする騒動に巻き込まれ、その後風評被害を逃れ逃れて成人。結婚し子に恵まれるも、義母がこの過去の一件を嗅ぎつけ、離婚の憂き目。一方、主人公は、父が朴正煕政権下で民主化運動の首謀者として死刑に処せられたことなどを明かす。大阪のコリアン商店街の風景、人々が活写されている。
 『小風景論――「気色」とは何か』小論(西銘郁和/「南溟」4号)。琉球舞踊「黒島口説」を紹介。〝口説〟は歌舞伎などの口説のもととなった五七調の旋律を沖縄の地に引き込み溶け込ませたもの。西銘が黒島口説から抜き出した言葉は〝気色〟。〝景色〟ではなく〝気色〟を使う例は古語にみえるが、現代語では、けしきばむ、とか、きしょくわるい、など限定的だ。黒島口説では? 《何物にも「替え」られぬ出自の「島・村」に対する》誇り・信頼・感謝が込められているという。辺野古埋立工事に当てはめると、〝景色〟の破壊ではなく〝気色〟の破壊、沖縄の心を土足で踏みにじるものだということになる。
 『能古島の回天基地』随想(富田幸男/「九州文學」)。島尾敏雄の『出発は遂に訪れず』は奄美群島加計呂麻島。博多湾に浮かぶ能古島の回天基地も、発信することなく終戦を迎えたという――《沿岸近くに、無数の小石を積み重ねた魚礁とも消波堤ともつかぬ濃茶色の苔に覆われた不思議な三本の〝物体〟が波間に見え隠れしている》――魚雷艇の斜路跡。島内には博物館や防人の万葉歌碑があり、年間25万人もの行楽客が訪れるという。千数百年息づく防人と一世紀にも満たず埋もれつつある基地跡の皮肉。(「風の森」同人)
《参照:琉球「黒島口説」の“気色”に込められた心出発は遂に訪れず――博多湾・能古島の回天基地

| | コメント (0)

2018年6月 7日 (木)

文芸同人誌「群系」第40号(東京)

【「息子と、開運」小野友貴枝】
 語り手の「私」は、58歳の働く主婦である。行きつけの喫茶店は80年の歴史をもつという。マスターは寝たきりママの世話もしながらの営業である。こういうところに時代性が出ている。私の息子は、30過ぎてからうつ病と診断され療養をしてるので、母の日の贈り物も届かない。
 喫茶店の席には、印鑑屋が若いお客に、高級印鑑と運の良くなる縁起のよいというものを強引に進めている。「私」は印鑑屋が席を外した隙に、若者に自分にあった印鑑を、よく考えて注文するようにアドバイスする。そして、過去に息子の名を語るおれおれ詐欺のような電話に騙されそうになったことなどを思い出す。さらにうつ症状に苦しむ息子に開運の印鑑をつくってやりたいと思う。
 エッセイ風だが、いろいろな事件的出来事があって、全体が小説的という、奇妙な味わいが印象に残る。珍しい作風の作品になっている。
【「忘却に沈む」荻野央】
 語り手の「わたし」は、夕方にスーパーのイ―トインで缶ビール飲みながら読書をする習慣をもつ。そこは近所のおばさんの女子会の場でもあり、「わたし」と同様の男の高齢者の休憩所でもある。そこ。にやってくる老人の観察をする「わたし」である。作品で見つめるものは、先の見えた人生、廃墟となった家など、寂しく滅びゆく存在物の実存的な風景である。終章に新川和江の「記憶する水」という死後の世界を暗喩する詩を置いて、文学的な魂の表現になっている。ドイツ詩人のリルケの都会もの散文に通じる世界であるが、妙に分かりやすいというか、照明の利いた見通しの良い表現力が魅力であろう。
【「初春のつどい」(前編)富丘俊】
 10年前の散歩で知り合った3人のほぼ70代の人物のそれぞれの生活を語る。特に現代政治について、議論をはさむところなどは、誰でも描きそうでありながら、触れることの少ない世相を映す話題性がある。前編とあるが、各高齢人物の家庭事情と生活ぶりを描いて面白く読める。
【MEDIATORS(介在者たち)坂井瑞穂】
 アメリカ文学の翻訳小説かと思わせるほど、登場人物がアメリカ人で、ノースカロナイナを舞台にした作家と出版関係者のはなし。アメリカ文学には、多様で自由な形式のものがあって、サローヤンやオコナーのように、取りつきにくい作家もいる。よくわからないが、アメリカ文学らしさを感じる。
発行編集部=〒136-0072江東区大島7-28-1-1336、永野方、「群系の会
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

| | コメント (0)

2018年6月 6日 (水)

