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2018年3月31日 (土)

文芸同人誌「いのちの籠」第38号(東京)

 本誌は、詩誌であるが、「散文」という分類で掲載の「強姦許容社会」(堀場清子)などオピニオンが掲載されている。
【「朝鮮国連軍地位協定と最期の砦『九条』」多喜百合子】
 朝鮮国連軍地位協定と憲法九条の関係について、述べられている。要は、朝鮮戦争が休戦協定の中であること、その監視のめに朝鮮国連軍があり、その本部が日本に置かれている。しかもその規約が、参加国の憲法を超越することが可能になっている、という事情を述べている。本評論では、外務省のHPに「朝鮮国連軍地位協定」の掲示が2007年の掲示とあるが、実はその掲示が、平成30年の今年2月13日に更新されている。
 それだけ、政府が朝鮮戦争の休戦協定の行方に関心をもっているということである。これは米国の北朝鮮攻撃の可能性を予兆させるものがある。評者は、この状況と日米安保協定で自衛隊が米軍とともに参戦する可能性を述べ、九条の危機としている。
 この朝鮮戦争時には、日本は米国軍の指揮のもとで日本海の地雷掃海に協力しており、実質的に参戦している。この時期の情勢については、作家・安部公房が活動していた「戦後東京南部文学運動」の記録にもある。
 この事実を前提にすると、朝鮮半島は戦時中の休戦状態であり、北朝鮮にとって日本は敵国なのである。北の日本人拉致問題も、敵国に対する戦術であるということができる。国内に拉致に協力する北のスパイが今も存在する可能性がある。だれが好んでこのようなことをしたがるであろうか? 国家体性という愛国集団化を強制された民族の悲劇であり、それはかつての日本の姿でもあった。そのことを思えば、人間的な悲しみを持ってことに当たらねばならないのだ。日本の公安警察が、拉致を防げなかったひどい無能さは、こうしたなかでの裏事情があるのかも知れない。
 また、日本上空の航空路線が、実質的に米軍の管理下にあるので、羽田空港への発着ルートが、面倒なシステムになっているのであろう。
 さらに、国際的にみると、北朝鮮が核兵器を持ちながら、非核化を唱えている。その論理でいくと、日本は九条を持ちながら、戦争をしても国際的に不思議に思われることはない可能性がある。安倍首相が九条を残して、自衛隊を自衛軍としようとする構想も、その辺にあると推測できるのである。同時に、国連の敵国条項に日本が対象国になっているのに、この朝鮮戦争では、参加国になっているのも、国際条約上の矛盾である。
 そういう問題意識を喚起する良い評論になっている。
発行所=〒143-0016東京都大田区大森北1-23-11、甲田方、「戦争と平和を考える詩の会」。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2018年3月29日 (木)

文芸交流会の3月例会報告!雑誌の編集権で議論=外狩雅巳

  文芸交流会の3月例会を町田公民館にて開催しました。6グループから6名が参加しました。
  民主文学町田支部の佐久さん。みなせ文芸の会から岡森さん。文芸同志会の伊藤さん。秦野文学同人会の小野さん。はがき通信を発行している朱鳥さん。相模文芸クラブの外狩が集まりました。
  今回はみなせ77号を巡る討論です。編集長の岡森さんは本名とペンネームの両方で掲載しています。年四回発行を支えるそのエネルギッシュな活動や安価な製作費等も話題になりました。今号も144頁の同人雑誌らしいボリウムで発行されています。12件の社会ニュースを一つのキーワードで結んだ「オブジェクション157」という作品を巡り大いに議論され、作者も加わり作品と編集者の権利方針について、徹底追及となり交流会らしい時間がもてました。
 次回は四月22日です。伊藤さんが同人雑誌「」136号に作品を掲載しましたので行う予定です。
 朱鳥さんのはがき通信も持参配布してくれましたので、朗読の上で感想を出し合いました。次回もはがきの詩朗読がある事を期待しています。
 さらに、「みなせ」78号も近日発行予定なので五月会合での討論が出来そうです。「相模文芸」36号も六月発行が決まりました。夏から秋にかけての交流会での作品討議が盛り上がる事を期待しています。
《参照:外狩雅巳のひろば

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2018年3月28日 (水)

「文学が人生に役立つとき」の肝の部分

 「文学が人生に役立つときー菊池寛の作家凡庸主義と文芸カラオケ化の分析ー」を刊行し、文芸同志会の各サイトで発売宣伝をしている。
 ここでの視点は、菊池寛が作家でありながら、日本文学概論という評論を書いていることであろう。現在では、文芸概論は学者か評論家しかやらない。また、同人雑誌論もない。
  もう、10年近くこの問題にこだわってきた。しかし「勘弁してほしい。文芸同人誌に係ることは、時間の無駄だから」という意見や、「無駄が大好きだから文芸同人誌にかかかわる」という人、著名な企業コンサルタントなどは「そんなのにかかわって、仕事の方は大丈夫なの?」などと、言われてきたことがある。
 産業的にも、社会的にもマンガのコミケットの同人誌の印刷で業者が潤う話がメディアで話題になっている。フリーマーケットも文学フリマは堅実に拡大してきている。伝統的同人誌作品に関する情報が少ないなかで、この本は珍しいと思うが、あくまでニッチな範囲で読者もそれほど多くないだろう。
 内容的には、昭和初期の近代社会の文学隆盛の時代と現代の大衆社会での文学的な意味の比較をしてきた。文学の文化的な地位は、現代と大きな差が出たが、内容的にはそれほど大きな差はない。本書では、菊池寛の文学の内容的な価値と、芸術的価値の違いを論じているのを掲載している。学問的でなく、実作者の立場での視点で論じているのが特徴だ。

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2018年3月27日 (火)

文芸同人誌「火の鳥」第27号(鹿児島市)

