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2018年1月31日 (水)

町工場の技術フェアを観に行く

  以前に、商工会や工業会の機関紙や、ネット報道をしていたので、今年も観にいった。《参照:おおた工業フェア
 現在、町工場は一時期より景気がいい。なかには、大企業の納期に追われて多忙なところもある。会場では、たまたま、「ものづくりの正義」について、つくらないモノづくりを志向するトキワ精機の木村社長にもばったり。(同人誌「砂」にその会社の年代記を書いたばかり。取材したのが2014年なので、「その後の経過も、そのうち教えますよ」と言っていた。今日は、昔の知り合いに次々と出会い、疲れた。そのなかで、山形の町工場まち白鷹町のファシエーターに出会って、お米までもらった。記事にするかな。
 NHKドラマ「町工場の女」のモデルとなった女性社長を取材して、ライブドアニュースで報道したこともある。ほかにも女性社長で手腕のあるひともいるが、報道の火付け役がないと、眼にとまらないものだ。街中ジャーナリズムをどの方向でいくか、

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2018年1月29日 (月)

文芸時評 2月号 早稲田大学教授・石原千秋

 僕は、「文学の近代」という授業でいつもこう話している。大都市や大学構内や公共施設に多い真っ直ぐ延びる直線の道は権力の象徴であると、そして日本の都市には広場がないから革命は起きないと。すばるクリティーク賞受賞作の近本洋一「意味の在処-丹下健三と日本近代」の冒頭の一文「僕たちが何かの病気にかかっているとすれば、広場へ向かわなくてはいけないのではないだろうか」を読んだその瞬間に、ようやく広場と直線との関係を解く評論が現れたと期待した。その期待は半ば満たされ、半ば満たされなかった。
《参照:産経2月28日ー「芥川賞までの人」になる予感がする 2月号 早稲田大学教授・石原千秋

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2018年1月28日 (日)

スピーチライター近藤圭太氏との言葉の潜在力で交流

  スピーチライターの存在について、トランプ大統領が自己流ツイッターで暴言をはいても、正式な演説では、スピーチライターのものを使うので、辛うじて整合性とれているという話がある。スピーチライターもその面では米国では一般的に知られているようだ。そんななかで、今日は、スピ―ライターの近藤圭太氏《参照:コメントサイト》と情報交換を行った。
 現在、ライター活動の他に、言葉お持つイメージの特性を調べているそうで、たとえば「真面目な人」というと、きちんとしている、とか正義とかのイメージがある反面、融通がきかないというネガティブイメージもあるーーとかいう事例をあつめているらしい。関連本も出す予定だそうである。とにかく日本のスピーチライターの状況が少しわかって、参考になった。

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2018年1月27日 (土)

「砂」136号の発行で、外部取材で社会性を

 文芸同人「砂」136号の発行が出来た。これまで、文芸同志会は、発行媒体を持たなかった。それには、個人主義の徹底という思想があって、群れて何かをするということをしない。自分で出来ることをするという方針があってのことだった。「響ルーム」という事業活動もやめ、事務所を引き払い終わった。、一度は廃刊を宣言した。そこに、縁あって、入会していた「砂」という同人誌が、運営委員のうち、会計係、連絡係が病にたおれた。さらにこれまで主筆のようになっていた編集委員の宇田本次郎氏も亡くなるという次第で、混乱していたが、会員に継続して欲しい人がいるというので、文芸同志会が本格的に加わり、提携することになった。
 よく、会員が少ないと嘆く人がいるが、かまわないのである。普通は作家は一人で書くが、読者は大勢というのが正常な姿。だから、作家といわれるのだ。それが、会員作家は多いが、読者がいないという感覚が異常に思わないところに、歪みがある。その歪みになれた人たちが、物を書いても世間から普通には思われないのは当然。
 これを課題として、「砂」に参加します。
 会員が少ないという同人もいるとんことなので、新会員を募集します。遠方でも大丈夫です。合評会に参加できなくても、文芸同志会にきけば感想は出します。《参照:「砂」第136号は、文学フリマ活動や町工場の物語もある
 ただ、何か特典も必要であろうと、「砂」同人になったら、サイト「詩人回廊」への掲載手数料を無料にします。海外でも読むことができます。また、孫や子に、原稿メールを依頼すれば、会話が生まれます。 

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2018年1月24日 (水)

評論家の西部邁の死は、純粋保守の終焉か?