文芸交流会の普及に同好家たちに呼びかけ=外狩雅巳

 全国多数の文芸同人誌の作品を批評し紹介して来た『文芸思潮』誌に期待している。
 個別に活動する文芸同人会の運営は脆弱なので解散も多いが新規発足も多い。
 また、個々の文芸愛好者も同人会への入退会や掲載などは頻繁に変化している。
 そんな同人誌界を激励し発展に寄与してきたのが「文芸思潮」誌の五十嵐編集長である。
 関東交流会を創設し会合を開催していたが、近年は雑誌運営に専念し交流会は途絶えた。
 私はそこで多くの仲間から学び励まされた。その仲間に呼びかけて町田交流会を始めた。
 町田市近郊には多くの愛好家や同人会があるので参加呼びかけを続けている。
 知名度の無い小さな交流会合なので、月例会の継続運営には様々な困難もある。
 呼びかけを重ねる中でようやく新規参加を迎える事が出来た。はがき通信・ほのか座の朱鳥さんである。
 月例会常連者は十人程であり個々の同人会予定もあり各回の出席人数は五、六人程度である。
 それでも一人二人での活動中の人ならば、多数との討論・評価が交わせると期待してくれる。
 現在数人から連絡もあり今後の参加を期待している。
 「空想カフェ」の堀内みちこさん。「まくた会」の鮎川さん。「たねの会」の佐藤勝美さん。「孤帆」のとうやまりょうこさん。「白雲の会」の岡本さん。「町田詩話会」の宮崎さん。「私人の会」の小保方さん。等々。 町田市には「町田ペンクラブ」がある。最近伊藤代表に案内文を送り返事を待っている。
《参照:外狩雅巳のひろば

| | コメント (0)

2018年6月 5日 (火)

村上春樹さんTOKYOFM放送でDJ番組を開始へ

  人気作家の村上春樹さん(69)が、初めてラジオのディスクジョッキー(DJ)を務めることになった。
  TOKYO FM(全国38局ネット)で8月5日に放送される番組「村上RADIOレディオ」で、「RUN&SONGS」をテーマに自ら選曲も行い、くつろいだ雰囲気で話す。村上さんはこれまで国内のテレビやラジオに出演したことがないといい、肉声が聴ける貴重な機会として注目を集めそうだ。
 放送は午後7時からの55分間(一部地域で時間帯が異なる)。村上さんはラジオに愛着を持っており、若い頃にはジャズ喫茶を経営するなど、音楽への造詣も深い。一方でランニング歴も長く、フルマラソンを何度も完走するほど。
《参照:村上春樹氏がラジオDJ挑戦へ

| | コメント (0)

2018年6月 4日 (月)

文芸時評5月(東京新聞)=北条裕子、乗代雄介の作品=佐々木敦氏

群像新人賞受賞作の北条裕子「美しい顔」(『群像』6月号)は、大変な力作だ。「選考委員激賞」とあるのを横目で見つつ、どれどれお手並み拝見といった気分で読み始めて、すぐさま瞠目(どうもく)した。そのまま熱に浮かされるようにして一気に読み終えてしまった。これはちょっと相当に凄(すご)い小説である。力作と書いたが、まさに言葉に宿る「力」が尋常ではない。
 この小説で描かれるのは、二〇一一年三月十一日の出来事、あの日から始まった出来事である。語り手の「私」は十七歳の女子高生で、重篤な被害を負った地域に住んでいた。巨大な津波によって自宅は流されてしまったが、十歳年下の幼い弟とともに九死に一生を得て、現在は避難所にいる。父親は五年前に亡くなっている。看護師の母親とは連絡が取れない。当初は水や食糧も枯渇する状況だったが、東京のテレビ局が取材に来たことをきっかけに、避難所にはさまざまな支援が寄せられるようになる。そんな中で「私」は被災地に住むけなげな少女を、内心は底知れぬ忿怒(ふんぬ)を抱えながらも上手に演じて、そのことによって余計に胸の奥にどす黒いものを貯(た)め込んでゆく。この小説はそんな「私」の独白である。
  荒削りな作品ではある。モノローグの勢いが強過ぎて、その速度に書き手が酔っているように思えるところもなくはない。だが、細かな弱点を全て勘案したとしても、これは本物の小説である。むしろ生半可な小細工や技術には目もくれず、ただひたすら真正面からあの出来事に向き合っているさまに感動を覚える。作者は一歩も後ずさりをしようとはせず、逃げていない。こういうことはめったに出来ることではない。
 同じ雑誌に、やはり群像新人賞出身の乗代(のりしろ)雄介「生き方の問題」が載っている。デビュー作『十七八より』以来、私としては、文学や哲学思想にかんする豊饒な衒学(げんがく)趣味に彩られた、凝りに凝った語りの戦略に感心させられつつも、いつもどこか策士策に溺れる的な弱さや甘えを感じなくもなかった。だが、今回は素晴らしい。
 全編は、二十四歳の「僕」が「貴方(あなた)」こと二歳年上の従姉(いとこ)に書き送る一通の長い手紙という体を取っている。ほんの幼い頃から「僕」は「貴方」を思慕してきた。十代になるとそれは欲情の形を取ることになった。しかし大人になってからは顔を合わせることもなくなり、やがて二人の子供を抱えて離婚したという話だけが伝わってきた。手紙が送られる一年前、突然に「貴方」から連絡があり、二人は久しぶりに再会した。手紙は、その日の一部始終を極めて詳細に綴(つづ)ってゆく。
《参照:北条裕子「美しい顔」 乗代雄介「生き方の問題」 佐々木敦