【「三姉妹」本間弘子】
 高齢の父親が自転車乗っていて、突然倒れて入院する。成長して家庭をもっている三姉妹が、協力して父親の入院後の生活ぶりを見まもり支援する。父親の病状の観察記であるが、娘ならではの心使いが描かれる。描く範囲が狭くエッセイの世界であろう。
【「のどかな日々」(全五編)鷲頭智賀子】
 年老いた母親と暮らす主婦の日常を描く。静かでのどかな時を過ごす。なかにテレビ番組を見ていて、平野レミが出ている話がある。自分は、あるレコード会社のイメージ戦略の小冊子を編集担当をしていた時、平野レミにエッセイ原稿を依頼した。電話をかけると「はーい、平野レミは私でーす」と、いって、執筆を快諾してもらえた。私が20代後半のころだから、それにしても、彼女も相当の年齢であろうと、タレント生活の息の長さを痛感した。彼女の父親も夫も著名人だが、それを知る人も少ないのかも知れない。
【「世界ぶらり文学紀行」杉山武子】
 文学者のいた地域を個人旅行する。アトランタ(米国)では、「風共に去りぬ」のマーガレット・ミッチェル。パリ(フランス)では、カフェ「ドゥー・マーゴ」にまつわる話として、ヘミングウエイ、藤田嗣治、サルトル、ヴォーボワール、三島由紀夫などの滞在事実を紹介。ベルリン(ドイツ)では「舞姫」の森鴎外。ワイマール(ドイツ)の「若きウェルテルの悩み」。ストラストフォード・アボン・エイボン(イギリス)でのシェイクスピア。ロンドン(イギリス)での夏目漱石。上海(中国)では、「吶喊」の魯迅。それぞれの地域にちなんだ訪問記と文芸評論との合わせ技だが、どちらにしても、労多い割には、食い足りない。本人が足を運んだという意義がいちばん大きいのであろう。
【「喜びも悲しみも私の財産」北村洋子】
 冒頭に主婦が絵画で、地域の賞を取る話がある。しかし、家庭生活に専念するため絵筆を捨ててしまう。それからは、家庭の出来事の叙事に終始する。タイトルにすべてが表現されている。
【「『百鬼夜行』の妖怪と『徒然草』」
 鳥山石燕の浮世絵「百鬼夜行」が、吉田兼好の「徒然草」の題材を、妖怪と結びつけて描く、その事情を評論している。調べて疑問を解くのに作者特有の熱が感じられる。
発行者=鹿児島市新栄町19-16-702、上村方。「火の鳥社」
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2018年3月26日 (月)

文芸時評4月「仮想通貨」とは、ほとんど文学」石原千秋氏

   「仮想通貨」も悪いことばかりではない。アメリカにシェールガス革命が起きる前、石油の代替エネルギーにトウモロコシを使おうと発案されて、トウモロコシが投機の対象となったためにブラジルで深刻な環境破壊が起きた。現実世界の投機に向かうお金が「仮想通貨」に向かって泡と消えれば、環境破壊も起きない。お金のない人間の天下の暴論である。それで何を言いたかったのか。人は言葉の呪縛、記号の呪縛から逃れることはできないということである。文学は「言葉の芸術」(中村光夫)だが、それは言葉を使いながら、言葉では言えないことを書こうとする芸術だという意味でなければならない。「仮想通貨」とは、ほとんど文学だと思う。
 そのような意味において、林芙美子文学賞受賞作の小暮夕紀子「タイガー理髪店心中」(小説トリッパー)はみごとな文学となっている。もう老年となった寅雄と寧子(やすこ)が営む理髪店の日常が淡々と書かれる。はじめから息子が幼くして死んだことが暗示されていて、その地点にどうやって着地するかが読書の中心となる。山道で寧子が穴に落ちたとき、寅雄は自分の中に殺意を感じる。もうぼけはじめたかと思われる寧子が言う。「寅雄さんは、そうやって」「そうやって辰雄も殺したのね」と。この一言で、この作品の全編に殺意がみなぎっていたのだと「錯覚」させる。繰り返すが、これが文学というものだ。夏目漱石『夢十夜』の「第二夜」と「第三夜」の本歌取りと読んだ。それならば、冒頭は「柱時計が、静まりかえった店内に六回の金属音を響かせた。/寅雄は待ちかねていたようにガラス扉を押し開け、外に出た。」と2文にしない方がよかった。これでは志賀直哉である。日常の継続性を重視して「柱時計が静まりかえった店内に六回の金属音を響かせたとき、寅雄は待ちかねていたようにガラス扉を押し開けて外に出た。」の方がいい。
《参照:産経3月25日=早稲田大学教授・石原千秋 「仮想通貨」とは、ほとんど文学だと思う

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2018年3月24日 (土)

金田一秀穂氏が山梨県県立図書館の館長に

 言語学者の金田一秀穂氏(64)が4月1日付で就任する。6年間にわたり館長を務めた作家の阿刀田高氏は退任して名誉館長に就く。
父で国語学者だった故金田一春彦氏の記念図書館が北杜市にある縁から今回の人事が決まった。同記念図書館には春彦氏が生前に収集した蔵書など約2万8000点がある。

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2018年3月23日 (金)

