中沢新一「レンマ学」と金剛経
「群像」2月号から中沢新一「レンマ学 方法序説(1)」 があり、3月号に同(2)と連載している。なんでも、「ロゴス」の対語が「レンマ」だそうで、-ーロゴスの語源は「自分の前に集められた物事を並べて整理する」こと、レンマの語源は「事物をまるごと把握する」ことだという。知らなかった。
これを読んでいると、存在物の関係性を因果律としてとらえ、仏教の縁起の論理がそれらしい。
マルクス経済学では、眼のつけどころは、人により異なるが、経済学批判として、人間の生産関係の原初に、自然土地との関係から始まることが意識されている。疎外論もこの辺から始めれば、道がありそうだ。
それが社会の発展段階論(ヘーゲル)での批判となるのだが、だいたいマルクスが批判するプルードンなども、ちょっとそれに手を加えたような、それに自己理論が似ているので批判するということがありそうだ。
中沢理論序によると、これらが、ロゴスの世界で、「並べて整理する」世界把握に必然的に持ち出される因果率の視点、分割による局所性。それゆえの線形的な時間概念、過去・現在・未来--となる。
それが、ーー科学の最先端としての量子力学によって示されたのは、「縁起」的な世界観だったーーというので、量子力学が縁起まできたのかと驚いた。
縁起というのは、木を燃やすと炎になり灰になるが、その変化の化学変化の段階はわかるが、なぜそんな現象が存在するのかはわからない。わかっている人もいるだろうが、自分にはわからない。燃える前の木はどこにいったのか? 消えた炎はどこに行ったのか? 謎である。
ところが、金剛経には、時間の間隔について、「現在心不可得、過去心不可得、未来心不可得」とある。中沢論には「華厳経」の縁起が対象になっているが、自分は「金剛経」の方からも読める。《参照: 「金剛経に一生を捧げた 濱地八郎天松居士」の周辺(2)》
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