| | コメント (0)

2018年6月 3日 (日)

町工場情報を街中ジャーナリズムで文芸誌の活用へ

  自分の町の話題を取り上げることを、街中ジャーナリズムと自己流に表現している。これは、自分が
自由報道協会という団体に加入したことで、これが政治情報を主体にしたものだとわかったからだ。それなら、自分の専門は街中の話題であろうと、考えたのである。これまで、文芸誌「」に、2回にわたって、町工場経営者の思想や方向性にのみこだわって現場レポートしてきた。
それが「町工場スピリット・クロニクル」である。これは、日経産業新聞や、工業新聞とは異なる視点で、現場レポートしたもの。いささか専門的なので、このテーマを理解するために、それぞれの時代を解説する「町工場の季節」も同時掲載している。次回は、社長が広告塔として活躍するダイヤ精機(株)を考えている。なにして、現在では中小企業のスターとなっているので、一般紙までが話題にしている。《参照:歩く広告塔となる経営者!ダイヤ精機・諏訪貴子社長
同じ視点ではやる意味がない。それをどうレポートするか、考えている。

| | コメント (0)

2018年6月 1日 (金)

ネットコメントが価値を生み出すーフリーレイバー

 通常は、出版社の媒体に執筆すると原稿料が支払われる。ところが現代になると、SNSや有料動画の価値観を与えるのがコメントである。テレビニュースでも、ネットのコメントを紹介し、世論の動向として報じている。
 その自発的な意見が、価値を生んでいるのだ。それを論じているのが大塚英志氏である。
ーーぼくの中でのweb倫理学の議論の出発点は、プラットフォームに於いて顕在化している「フリーレーバー」の問題であった。
 ぼくが「フリーレーバー」、無償労働という北米でしばしば用いられる語を表に出る形で使うのは初めてだが(なるべくなら今も使いたくないが)、例えば「ニコ動」なり「YouTube」なり、あるいは「ニコ・カド」が始めた「なろう」の模倣ビジネスも含めた「UGC」(User Generated Content)、日本では「CGM」(Consumer Generated Media)と呼ばれるインディープロレス団体の略称みたいな名前のこれらの仕組みの中に潜む問題を説明するために今回は使う。
 プラットフォームに於ける「フリーレーバー」問題とは、「投稿」が、投稿者によって無償で投稿され、それが実質的なコンテンツとしてプラットフォームに収益をもたらす仕組みがはらむ問題である。
 例えばあなたがある日までせっせと「ニコ動」に投稿し、あるいは「二次創作」を続け精神的に充足していながら、ふと、あれ、自分ってメディアミックスの中で「ただ働き」しているんじゃない、これっておかしくねえ、と気づいたとする。「黒子のバスケ」脅迫犯はその点で惜しいところまできている。かつて、こういう「フリーレーバー」は、マルクス主義が活きていたなら「疎外」と呼ぶことができた。一つのシステムの中で自分が搾取されていると気がつくと、マルクス主義的には「疎外」ということになる。実際、北米で「フリーレーバー」を問題化しているのはマルクス主義系の研究者(いますよ、アメリカに、普通に)である。ーーと書いている。《参照:web倫理学についての大雑把なデッサン 大塚英志
  つまり、自発的なコメントが、ただ働きの効果を生んでいるということだ。
 ただ、このプラットホームを維持するのには経費がかかる、その経費負担をどこかで回収しないと持続性は持てない。文芸同志会では、プロバイダーのウイル対策、定時的メンテナンスに費用が発生している。またこれは、ソフトの部分で、ハードではパソコンの定期点検、プリンターの交換など、年間10万円は経費負担がある。それがいつまで続けられるか、問題意識を持っている。会費や寄付、コンサルタント相談謝礼などで、現状は充足できていると思う。しかと計算はできていないが。

| | コメント (0)

« 2018年5月 | トップページ | 2018年7月 »