文芸時評4月「仮想通貨」とは、ほとんど文学」石原千秋氏
「仮想通貨」も悪いことばかりではない。アメリカにシェールガス革命が起きる前、石油の代替エネルギーにトウモロコシを使おうと発案されて、トウモロコシが投機の対象となったためにブラジルで深刻な環境破壊が起きた。現実世界の投機に向かうお金が「仮想通貨」に向かって泡と消えれば、環境破壊も起きない。お金のない人間の天下の暴論である。それで何を言いたかったのか。人は言葉の呪縛、記号の呪縛から逃れることはできないということである。文学は「言葉の芸術」(中村光夫)だが、それは言葉を使いながら、言葉では言えないことを書こうとする芸術だという意味でなければならない。「仮想通貨」とは、ほとんど文学だと思う。
そのような意味において、林芙美子文学賞受賞作の小暮夕紀子「タイガー理髪店心中」(小説トリッパー)はみごとな文学となっている。もう老年となった寅雄と寧子(やすこ)が営む理髪店の日常が淡々と書かれる。はじめから息子が幼くして死んだことが暗示されていて、その地点にどうやって着地するかが読書の中心となる。山道で寧子が穴に落ちたとき、寅雄は自分の中に殺意を感じる。もうぼけはじめたかと思われる寧子が言う。「寅雄さんは、そうやって」「そうやって辰雄も殺したのね」と。この一言で、この作品の全編に殺意がみなぎっていたのだと「錯覚」させる。繰り返すが、これが文学というものだ。夏目漱石『夢十夜』の「第二夜」と「第三夜」の本歌取りと読んだ。それならば、冒頭は「柱時計が、静まりかえった店内に六回の金属音を響かせた。/寅雄は待ちかねていたようにガラス扉を押し開け、外に出た。」と2文にしない方がよかった。これでは志賀直哉である。日常の継続性を重視して「柱時計が静まりかえった店内に六回の金属音を響かせたとき、寅雄は待ちかねていたようにガラス扉を押し開けて外に出た。」の方がいい。
《参照:産経3月25日=早稲田大学教授・石原千秋 「仮想通貨」とは、ほとんど文学だと思う》
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