文芸同人誌「文芸中部」108号(東海市)
本誌の三田村博史編集者が「季刊文科」74号の「同人誌相互評」・「文芸中部」107号―描くことの意味と意欲―と題し、掲載作品の紹介と批評を記している。そこで、同人たち全員が10年以上修業を積んだ人たちで、意欲にみちた同人雑誌であるとしている。その通り、常に一定の水準以上の作品であることは、確かである。
【「REPOROGRAM」加納由佳子】
SF小説で時空の構成がわかりにくい。「史昌の生きている2035年は、この少女の生きている時代から17年後だ。目の前の少女の名は怜亜という。2018年の1月に彼女は妊娠し、史昌が生まれることになっている。史昌は17歳だった。彼が現在、夢中になっているゲームは「REPOROGRAM」というソフトで、他人の過去に飛び記憶を書き換えることができる。新進気鋭の時空旅行感覚ゲームソフトだ」
と、いうような世界である。現代人を取り巻く世界の情報の複雑性をゲーム性を素材に取り込むというものであるのか、時空の違いが具体的にイメージしにくいので、意味が受け取りにくかった。
【「どこに行くのか」堀井清】
作者の確立した独自スタイルによる問題提起、人生の峠を越えて「どこに行くのか」そのもの物語である。構成が巧い。まず、アマチュア写真家の神屋が作品展をする。鑑賞に来る人は、友人くらい。真鍋と元木が友人である。元木は作品展に行くが、妻がサークルの教師と浮気しているのを疑っていて、見張ったりする。真鍋は会社経営者だが、作品展に行かず、愛人と駆け落ちをする。それぞれの行動をえがきながら、どうなるのであろうという興味を掻き立てる手法が効果的。ここでは、なんとなく、どうにもならないという人生の本質に触っているように読める。
【「雲雀荘の春」朝岡明美】
社会に出た女性が能力がありながら、企業内のパワハラ、セクハラによって、対人恐怖症になって会社をやめた女性。その女性の眼を通して見た雲雀荘アパートの人間模様を描く。パワハラ、セキハラは、重大な社会問題である。しかし、ここでは風俗小説的な扱いになっていて、話の仕立て素材とされているところが、力みがなく軽い味わい。
【随筆「物質と文学<生と死の仲良し>『影法師、火を焚く』の量子的解釈」名和和美】
本誌に連載の「影法師、火を焚く」(佐久間和宏)第8回の合評会の様子と、自身の解釈を記す。作風が、語り手の「私」が、同一人でないため、誰がどうしたのか、関連が掴みづらいということであるが、各編ごとに単独で読みとれる面白さもあるようだ。
そこから、作者が「私」と書く「私」は同様な認識による「私」なのかーーという疑問なのか、存在のもととする物質論に入る。量子力学の光の存在が粒子か波動なのか、さらに粒子理論から「ひも」理論まで、」世界の構成にまで、話が及ぶ。そして認識に対する物事の「不確定性理論」にまで及ぶ。面白い観賞法である。
作品にはジャンルの区別があって、絵画は枠の中に絵具の形がある。それが素材を生かして立体的になれば彫刻である。文芸は文字をもって、自由な視点でイメージや幻像を産みだそうとする。そうすると語り手の主体は、誰なのかっということが、疑問になる。たとえズブズブの私小説の「私」であっても、それをどう認識するかの把握の仕方で、異なってくることがわかる。
【「『東海文学』のことどもから(1)」三田村博史】
同人誌「文芸中部」の発祥にかかわる同人誌の歴史と来歴、関係者を知ることが出来る。文学芸術は、過去にはカルチャー全体のなかで作品の映画化などで比重が大きかった。しかし、現在では事実の情報化、バラエティー化とコミックの比重におよばず、カルチャーでの位置が小さくなった。事実の方が面白いのだ。いまの文芸作品は、ポストモダン時代に入ってプレ・モダン時代の様相に近い状態かもしれない。そのなかで。文学の系譜を同人誌の歴史から見る傾向は増えるのではないか、と思わせる。
まだ、意見を述べたい作品があるが、それについて書くのは長くなりすぎる。
発行所=〒477-0032東海市加木屋町泡池11-318、三田村方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。
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