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2018年3月21日 (水)

文芸同人誌「季刊遠近」第66号(川崎市)

【「マイホーム」花島真樹子】
 主婦の悠子の息子の洋介は、大学生の時は、一度は部屋を外に借りて通学していたが、やがて、実家に戻って、引きこもり生活をしている。そこで悠子が夫と洋介の間で、家庭のなかの調和に苦労する話。引きこもりに関する話は、多くあるが、ここでは、親には理解不能な(親でなくても、普通の感覚では、見聞しても理解しにくいであろうが)息子の精神や気分の断絶に関し、より実感の迫った表現になっている。
 およそ社会生活において、人間は自分の感情に逆らって行動せざるを得ない。そこで、かつては、盲腸になったり、神経症になったり、心の負担を見える形にしていた。この作品では、友人の医師が「これは心の問題ではなく、脳の問題だ」とアドバイスするところがあるが、その指摘が納得するようなところまで、洋介の状態を描いているところがある。やや抜け出ており、そこは優れている。とりたてて解決手段もなく、現状維持のなかで、生活を続ける主婦の姿を描いているのも、自然で普遍性がある。
【「川向うの子」小松原蘭】
 1970年代の、深川の風俗を描き、対岸の町を「川の向こう」といって、差別的な意識をもつ町の家に育った、女性の思春期の記。細かくさまざまなエピソードが描かれているが、
書いている間に、時代の風物への懐かしさが強く出ている。作者の差別に対する精神的なものの変化や、成長の痕跡も生まれてこなかったようだ。ただ、歳月の生み出す詩情だけが語られる。これも終章の一つの形であろう。
 これは一般論だが、生活記憶でもなんでも、描き始めと終わりの間に、精神的な揺れや方向性の違いなど、何らかのゆらぎや変化がないと、物語の形式に入らない。線を横にまっすぐに引いただけのものだ。もし線を波打たせるなり、どちらかに上下すると、絵やデザインに感じさせる。その原理は、小説に当てはまる。過去と現在とをたどって、同じところに精神があるというのは、物語的には、整合性があっても、現代文学としての栄養を欠いていること、カロリーゼロ飲料に等しいと自分は、考える。
【「生きて行く」坂井三三】
 一郎という男の、生活と人生をアサコという彼女との関係について、かたる。一郎の精神性やアサコの奇矯で複雑な行動が描かれている。文体は、ざっくりとした描き方で微妙なニュアンスの表現し難いものなので、そこから美文的な文学性の楽しみはないが、現代的であることは確か。どことなく、時代を表現する方向を感じさせながら、なにかその芯に当たらないようなもどかしさを感じさせる。
【「冬の木漏れ日」難波田節子】
 家族関係は、人間の生活構造の基本をなすものである。が、核家族化がすすみ、個人主義が行きわたると、その構造に変化が出てくる。ここでは、昔ながらの夫婦、親子の情愛を軸に、昔のような情感をもって生活できない、生きにくさを表現している。たとえば、両親や弟の進学のために婚期を逸したという女性の将来を案じたりする。実際には、そのために婚期を逸したというのは、周囲が思うことで、実際はわからないと考えるのが現代である。いずれにしても、ある時代に主流であった価値観を維持する家庭人の生活ぶりがしっかり描かれている。
発行所=〒215-0003川崎市麻生区高石5-3-3、永井方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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