  「俺は本当に死ぬつもりなんだぞ」-。1月21日に死去した西部邁さん(78)はここ数年、周囲にそう語っていた。平成26年の妻の死などによって自身の死への思索を深め、著作などでもしばしば言及していたという。
 昨年12月に刊行された最後の著書「保守の真髄」で、西部さんは「自然死と呼ばれているもののほとんどは、実は偽装」だとし、その実態は「病院死」だと指摘。自身は「生の最期を他人に命令されたり弄(いじ)り回されたくない」とし「自裁死」を選択する可能性を示唆していたとも。
 言論人として人気を集めたきっかけは、テレビ朝日の討論番組「朝まで生テレビ!」。「保守」を思想レベルまで引き上げた知性は、左右を問わず多くの知識人の尊敬を集めた。
  親米の論客からは「反米」と批判されたが、最大の問題意識は独立の精神を失い、米国頼みになった日本人に向いていた。いつも「今の日本人は…」と憤りを語っていたという。
《参照:東日本大震災「祈りの日」式典=東京
  西部さんは1月21日未明から行方不明になっており、同居していた家族が探していたところ、多摩川に流されている西部さんを発見したという。
 現場は東急東横線多摩川駅から西に約600メートルの野球のグラウンドやサッカー場などがある河川敷近くというから、この風景《東横線多摩川駅》の電車の向こう側奥の岸辺であろう。
  岸辺の石を集めて川内に突出しているものがある。入ればすぐ低体温でしびれて失神絶命するだろうな。

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2018年1月22日 (月)

文芸同人誌「文芸多摩」10号(町田市)

  【「常識のかけら」一条まさみ】
 キミエという社会人になりたての女性が、アパートを借りて、神田の小さなデザイン会社に勤める。そこで社会の仕組みを学ぶことを、常識のかけらを知るという意味のようだ。
 時代は明確でないが、デザイン会社でキミエが業界新聞の題字のレタリングを定規やフリーハンドでおこなっているところや、生活事情から、戦後の復興期の時代と推察できる。
 父親は結核療養中で、母親は同病で若死にしたなかで、零細企業の社員の生活が描かれる。生活上の苦しい状況の描写に重点を置かず、若さ生活力をつける軽い描き方に、工夫がみられる。ただし、作者の話によると、家庭内の状況には大変な苦労があったそうである。ただ、それをは省いたことで、明るいトーンで話のまとまりが良くなった。
【「『穴熊』と少年恵介】
 恵介少年が国民学校6年の時に、太平洋戦争がはじまった。場所は四国山脈の眉山の麓である。なにも疑わず国民全体が、国の大本営発表を信じ、日本人が一体となって戦意高揚に戦争を支持する勢いが描かれる。主人公は、少年の恵介であるが、作者は少年の視線をもとながら、冷静な筆使いでそれを客観的に描く。
 「穴熊」というのは、城東中学校の校長に生徒たちがつけた渾名である。内心は世相に批判的だが、とにかく良心に従って、生徒の勉学をすすめた。ただし、成績優秀生徒が、陸軍や海軍の士官学校に進もうとすると、それを押しとどめて他の進路をすすめたので、世間から批判されることもあった。
 米軍の空襲で多くの民間人が焼夷弾で焼け死ぬなか、「穴熊」は、自らの危険を顧みず逃げ遅れた生徒が合いないか、見回る「穴熊」の姿を少年は見る。なかでも、天皇陛下の御真影を守るために命がけの活動をする国民たちの姿を描いているのは、象徴的である。
 敗戦がわかった少年は、<なんだ! 日本は神の国ではなかったのか><国や神様がウソを教えて来たのか>とわかり、<もうだまされないぞ。自分で考えるのだ>と少年は決心する。校長の「穴熊」は戦後、郷里の岡山に帰り、裁判所の判事を務めたという。
 少年時代に、個人よりも国家集団を優先した時代。神の国とsれたその雰囲気と考えが敗戦で一変してしまった時代の一番の被害者の立場が、静かで冷静な調子でよく示されている。
【「10歳の階段」原秋子】
 メイコは小学4年生で、その学校での運動会などの生活ぶりが描かれる。運動会では、リレーには出るが、ソーラン節などのダンス競技には、誘われても出ない。自分は、皆のように熱心に練習をしていないのに、一緒に踊るにはふさわしくないと感じるからだ。また、徒競争では身体の不自由な生徒に、ハンデをつけて走らせていることに、当人はそれをどう感じるのだろうか、と思ったりする。とにかく論理性のある考えをするのだ。
 一見、童話的な調子の中に、生活はどうあるべきかを、大人に考えさせるという思想をもった作品であることがわかる。そう見ると、興味が湧く形式の作品である。
【「差し出された手」木原信義】
  大学を卒業して教師になる過程をへて教員試験に合格した河村明。だが、東京都教員組合の分裂動向や本部との軋轢などで苦労する。共産党にたいする風当たりの強さなどが語られる。具体的には、図書館教育のなかでの親子読書運動の成果が語れる。教育者の外部圧力と教育活動の難しさが示されている。
発行所=194-0041東京都町田市中町2-18-042、木原方、日本民主主義文学会、東京・町田支部。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2018年1月18日 (木)

