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2018年5月31日 (木)

小説の描写不要説についてー

まんが原作者の大塚英志氏は、堀江貴文氏が、小説の描写の省略化を提言したと指摘していたようだ。
 --【書評】『ユリイカ』8月号 特集 電子書籍を読む!(青土社/1300円)ーー
 電子書籍をめぐるこの『ユリイカ』八月号の特集の中で唯一ぼくが興味深かったのは、堀江貴文の「どうでもいい風景描写とか心理描写」をとっぱらい、かつ「要点を入れ」てある小説という身も蓋もない彼自身の小説の定義だ。ずいぶん昔、ぼくがまだ文芸評論めいたことを書いていた頃、小説そのものの「情報」化みたいなことをちらりと書いた記憶があるが、相当数の読者は今や書物に即効性のある情報か、さもなくば「泣ける」「怖い」「癒し」「劣情」といった単一の感情をサプリメントの如く刺激する機能しか求めていない。
 電子書籍という新しい環境に「適応」していくのはそのような「何か」であり、重要なのはそれが正しいか否かではなく全く別途の「書き方」がそこで必要とされている、ということだ。堀江はその自覚さえなく近代小説の書式を秒殺したわけだが、そう考えるとホリエモンの方がその辺の「活字バカ」より正しい気がしてくる。ーー
  《参照:小説が電子書籍化されたらホリエモン的な小説の解釈が必要か
 ここでは、コミックカルチャーの方向性に論じられているが、たしかに、小説の描写に関する疑問は昔からあった。高見順の「描写の奥に寝ていられない」という話は有名である。
 自分は、こうした要求に応えながら、小説の小説らしさを創っていくのも、現代文学の書く面白さにつながるのではないか、と思う。

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