自己確立と権力三位一体における「ブラックボックス」の意味
最近は唯物論と唯心論という対照で、ものを考えることが少なくなった。それは心が脳の活動であり、脳は身体という物質でできているという事実への意識が、広まってきているからだろうと思う。身体は、その人の存在の在り方を決めるものであり、自己確認の基本的なものがあるからであろう。
伊藤詩織著・ドキュメント「ブラックボックス」については、出来事の結びつきが、警察官僚、安倍内閣、メディアという権力構造の三位一体の関係を表現しているので、政治色をもったものとして、読んでしまう。
そのなかで、妙に文学的なところもあって、知人でジャーナリストとして畏敬していた男性にレイプされたことに、常に「何故?」という疑問をつきつけて、それを追求するところは、まさに純文学的こだわりとして、文学的なテーマ追求にも読める。そんなことから、彼女の話を聴きに行った。《参照:伊藤詩織氏は英国を拠点に活動!#Meを#Weへ》
結局、この話はレイプによって自己の尊厳が、自分で維持できなくなって、苦悩する自分に何故?と問うているようにも読める。それから自我の確立の回復段階に入っているのであろう。ただ、これだけ追及して書けるのは、かなりの手腕、才能である。おそらく、山口というジャーナリストは、彼女にその自我をやっつけたくて、確信的にレイプしたようにも、読める。だから、「やってやった」という気持ちがあって、謝罪などする気はないようにの受け止められる。
| 固定リンク
コメント