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2018年3月 8日 (木)

外狩雅巳の観察小説と「機械」(横光利一著)について

  外狩雅巳が「詩人回廊」に連載している「安売りショップの特別販売に通う日々」を、推敲した上で「特別販売に通う日々」と改題し、同人誌に掲載する予定であるという。
  これに対する読者の反応について、作者は自分の意図がどのように伝わるか、わからないとしている。評価で先のわからないものほど、同人雑誌にふさわしい作品はないであろう。
 じつは、自分はこの作品は現代的な文芸の試みとして、高く評価している。このように、ひとりの視点から、出来事を述べるという形式で、味わいがあるのは、現在では珍しい。
  かつてのモダニズム文学の旗手とされた横光利一は、「機械」という短編小説で、新手法を駆使した実験小説を書いている。これは、ネームプレート製作所で働く「私」の心理を書き、作業員同士の疑心暗鬼と諍いを書いたもの。段落や句読点のきわめて少ない独特の文体で、複雑な人間心理の絡み合いが精緻に描かれ、一つの抽象的な「 詩的宇宙」が形成されている。一人称の「私」以外の「四人称」の「私」の視点を用いているのが、特徴である。
  私といえば、一人称で、視点が内部のものであるが、四人称の「私」というのは、私が幽体離脱して、外部からみたような視点をもつということである。
 そういう視点からすると、外狩作品における語り手は、「私」なのか、誰なのか、読者の判断が迫られる。それがわからないから、欠点だという見方ではこの話の面白さは理解できないであろう。叙事と叙事詩の違いの解釈もある。
  作者の外狩氏は、時代を肌で感じているが、文学の形式理論には無関心なので、短文を積み重ねたスピード感など、感覚的に現代人ならでの実感と無意識の文学形式が並走させるところも、読み方としてある。(北一郎)

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