「砂」136号と提携でやったこと

  当会は、自らの発表の場を持たないできた、それは、当会で文芸同人誌を自己表現の場とするならば、(事例として、他者が興味をもたないことでも、自分だけが興味あることを書く場合)金を出して印刷する前に、お互いにその価値があるか、コピーで読んで検討しようーー。という趣旨で、もし、そこで良いとなったら、出版社に売り込むか、文学フリマのように、普通人に売り込むために個人で本にしょうということで、やってきた。作家の穂高健一氏も、そのメンバーであったので、私が話題にしているわけである。
 ところが、昔から縁があって名ばかり会員だった「砂」誌から会員数がへって、長い原稿が出ないので活動休止の話がでた。そこから、続けて欲しい、という会員もいて、原稿不足の分を文芸同志会が提携することになった。
 そこで、トキワ精機の小林洋一社長への取材原稿があった。それは、長すぎるために、雑誌に持ち込んでも、掲載に不向きといわれていたもので「町工場スピリット・クロニクル」という。《参照:街中ジャーナリズムとメディア活動=伊藤昭一》。
  モノづくり企業を経営しながら、しかも中国に負けないコスト安、高性能の製品を作っている小林社長には、来客を待たせてしまうくらい長時間話してくれた。モノづくりの正義はどこにあるか、というテーマで、だれもあまり考えない理論だが、その発表ができない。一部をブログにしただけだ。申し訳ないとおもっていた。ちょうど「砂」なら自費でなら長く書いてもよい。さらに裏付けとなる資料の詳細も書くことが出来た。
 これを読んだ、小林社長は、納得したらしく、「まだ、話の続きがるから、また会社にきなさいよ」と言ってくれた。
  要するに、書いた人しか読まない「砂」を社会人の一人が必ず読む雑誌にしたのだ。次号の町工場は、(有)安久工機の社長で、医療工学博士である。町工場スピりットで、紹介記事を書きたいといったら、承諾してもらい、最新情報をもくれた。この会社は、横須賀にある国立研究所や霞が関の文科省にも関係があるので、発行されたら読むことになるだろう。間違えたら、大変であるが、緊張感をもって書くことで、読者が増えている。部数が少ないないのが、弱点だが……。もともと、自分の貧弱な頭で考えて創作しても、意外性や面白さで、事実にかなわない。文学の外に出る文芸誌になることを目標にしている。

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2018年3月22日 (木)

穂高健一『広島藩の志士』が好調=書店が応援

  明治審維新の歴史の新事実を取材で発見した穂高健一の著書『広島藩の志士』が好調な滑り出しという。当初出版した会社が倒産したら、とたんにネットで1万円を超える珍本となったのを、別の出版社から出したという、曰くが面白い。

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2018年3月21日 (水)

文芸同人誌「季刊遠近」第66号(川崎市)

【「マイホーム」花島真樹子】
 主婦の悠子の息子の洋介は、大学生の時は、一度は部屋を外に借りて通学していたが、やがて、実家に戻って、引きこもり生活をしている。そこで悠子が夫と洋介の間で、家庭のなかの調和に苦労する話。引きこもりに関する話は、多くあるが、ここでは、親には理解不能な(親でなくても、普通の感覚では、見聞しても理解しにくいであろうが)息子の精神や気分の断絶に関し、より実感の迫った表現になっている。
 およそ社会生活において、人間は自分の感情に逆らって行動せざるを得ない。そこで、かつては、盲腸になったり、神経症になったり、心の負担を見える形にしていた。この作品では、友人の医師が「これは心の問題ではなく、脳の問題だ」とアドバイスするところがあるが、その指摘が納得するようなところまで、洋介の状態を描いているところがある。やや抜け出ており、そこは優れている。とりたてて解決手段もなく、現状維持のなかで、生活を続ける主婦の姿を描いているのも、自然で普遍性がある。
【「川向うの子」小松原蘭】
 1970年代の、深川の風俗を描き、対岸の町を「川の向こう」といって、差別的な意識をもつ町の家に育った、女性の思春期の記。細かくさまざまなエピソードが描かれているが、
書いている間に、時代の風物への懐かしさが強く出ている。作者の差別に対する精神的なものの変化や、成長の痕跡も生まれてこなかったようだ。ただ、歳月の生み出す詩情だけが語られる。これも終章の一つの形であろう。
 これは一般論だが、生活記憶でもなんでも、描き始めと終わりの間に、精神的な揺れや方向性の違いなど、何らかのゆらぎや変化がないと、物語の形式に入らない。線を横にまっすぐに引いただけのものだ。もし線を波打たせるなり、どちらかに上下すると、絵やデザインに感じさせる。その原理は、小説に当てはまる。過去と現在とをたどって、同じところに精神があるというのは、物語的には、整合性があっても、現代文学としての栄養を欠いていること、カロリーゼロ飲料に等しいと自分は、考える。
【「生きて行く」坂井三三】
 一郎という男の、生活と人生をアサコという彼女との関係について、かたる。一郎の精神性やアサコの奇矯で複雑な行動が描かれている。文体は、ざっくりとした描き方で微妙なニュアンスの表現し難いものなので、そこから美文的な文学性の楽しみはないが、現代的であることは確か。どことなく、時代を表現する方向を感じさせながら、なにかその芯に当たらないようなもどかしさを感じさせる。
【「冬の木漏れ日」難波田節子】
 家族関係は、人間の生活構造の基本をなすものである。が、核家族化がすすみ、個人主義が行きわたると、その構造に変化が出てくる。ここでは、昔ながらの夫婦、親子の情愛を軸に、昔のような情感をもって生活できない、生きにくさを表現している。たとえば、両親や弟の進学のために婚期を逸したという女性の将来を案じたりする。実際には、そのために婚期を逸したというのは、周囲が思うことで、実際はわからないと考えるのが現代である。いずれにしても、ある時代に主流であった価値観を維持する家庭人の生活ぶりがしっかり描かれている。
発行所=〒215-0003川崎市麻生区高石5-3-3、永井方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2018年3月20日 (火)