総合文芸誌「ら・めえる」第75号(長崎市)

 本誌は長崎ペンクラブによる「ながさき総合文芸誌」という独自のスタイルをもった地域誌のようだ。地元の文化資料として宮川雅一「終戦直後に斉藤茂吉の書いたハガキ」については、別サイトで紹介している。
【「夢の中の教会への巡礼・ローマ劫掠一五二七」吉田秀夫】
 1520年代の欧州を席巻したローマ帝国とルタ―宗教改革運動、権力の内部争いの歴史が、鳥瞰的な視点で物語化されている。こうした分野には門外漢だが、密度の濃いヨーロッパ史である。そのなかに、人間性の善なるものへの志向と、善悪を超えた動物的本能に支配される暴力性と、性的征服欲の欲望を持った存在であることを示す視点が読み取れる。
【「夢の中の教会への巡礼の旅」筑紫龍彦】
 人は如何にして学者になるか、ということの一例として、興味深いものがある。タイトルを教会に結びつけたのは、クリスチャンの立場なのであろうか。話は、長崎での戦後の父母の生活との戦いから、子供の立場から、新聞配達を行い社会体験とする。
 いわゆる働くことで社会と接触し、そこから自らの人生を切り開いた世代の話。自らの知恵でエリート社会への道を切り開く。社会の生産活動に加わる世代に対するに、現代っ子は、お使いで消費者として、「はじめてのお使い」が社会との接点となる。こうした自伝記はへの印象は、世代によって、受け取り方が異なるであろう。
 作者はカント哲学の学者のようである。人生いかに生きるべきかを根底に、キリスト教だけでなく、佛教、禅宗、などに幅広い知見をもつことがわかる。
 自分は生活に追われて、また学者や文学者になるための努力もしないでいるが、ただその日その日を無自覚に過ごしてきた、いわゆる典型的な俗人の立場から、時間をかけて読み、なるほどそういうものか、と同世代における学者の姿を知って、何かが見えたように感じ、感慨深いものがあった。
 この二つの作品は格調が高く、読むのに時間がかかった。それだけの意味はあって、俗物なりの理解ができたように思う。
【「治にいて乱を忘れず」藤澤休】
 これには<註>がある。我が国の安全保障に関するもので、1、「空想的平和主義からの脱却ー日米同盟は戦争への道か」(2015・05・03)と、2、「中国の南シナ海侵略と日本」(2015・08・13)と、3、「敵基地反撃能力の保有」は友人限定のフェイスブックに載せたものだという。それに、4、「国内政治の危機ー安倍おろし運動は正しいのか」(2017・08・20記)が掲載されている。いわゆる、野党の政治活動を批判し、反発する論理をのべている。日本の保守思想というか、現政権の主張とほぼ重なるもの。国民の主張のなかで、このような考えが多くあるので、安倍政権が単独過半数をとる理由がわかり、面白い。真っ向からこういう意見を出すのは、政治家しかいないので、国民の大多数の声として読む意義はある。
 ただ、フェイスブックでは、こうした論調でよいであろうが、活字になると、公論としていくつかの説明不足が目立つところもある。戦前の軍部の主張と重なるところも見受けられる。それと、政治活動と歴史認識の思想とは、異なるので他国を一方的に侵略国扱いするのは、感情的にすぎるように思う。
 また、ジャーナリズムは権力者の横暴を許さないように見張る役目があり、批判しかしないというのも、仕方がないところである。バランス上必要であろう。
 ただ、こういう意見を掲載する地域雑誌は少ないので、いいのではないか。
 連絡先=〒850-0918 長崎市大浦町9-27、長崎ペンクラブ」事務局。代表者:田浦直。編集人:新名規明。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2018年1月17日 (水)