「第二回文学フリマ前橋」」プレトークに萩原朔美×岡和田晃

   「第二回文学フリマ前橋」の開催を記念し、前日のプレトークイベントが決定した。前橋文学館館長の萩原朔美氏と評論家・岡和田晃氏が、「地域」と「文学」をテーマに語り合う。
【プレトーク「地域から始まる文学再生(ルネッサンス)」萩原朔美×岡和田晃】
・開催日 2018年3月24日(土)※「第二回文学フリマ前橋」の前日です
・開催時間 開場13:30 開演14:00
・会場 前橋文学館 3Fホール(〒371-0022群馬県前橋市千代田町三
丁目12-10)
・アクセス 上毛線「中央前橋駅」から徒歩5分。詳細は公式サイトをご参照
ください。
・参加方法 入場無料。直接会場へお越しください。
・内容
 文学のまち、前橋。
 ここで2度目の文学フリマ(各人が思う「文学」を、書き手が直売りするイベント)が開かれようとしているが、そもそも前橋の風土は萩原朔太郎をはじめ、数多の文学者を生み、育んできた。
 現代における、その牙城たる前橋文学館は、現代詩などの先鋭的な表現に深く理解を示し、朔太郎受賞作をはじめ積極的に顕彰を進めている。
 そして今回、「地域」と「文学」をテーマに、前橋文学館館長の萩原朔美と、『北の想像力』(寿郎社)の編集や「現代北海道文学論」(「北海道新聞」連載)の企画・監修をつとめ、22年ぶりに評論で北海道新聞文学賞も受けた岡和田晃(共愛学園前橋国際大学で非常勤講師もつとめた)が、「地域」から出発する文学のあり方、および可能性について、多様なトピックを絡めながら議論する。

【登壇者紹介】
・萩原 朔美(はぎわら さくみ)
1946年生まれ。映像作家、演出家、エッセイスト。60年代後半より、演劇、実
験映画、ヒテオアート、執筆活動等の分野で創作を開始。現在、前橋文学館館
長の職のみならず、表現を「仕事」として、精力的に活動。

・岡和田 晃(おかわだ あきら)
1981年、北海道空知郡上富良野町生まれ。2004年、早稲田大学第一文学部文芸
専修卒業。批評家、日本SF作家クラブ会員。「「世界内戦」とわずかな希望―
伊藤計劃『虐殺器官』へ向き合うために」で第5回日本SF評論賞優秀賞受賞。
北海道新聞文学賞受賞。

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2018年3月19日 (月)

同人誌評「図書新聞」(2018年3月3日)評者・越田秀男氏

  『『グレコ』でグッバイ』(森美樹子/九州文學40号)は、半世紀近く前の男二人女三人の重層的な三角関係ドラマ。当時この渦中にいて、なぜかこれまで直接の面識がなかった男女が、時を経て、関係図絵の不明だった部分をメールで交換しあう。結末は関係の糸が一つずつ切れていき、最後の糸、カフェ「グレコ」のオーナー夫人が彼を看取る。鋭く研ぎ澄まされた才は減衰し、母胎へと回帰していく様が、半世紀後の老人男女の衰えにコラボする。
 曾禰好忠の「由良のとを わたる舟人 かぢをたえ ゆくへもしらぬ 恋の道かな」の歌に導かれた三角関係ドラマが『ゆくへも知らぬ…』(岸本静江/槇40号)。舞台はフランス、日本絵画界のドンを巻き込む源氏物語絵巻の絢爛豪華な仕立て、その結末は「ゆくへもしらぬ」。ただ、好忠の歌の序詞だが、潮の流れの激しい河口で櫂を失って沖に流され、歌どころではない! 海上保安庁救難隊出動!
 『擬似的症候群』(小河原範夫/ガランス25号)。ギリギリ生活の母子家庭に性欲満足のため乗り込み結婚の約束も反故に。ん十年後、男は準ゼネコン常務執行役員まで上り詰め定年を迎える。人生、斜に構えてかわしながら生きてきた男が、突如正眼の構えでオカルトオカマと対決、みごと土俵下転落?
 『青と黒と焦げ茶色の絵』(杉本雅史/風土17号)。息子を事故で亡くし、その妻が孫をつれて実家へ。残された夫婦に溝、妻が痴呆症状を発し入院。そんな時、パチキチで借金地獄の夫から逃げ出してきた母娘と昵懇になる……。
   『夜の客』(工藤勢律子/民主文学628号)。作品は“創る”から“写実”へ。重苦しくなりがちな認知症介護のテーマを優しく包む――『夜の客とは、認知症の母が夜飛び起きて誰か来たと思って玄関に行くことを繰り返す行為のことだ。それがやがて、かつて帰りの遅い娘を心配しての母の姿であったことに気づく。
  『火傷と筮竹』(たにみずき/蒼空22号)。“書く”から“語る”へ―孫娘が頭皮を火傷し、婆は自分の不注意と自責し頭髪が生えてこないのではと心配する。これだけの材料で心に染みる作品となるのは、語りの術といえる。
 この“語り”について、西田勝は太宰の『魚服記』を評するなかで《あらゆる「言語」による表現は「音」による》とまで言う(『言語アートとしての太宰治のかたり』/静岡近代文学32号)。作品を読み解くのではなく、音を聴くことで別世界が現れることを、読むと聴くの解釈の違いを突き合わせながら説得力をもって示している。
 文藝“別人”誌『扉のない鍵』(編集人‥江田浩司)創刊。《自由な創作と発想の場として、多彩な表現の横断や越境》を目指す。「一枚のおおきな扉は おお空に吊され 身じろぎもせず 時に微風にたじろぐ……」(『蛭化』生野毅) (「風の森」同人
《参照:評者◆越田秀男ー読み解くよりも「音」を聴け(西田勝)――文藝“別人”誌『扉のない鍵』創刊、多彩な表現の横断や越境めざす

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2018年3月18日 (日)

「文学フリマ」の名称を意匠登録など望月代表が語る

  文学作品のフリーマーケット「文学フリマ」は、全国各地での開催され国内最大の文学フリーマーケットの拡大をしているが、その歴史とこれからを語る、「文学フリマとは?文学フリマのこれまでと、これから。」のトークショーでが、国分寺の胡桃堂カフェで開催された。《参照:望月「文学フリマ」事務局代表とトーク=影山「クルミド」代表
そこで、望月「文学フリマ」事務局代表は、これを全国展開する過程で、「文学フリマ」のポリシーをブランドとして維持するため「文学フリマ」の意匠登録などを申請していることを明らかにした。

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2018年3月17日 (土)

「夢枕獏の〈変態的〉長編愛」の大見出しで自費で新聞1ページ広告へ

  小説家・夢枕獏氏が3月下旬、朝日新聞に全ページ広告を出稿することがわかった。作家自身が掲載料を負担して広告展開するのは極めて異例のことだが、「忘れられかけている過去の作品をもう一度、多くの人に読んでほしい」という思いから、今回の再プロモーションに踏み切ることを決めた。 夢枕氏がこれまでに書いた作品は、共著や短篇、マンガ作品を含めると500点近く。そのなかには、書店店頭に置かれていないものも少なくない。
  広告には「夢枕獏の〈変態的〉長編愛」という大見出しをつけて、同氏が出広するに至った経緯を記す。また、読者にお勧めする本として、『大江戸恐竜伝』(小学館文庫、全6巻)、『東天の獅子』(双葉文庫、全4巻)、『陰陽師』(文春文庫、刊行中)を掲出する。
これを受けて、小学館、双葉社、文藝春秋は230書店でフェアを開催するという。

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2018年3月15日 (木)

文芸同人誌「私人」第94号(東京・朝日カルチャーセンター)

【「バグダット空港」えひらかんじ】
 前号に続いて、国際的な建築コンサルタント会社に勤務する設計者が、イラクのバグダット空港の建築設計のため社命で、現地の各国のコンペに参加し、無事そこの設計が採用されるまでの、国際人の活動ぶりを語る。人によるであろうが、私に大変面白く、中東の様子が分かって面白い。私自身、輸出入の仕事に携わり、やらされたのが、イラン・イラク戦争で、ODAがらみの輸出品がダメになり、倉庫に山積みの製品が何時までも処分できないでいたのを整理することもしたので、まるで無縁ではない話であった。
【「百ドル」根場至】
 これもまた、海外支社のサラリーマンもの。シンガポールでの日本企業に勤めるうちに、現地の従業員管理に手を焼く話。海外に支店をもつのは、日本企業が親会社で、そこの仕事を下請け的に扱うことが多いが、このエースはメーカーかなにかで、現地生産の企業のようだ。話は現地採用の男に、一杯食わされる話だが、いかにもありそうな事例。読み物として面白い。主人公の帰国してからの日本の社内体制に慣れるまでを書いたら、テーマが出来たかも知れない。
【「祭りの終わり」杉崇志】
 会社の人事部に配属された男が、景気の良い時は求人難で新入社員を集めるのに、手腕を発揮し、バブルが弾けると、リストラに腕を振るう。しまいには、自分もリストラされるかと思うと、実は重役に出世してしまう。会社人間のパターンの一つとして、時代の記録になっている。
【「隣家の火事」みず黎子】
 隣の家の火事によって、自分の家の火事になった騒動を想い起こし、そこから家庭環境の出来事が語られる。小説的な形式をもった生活日誌。
【「ラビリンンス・さん」伊吹萌】
 ラビリンスさんというのは、貪欲や嫉妬など、不吉な欲望に取りつかれた不幸な人のことを示すそうである。話は資産家の年上の男と結婚した妻が、若い愛人をもって、暮らす。やがて、彼女が夫と登山した時に、夫は崖で滑落死する。語り手は、それ以前にの夫から、自分の身の上になにかあったら、読んで欲しいという手書きを持っている。妻の夫殺しの状況は濃厚だが、証明はできない。
 話の進行が遅く、まだるっこいが、細部の書き込みは、熱意があって、意欲がにじむ出来合いで、面白く魅力をもった作品である。小説教室で語りの本質を学んだ成果が発揮されているようだ。
【「E・ヘミングウエイの時代」(二)尾高修也】
 ヘミングウエイが、「武器よさらば」以後の長編小説と資質における短編小説への傾斜との関係につて触れている。勉強になる。現代文学の話題作は、すこし以前は、世界も日本も、ガルシアマルケスなどフォークナーの影響が強かった。
 現代は日常での通信手段では、ヘミングウエイのタイプライターの産物とされる短文の積み重ねが普及している。その点で、ヘミングウエイは短文で意味を深く表現し、幾度も読み返せる点で、優れた作家だと思う。テーマが人生の空虚さに関連しているのが、良いのかも知れない、と思った。
発行人=〒346-0035埼玉県北本市西高尾4-133、森方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2018年3月14日 (水)

菊池寛の【作家凡庸主義】と文芸同人誌

「文学が人生に役立つとき」(伊藤昭一)の疑問は、この菊池寛の文学論からはじまった。そこで、この論を全文掲載し、論じてみた。そして文芸同人誌には作家になるつもりはないが、自己表現としての生活作文が多く存在することと照合したのである。《参照:「菊池寛の作家凡庸主義と文芸カラオケ化の分析」を書籍化》
 菊池寛の文学論【作家凡庸主義】
 芸術――この場合特に文芸――に携わるためには、特殊の天分が必要であるように言われている。気質なり感覚なり感情なりに、特殊の天分がなければ、文芸は携われないように言われている。そして多くの人達が、天分がなくして文芸に携わることの誤ちを警告し、またそうしたために起こった凡庸作家の悲哀を語っている。
 しかし、果たして、そんなものだろうか。文芸とは選ばれたる少数の人のみが携わるべき仕事だろうか。凡庸に生まれついている人間は、ただそうした少数者の仕事を指をくわえて見物し、彼らの作品を有難く拝見していなければならないものだろうか。ーーというものだ。

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2018年3月12日 (月)