芥川賞は石井遊佳「百年泥」と若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」

第158回芥川・直木賞(日本文学振興会主催)の選考会が16日、東京・築地の新喜楽で開かれ、芥川賞には石井遊佳さん(54)の「百年泥」(新潮11月号)と若竹千佐子さん(63)の「おらおらでひとりいぐも」(文芸冬号)の2作が、直木賞には門井慶喜さん(46)の「銀河鉄道の父」(講談社)がそれぞれ選ばれた。
 石井さんは初候補で受賞した。作品はインドで日本語教師として働く女性の物語。大洪水で1世紀にわたり川底に堆積した泥が巻き上げられ、中から出現した品々にまつわる人々の混然とした記憶が実体化していく。
 若竹さんはデビュー作、初候補での受賞。2013年に75歳で受賞した黒田夏子さんに次ぐ高齢記録となる。新たな老いの境地を描いた受賞作は、74歳で独り暮らしの桃子さんが主人公。夫は他界、子どもらとも疎遠な日常の中、心には懐かしくもにぎやかな東北弁の声が満ち始める。
 選考委員の堀江敏幸さんは、石井さんの「百年泥」について「混沌(こんとん)としたインドの現実と奇想、妄想をうまく物語に収めた」と評価。若竹さんの「おらおらでひとりいぐも」については「東北弁と標準語をバランス良く配し、言葉に活気、勢いがある」と、年齢を感じさせない「若々しさ」に言及した。
 一方、門井さんは3回目の候補。作品は「銀河鉄道の夜」で知られる宮沢賢治とその父・政次郎の関係を描く。何事にも前のめりな息子への愛と、親としての建前のはざまで揺れる父の姿が浮き彫りにされる。
 選考委員の伊集院静さんは「歴史的事実だけでなく、賢治を思う父、父を思う賢治という、人間の感情が非常にうまく書かれていた。門井ワールドと言える短い文章で端的に表し、ユーモアもある」とたたえた。
 人気バンド「SEKAI NO OWARI」で活動し、デビュー作で直木賞の候補となった藤崎彩織さん(31)は受賞を逃した。

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2018年1月16日 (火)

村上春樹のレイモンド・チャンドラー翻訳

  そして力を尽くして『ロング・グッドバイ』を翻訳したわけだが、僕の新訳に対する風当たりは思いの外きつかった。まずだいいちにこの作品には清水俊二さんの『長いお別れ』という優れた翻訳が先行してあり、多くの人がその訳書を通してこの作品に親しんでいた。

 これは野崎孝さん訳の『ライ麦畑でつかまえて』(拙訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』)についても言えたことだが、このようにいわば神格化された優れた既訳があるときには、新訳は厳しい逆風を受けることになる。それらの訳書を読んで感銘を受けていた読者は、自分にとっての神聖な領域に、見知らぬ人間に土足で踏み込まれたような不快感・抵抗感を抱いてしまうからだ。その気持ちはわからないでもない。僕だってやはり野崎さんの『ライ麦畑』や清水さんの『長いお別れ』で育ってきた世代だから。

 ただ翻訳というものは、経年劣化からは逃げられない宿命を背負っている。僕の感覚からすれば、おおよそ半世紀を目安として、ボキャブラリーや文章感覚のようなものにだんだんほころびが見え始めてくる。僕が今こうしてやっている翻訳だっておそらく、50年も経てば「ちょっと感覚的に古いかな」ということになってくるだろう。

《参照: 準古典小説としてのチャンドラー 村上春樹氏寄稿(下)

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2018年1月15日 (月)

村上春樹がチャンドラーの7編翻訳完了

作家の村上春樹氏が10年がかりで取り組んできた米作家レイモンド・チャンドラーの長編全7作品の翻訳が完結した。ハードボイルド小説というジャンルを切り開いたチャンドラーは多くの作家に影響を与え、現代文学の古典として世界で読み継がれている。ーーと日本経済新聞が、彼のエッセイを掲載。