絶版の穂高健一「二十歳の炎」(日新報道)の高騰が収まるか

  明治維新の歴史を解明した穂高健一の「二十歳の炎」(日新報道)が、アマゾンなどでは絶版本として希少価値が出て、いっとき3万円台まで暴騰した。作者が手持ちや在庫をかき集めて市場に流し、3000円台まで下がった。  それも、焼け石に水で、現在は8250円である。(2018.3.10)。
 珍しい事例だが、これからどうなるか?
 穂高健一著『広島藩の志士』(1600円+税)が広島・南々社から、3月12日に全国の書店・ネットで販売される。同書は、「二十歳の炎」(日新報道)の新装版である。「まえがき」「あとがき」「口絵」が付加されている。《参照:穂高健一ワールド
 「二十歳の炎」の帯には『芸州広島藩を知らずして幕末史を語るなかれ』と銘打った。絶版本が高額のために、大勢の方々に幕末の広島藩の役割を知ってもらうことができなくなった。
こんどそれが、『広島藩の志士』(1600円+税)として出る。3月12日に全国の書店・ネットで販売される。同書は、「二十歳の炎」(日新報道)の新装版である。「まえがき」「あとがき」「口絵」が付加されている。

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2018年3月11日 (日)

文芸時評2月(東京新聞)2月28日=佐々木敦氏

 《対象作品》本谷有希子「静かに、ねぇ、静かに」(『群像』3月号)/松尾スズキ「もう『はい』としか言えない」(『文学界』3月号)/市原佐都子「マミトの天使」(「悲劇喜劇」3月号)/松原俊太郎「またのために」(「悲劇喜劇」)/市原佐都子「虫」(『すばる』2016年6月号)。
  松尾も本谷も演劇から小説に越境してきた才能だが、演劇専門誌『悲劇喜劇』の3月号に、劇団「Q」を主宰する劇作家、演出家の市原佐都子の小説「マミトの天使」が掲載されている。松原俊太郎の初小説「またのために」を掲載しており、意欲的な編集方針と言えるだろう。市原は以前「虫」(『すばる』2016年6月号)という小説も発表しているが、そちらは「Q」としての演劇作品の小説版だった。今回はオリジナルだと思うが、原稿用紙百十枚の中編を、「Q」の芝居を彷彿(ほうふつ)とさせる濃密で異様なテンションのモノローグ(独白)で押し通している。ほとんど狂気の域に達するほどに「正常」な女子のモノローグ。正常であり過ぎるからこそ、この世界では、こんな世界では、狂うしかないのだ。新聞では粗筋を紹介するのも憚(はばか)られる内容だが、この言葉の力は相当なものである。市原も遠からず文学の側から注目されるだろう。
 《参照:本谷有希子「静かに、ねぇ、静かに」 松尾スズキ「もう『はい』としか言えない」 》 

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2018年3月 9日 (金)

「文学が人生に役立つとき」(伊藤昭一)の少売り出し

  「文学が人生に役立つとき」伊藤昭一(文芸同志会)の発売を開始しました。3月早々に出来上がっていたのですが、郵送料がゆうパックが一番安いようですので、700円+180円=880円にしました。《参照: 「菊池寛の作家凡庸主義と文芸カラオケ化の分析」を書籍化
 本書は、「なぜ「文学」は人生に役立つのか」の小冊子で販売していましたが、興味のある人が少なからずいて、安定して売れてましたが、3回くらい増刷しました。さらに、その続編を「詩人回廊」に掲載し、コピーの附録つきで、第2弾として販売。それが、去年の「文学フリマ東京」で、すべて売り切れとなりました。
 元来は、こうして小冊子を何冊もシリーズで発行し、最終的に著作化しようとしていたもの。しかし、小冊子二回分でかなりの量があり、印刷の関係もオンデマンドで、必要なだけ印刷できそうなので、著作化しました。
 文学フリマのメイン販売本として制作したのですが、今から前売りの大売り出しならぬ「少売り出し」を開始します。
  ここでは、沢山の同人誌を読んできて、その傾向を把握し、その結果得た肌触りを軸に評論をしています。もともと菊池寛は、詩を書いていた時に、「詩」はいずれはなくなる、という彼の論を読み、興味をもち、愛読した時代がありました。彼の持論は、生活が大事、作家になる前に、まず生活しろというもので、今でも自分はそうだな、と思ってます。
 自分はマルク主義思想の経済社会制度を学んできて、文学畑でないので、その発想が基になっています。作品の構成については、文学論としては、まず同時に論じられることのない、地球の人口の増加と経済成長の上に、文学の発展があるとする視点です。同じ視点がないかと、探したところ、東裕紀「観光客の哲学」がわずかに関係しているので、その論もすこし取り上げています。観光客をクラウドとして把握するのも、人口増があるからだと思います。
 こういう発想は、あちこちに部分的な書いているので、それをここでまとめたものです。
 文芸同人誌を送っていただいて、読んでいるのも、社会人の発想の在り方として、観察させてもらっています。そのうちに「文芸同人誌に読む、社会構造の変化」というのも書こうと考えています。作品の出来の云々よりも、こういう作品が生まれる時代は、どんなものか、ということで、人間の意識の変化を観察できるのではないでしょうか。

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2018年3月 8日 (木)

外狩雅巳の観察小説と「機械」(横光利一著)について

  外狩雅巳が「詩人回廊」に連載している「安売りショップの特別販売に通う日々」を、推敲した上で「特別販売に通う日々」と改題し、同人誌に掲載する予定であるという。
  これに対する読者の反応について、作者は自分の意図がどのように伝わるか、わからないとしている。評価で先のわからないものほど、同人雑誌にふさわしい作品はないであろう。
 じつは、自分はこの作品は現代的な文芸の試みとして、高く評価している。このように、ひとりの視点から、出来事を述べるという形式で、味わいがあるのは、現在では珍しい。
  かつてのモダニズム文学の旗手とされた横光利一は、「機械」という短編小説で、新手法を駆使した実験小説を書いている。これは、ネームプレート製作所で働く「私」の心理を書き、作業員同士の疑心暗鬼と諍いを書いたもの。段落や句読点のきわめて少ない独特の文体で、複雑な人間心理の絡み合いが精緻に描かれ、一つの抽象的な「 詩的宇宙」が形成されている。一人称の「私」以外の「四人称」の「私」の視点を用いているのが、特徴である。
  私といえば、一人称で、視点が内部のものであるが、四人称の「私」というのは、私が幽体離脱して、外部からみたような視点をもつということである。
 そういう視点からすると、外狩作品における語り手は、「私」なのか、誰なのか、読者の判断が迫られる。それがわからないから、欠点だという見方ではこの話の面白さは理解できないであろう。叙事と叙事詩の違いの解釈もある。
  作者の外狩氏は、時代を肌で感じているが、文学の形式理論には無関心なので、短文を積み重ねたスピード感など、感覚的に現代人ならでの実感と無意識の文学形式が並走させるところも、読み方としてある。(北一郎)

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2018年3月 5日 (月)

高原到「『日本近代文学』の敗戦」とメルトダウン

  国の衰亡から目を逸らすのは、国民の当事者意識としては、仕方がないところではあるが、そこには日本の世界的な視点での現実を見ようとしなかったことがあるのでは…。その一つに無条件降伏した太平洋戦争を、終戦と称し、敗戦としなかったことに、抵抗感なくすごしてきた感覚がある。そして珍しく、それを敗戦とするタイトルに目をひかれてて読んだのが、 「群像」3月号に「日本近代文学の敗戦ーー『夏の花』と『黒い雨』のはざまでー」(高原到)である。原民喜と井伏鱒二の作品を、現在の視線で描いている。そして、そのなかで、昭和天皇の戦争責任についても記している。ーー昭和20年8月15日の玉音ラジオ放送「終戦宣言」で、堪えがたきを堪えて忍ぶーーと文語体のには、戦争責任には触れず、その次に、「第二の終戦宣言」文学における戦争責任を問い得ないものとして、論破しようとしなかったーーという見方をしている。そして、政治と文学が敗北してきたことの経過を、原と井伏の作に見ている。評論のなかに、メルトダウウンと格納容器という用語が活用されていることも、新味である。
 おりしも、平成天皇が今月に沖縄を訪問するという。5月には、沖縄への観光客運動「この子、は沖縄だ… 」がある。

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2018年3月 3日 (土)

赤井都「言壺便り」~桃色の時間に爪の先ひっかかる号~

  言壺便り(メールマガジン)2018.3.2 No.146。
■蔵書票のオーダー承ります=1月のLe Petit Parisienでの展示の後、蔵書票のオーダーをいただきまして、お名前刷りなどを初めてしてみました。
 製本に何かつなげようと、刷りあがった蔵書票を、単に紙束としてお渡しするのではなく、ピッタリサイズで函を作ってみました。クラシカルな雰囲気にしました。革と金がとにかく今は好きなので。票主になる方は本好きで蔵書票をオーダーされるわけなので、お名前を著者名のような雰囲気でタイトルと一緒に箔捺したらよいよねと、やってみました。
  作ってみて、喜んでいただけて、私自身も、「あー本じゃなくても楽しいんだー」と、刷りと製函の魅力に気づきました。この調子で、あと二件くらいなら、蔵書票を刷れそうなのでもし、「私も欲しい!」という方がいたら、メールを下さい。28000円+送料1000円で30枚ずつ二種60枚、お名前入りの函つきで、4月頃の出来上がりとなります。
  色は青系、赤系、紫、緑、茶などざっくりご指定いただき、紙は和紙、お名前はローマ字センチュリー12ポイントでデザイン詳細はお任せ下さい。先着順に受け付けします。ご遠慮なくどうぞ!
■二月から三月へ
 2月28日に、オヤ今月最後の日だ! 言壺便りを発行しよう、と思ってから、なぜ今日が3月2日なのか? 謎が深い言壺便り・桃の節句前日号となっています。時間が流れ去る方に、爪の先をひっかけてしがみついて仕事を進めているようなかんじがします。
でも、ひとつずつの時間はゆったりと流れていて、人と会ったり、本を修理したり、印刷したり、ひとつずつ焦らずに、集中して楽しんでいます。
手作りにふさわしい小さなオーダーをいただき、手作りで小さく応えています。「今・ここ・自分」に集中するのはできています。ただこの方式だと、刹那的に生きているので、先のことがいまひとーつ考えにくくなって、ある意味、「のんびりしてる」に近い状態になっています。それくらい、先のことを考えず、今を楽しめています。良いのか悪いのか、ともかく、これまでの時間の流れとは違ったフェーズに出てきていて、時間の滝は桃色の山に流れていて、私は爪の先で爪渡りしています。
■言壺便りについて
掃除機を買い替えました。ハンディでも吸えて、仕事部屋から謎の灰色の綿埃的なものをどんどん吸い取っています。もしかしてやすりかけしたボードのかすが、あちこちに降り積もっていたのかなー。でもこれで安心。進化した新しい掃除機で、部屋をピカピカにしています。
バレエは、ちょこっとうまくなってきたみたいですよ! 今月からポワントシューズを履き始めますよ。怪我しないように、趣味として楽しみます。~毎月ほぼ25日
《参照:赤井都・言壺

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2018年3月 2日 (金)