ーー  最初に『ロング・グッドバイ』を翻訳出版したのが2007年で、それから10年かけて、自前の小説を書いたり、他の作家の翻訳をしたりする合間に、少しずつ暇をみつけてはチャンドラーの翻訳作業を続けてきたわけだが、そのあいだ「もうやめちゃおうか」と匙(さじ)を投げたくなるようなことは幸いにして一度もなかった。出版社から一度も催促されることなく、自分のペースでこつこつと自主的に翻訳を続けてきた。
 どうしてか? チャンドラーの作品に終始一貫して強く惹(ひ)かれていたから……としか言いようがない。そして7作全部を訳し終えた今、あたりを見回してほっとすると同時に、「ああ、これでおしまいか。もうこれ以上訳すべき作品はないのか」と思って、なんだかがっかりしてしまうことになる。チャンドラー・ロス、とでも言えばいいのだろうか。ーー
《参照: 普遍にして固有のヴォイス 村上春樹氏寄稿(上)日経2018/1/3》

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2018年1月 9日 (火)

「詩と思想」新人賞・佐々木貴子「姥捨」と社会性の意義

 詩誌「詩と思想」の新人賞に佐々木貴子氏の「姥捨」が選ばれた。受賞作の作者のよる朗読もあって、女性の母と娘の関係の愛と怨みの情念がよく伝わってきた。《参照: 第26回「詩と思想」新人賞・佐々木貴子氏の贈呈式
 このような関係は、男もいやというほど目撃してしてきているとも思うが、選者たちの話によると、そう多くはなく、題材として珍しいらしい。父親と息子の対立と乗り越え志向は、小説に多いが、考えてみればそうかもしれない。
 人間の社会構造としての家族と、母親と娘の関係はの歴史が絡んだ話は、構造主義的な観点からも、海外向けにうまく翻訳できれば、ヒットするかもしれない。
 授与式では中村不二夫しが、語っていたが、日本では詩のカルチャーとしての社会的地位が低下していることを語っていた。その例として、詩壇の芥川賞ともいわれていたH氏賞であるが、かつては、ジャーナリズムに騒がれたものだが、現在はメディアの取材も少ないか、ないらしい。
 H氏賞は、協栄産業を興した平澤貞二郎(1904年1月5日 - 1991年8月20日)の基金により1950年(昭和25年)に創設された。当初の呼称は「H賞」。基金拠出者で、プロレタリア詩人でもあった平澤が匿名を強く希望したため、賞の名はHirasawaの頭文字だけを冠する。富岡多恵子、吉岡実、黒田喜夫、入沢康夫、白石かずこなどを輩出している。
 自分は、日本人が戦後まもなくからの人間から、現代の青年層の経験のギャップが関係していると思う。

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2018年1月 7日 (日)

【文芸月評】(読売新聞1月4日)意識の古層に触れる

   若松英輔さん(49)の評論『小林秀雄 美しい花』(文芸春秋)に畏おそれを覚えながら、ひかれるのを抑えられなかった。『霊性の哲学』などの著書がある批評家が、日本の近代文芸批評を形作った小林秀雄(1902~83年)と正面から向き合った。
 筆者の立場は、小林が1929年に発表した評論「様々なる意匠」の有名な一文、<批評とは竟ついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!>の解釈に象徴されている。
 例えば、若き日の批評家が、親友だった中也の恋人の長谷川泰子を愛した有名な事件について。筆者はまず、二人の文学青年がともに耽溺たんできしたランボーなどの詩を訳した際、互いの訳文が影響し合うほど精神的に<別ちがたき仲>だったことに触れる。そのうえで小林は単に泰子を愛したのでなく、<中原から泰子を奪うことで、中原との関係を手に入れようとした>と示す。
  <この間はいなげやへつれてゆかないでごめんなさいね(略)おばあちゃんはみすずちゃんが大すきです>
 青山七恵さん(34)の「わたしのおばあちゃん」(文学界)は、スーパーのいなげやに連れて行かなかったことを孫に謝る祖母の手紙から始まる。
 津村記久子さん(39)の「名を匿かくまう」(すばる)は、世間ではその場にいない人の話をするとき、その人物の名前を明かして語る人間と、隠して語る人間がいると説明することから始める。後者の人間のずるさやむなしさをある逸話から語り起こしてゆく。
 柴崎友香さん(44)は、各国の作家が学内に滞在し、交流する米・アイオワ大の国際創作プログラムに参加した体験などをもとに連作小説の執筆を続けている。今月の「小さな町での暮らし/ここと、そこ」(新潮)はとりわけ、学内での何げない生活の模様を記し、日本人が圧倒的な少数派の環境で、自分とは何か、言葉について考えさせた。
 最後に、今夏の芥川賞を受賞した沼田真佑さん(39)が、「夭折ようせつの女子の顔」(すばる)を発表した。ふとしたことで中学校に通えなくなった女子生徒が、気分を変えるため盛岡の叔母の家に預けられる。
 ざっくばらんな叔母、一緒に暮らす気弱な30代半ばの恋人、中ぶらりんな状態の主人公。不思議なバランスを三人は保つ。手のひらで鳥のヒナを包むかのように、変な力を加えると潰れそうな彼らの日々、流れる時間を優しくつづった。(文化部 待田晋哉)
 読売文学賞を受賞した『夜は終わらない』(講談社)をはじめ、ラテンアメリカ文学の影響を受けた大柄な小説で知られる作家の星野智幸さんが、異色の相撲エッセー集『のこった』(ころから)を出版した。
《参照: 【文芸月評】(読売新聞1月4日)意識の古層に触れる