第7回自由報道協会賞に「ブラックボックス」(伊藤詩織)が受賞

 今年の自由報道協会賞に《伊藤詩織『Black Box』(文藝春秋)》に決まった。この本は、強姦されて「いたい、いたい」と叫んだなどという、かなりエロい話が事実として書いてあるのだが、おそらくテレビや新聞で、あまり報じられていないであろう。
  実際に読むと、エロい感じは、どこかにいってしまう。ここには、前にも述べたが、作者の自我の確立の苦悩が伝わってくる。
  ただ「ブラックボックス」248頁に作者が、この事件の整理をしている箇所がある。
 ――あの日の出来事で、山口氏も事実として認め、また捜査や証言で明らかになっている客観的事実は次のようなことだ。――とする部分を引用する。
          ☆
・TBSワシントン支局長の山口氏とフリーランスのジャーナリストである私は、私がTBSワシントン支局で働くために必要なビザについて話すために会った。
・そこに恋愛感情はなかった。
・私が「泥酔した」状態だと、山口氏は認識していた。
・山口氏は、自身の滞在しているホテルの部屋に私を連れて行った。
・性行為があった。
・私の下着のDNA検査を行ったところ、そこについたY染色体が山口氏のものと過不足なく一致するという結果が出た。
・ホテルの防犯カメラの映像、タクシー運転手の証言などの証拠を集め、警察は逮捕状を請求し、裁判所はその発行を認めた。
・逮捕の当日、捜査員が現場の空港で山口氏の到着を待ち受けるさなか、中村格警視庁刑事部長の判断によって、逮捕状の執行が突然止められた。
 検察と検察審査会は、これらの事実を知った上で、この事件を「不起訴」と判断した。
 あなたは、どう考えるだろうか。
           ☆
 本書は、これだけの事実の間における、内面的な苦痛と、刑事事件として告訴することによる、社会な人間関係の破綻と、個人のプライナシーの情報の公開による苦悩が記されている。
  それでも、悪いことをしても逮捕されない出来事がある。警察人が、どのようにして出世するかが学べるのだが、お茶の間でのテレビとは相性が悪く、放送されない事件もあるということが、わかるのだ。

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2018年3月 1日 (木)

文芸同人誌「クレーン」39号(前橋市)

【「花祭りのあと」糟谷和美】
 作者が、東京・赤羽の改札口を出たところを話の糸口にしている。十年ほど前に亡くなった母親が、赤羽出身である。ここでの、工場経営者の祖父と母親の戦前戦後の運命が、手短に語られる。
 母親が工場経営者の娘で、裕福だった子供時代に、荒川で泳いだり、近くの「常勝寺」のあるとろだったらしい。その寺は、作家・安岡章太郎の作品の「花祭」の内容から、安岡が中学生時代に、成績が悪いので預けられた(作中では入院)ところだったことがわかる。この安岡章太郎の「花祭」の引用が楽しめる。何気なさのなかに微妙な味わいのある文体は、改めて文学的な表現の重要さを認識させられる。
 それだけなく、語り手の母の実家の祖父の時代に負の歴史をもつ墓の前に立つ。そこは、語り手の曾祖父にあたる男の自死の悲劇があった。その墓が存在するということは、親族の誰かが建てたということになる。しかし、語り手は、寺の過去帳を見て、事情を詮索する気にならない。
 第三の新人といわれた作家たちは、地味な作品のものもあり、ここでは安岡章太郎の作品の舞台となった世界を広げる役割果たす良い作品に思えた。
 現代文学界の表現が、技術の発達によってなのかは、わからないが、過去の文学的な精神基盤から乖離した位置にいるように感じる。あらためて、旧来の文学的な基盤を見つめることも必要であろう。
【「天皇制廃止を訴える」わだしんいちろう】
 タイトルは、まるで評論かオピニオンのようだが、形は小説である。連常寺行夫という男が「現在(いま)、天皇制廃止を訴える」という講演をするという。主催は「天皇制廃止を訴える会」。語り手のぼくは、極左団体の政治集会のかくれみのではないかという懸念をもつ。しかし、出かける。その前に、紅い蜘蛛が腕に這っているのを振り落とす。
 それから行ってみると、連常寺は、1926年生まれで、戦時中は戦争に行ってしぬものだと思っていた。友人には、特攻隊員なって出撃した者もいるという。城山三郎の小説「大義の末」にある、自分の幸福より、大義である忠君愛国だけを思いつめてきた、という一文を例にとり、国民が天皇の命令によって、戦争にいった。それなのに敗戦になって昭和天皇は、責任をとらなかった。そこで、敗戦以後彼は、天皇制廃止を訴え続けて来たという。
 そこから天皇制の発祥の由来や、その根拠の解説をする。彼らのグループと僕は、なんとなく縁ができる。連常寺は高齢ながら周囲の女性にもてもてで、エロい関係も堪能している様子が描かれる。ぼくは、ばからしくなる。ただ、その時に、天井が赤い色になっている幻影を見る。末尾の参考資料に、「大義の末」のほか、「語りの海吉本隆明①幻想としての国家」、「吉本隆明が語る戦後55年⑨天皇制と日本人」が、ある。詩人や文芸評論での文学的な世界だけの話のようだ。
 無条件降伏した日本における昭和天皇の戦争責任は、戦争勝利国によって、免責され「象徴」として、憲法にその存在位置を明記し、保証された。象徴の神に祈る貴人として天皇の存在は、神話のなかにあり、その発祥を問うことは、事実上できないであろう。また、天皇制についての改変は、憲法改正を意味するのが、現実である。
 宗教の自由を標榜する欧米には、聖書に誓うことで、正義を問うている。キリストも、その生誕根拠も、神話の世界のものである。また、州法によっては、ダーウインの進化論を教えることを禁じる法律が存在する。神の創造した人間の祖先が猿だなんて、許せないのである。矛盾をそのまま抱えてきたのが、法である。急いで直す必要があるものと、そうでないものがある。
 まさに、「幻想とともに生きる人類」としての憲法を持つ(ない国もあるが)人間像と向き合わないと、現代とのズレが目立ってしまうのではないか。
【「最後の西部劇」田中伸一】
 これはクリント・イーストウッドの映画人の記録と、ジム・ジャームッシュ監督の作風評論である。イーストウッドの映画は、テレビでいくつも見ているが、知らなかったことが多いし、ジム監督の話も面白い。
発行所=〒371-0035群馬県前橋市岩神町3-15-10、わだしんいちろう方。前橋文学伝習所事務局。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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