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2018年1月 6日 (土)

文芸同人誌「アピ」8号(笠間市)

   本誌の発行拠点である茨城県は、わたしの母の郷里でもあり、愛着を感じる。とくに今号の田中修「旧水戸街道120キロを歩く」は、その道筋に思い当ることが多く。感慨深かった。近年でも、我孫子の手賀沼には足を運んでいる。
【「一つ目橋物語・其の一『踝』」西田信弘】
  時代小説である。大工の竹造は仕事が終わると、隅田川岸辺のつたやという小料理屋で、白い美しい踝の女を見染める。竹造がその女と懇意に接触し、恋と人情の話に展開する。私は時代小説は読まない方だが、この作品は視覚的な要素に注力した文章が見事なので、読み通してしまった。かなりの経験と修練に優れた、小説の小説らしさを示した筆使いに注目した。
【「生命の森」さら みずえ】
 一家族の日常の現在が、親の介護あり、仕事あり、親子関係あり、それをめぐる夫婦の関係が描かれ、主人公は主婦の多江で、ある意味で家庭の日常をいかに平穏に維持するかということへの努力を描く。小説的でありながら、生活日誌的で不思議な作品と感じた。それが末尾の「おことわり」に「この物語の時代背景は、1980年です。従って、看護師、付添い婦といった名称は当時のままであることを御理解下さい」とある。なんと、約40年前のほとんど実話なのだ。その内容は、高齢化社会の進み方と、現在の普通の家庭に比べ、巧みにソフトランディングして家庭のまとまりということに破綻がない時代であったことを、強く認識させてくれた。
 発行所=〒309-1772茨城県笠間市平町1884-190、田中方、「文芸を愛する会」。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2018年1月 5日 (金)

同人誌季評「季刊文科」73号(2017年12月31日)谷村順一氏

何を描くか
≪対象作品≫大新健一郎「越境地帯」(「白鴉」30号・尼崎市)/蒔田あお「フェイス・トゥ・フェイス」(同)/田中さるまる「98と301について」(官能小説のアンソロジー「夜咲う花たち」第2号・神戸市)/内藤万博「同志よ、聞こえるか?」(同)/高原あふち「半径二〇三メートル僕イズム」(「あるかいど」62号・大阪市)/錺雅代「無かったこと」(「半月」第7号・山口県)/小石珠「月の行方」(「P.be」4号・愛知県)/佐々木国広「ブルー メモランダム」(「たまゆら」第108号・滋賀県)/とかしま泰「年度の家」(「あべの文学」第25号・神戸市)。

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2018年1月 3日 (水)

西日本文学展望 「西日本新聞」2017年12月28日/朝刊=茶園梨加氏

題「温泉街」
野沢薫子「夏の去りぎわに」(第7期「九州文学」40号、福岡県中間市)、紫垣功さん「さらばだ、蓮五郎一座!」(「詩と眞實」822号、熊本市)
「ら・めえる」(75号、長崎市)、「あかね」(108号、鹿児島市)、椎窓猛さん発行「村」(10号、福岡県八女市矢部村)、豆塚エリさん『ネイルエナメル』(こんぺき出版)、水木怜さん『順平記 看板猫ノスタルジー』(花書院、文庫本シリーズ)、「文芸同人誌情報誌 文芸ごきんじょ 2017(さきがけ文学会、馬場陽子さん)
文芸同人誌案内掲示板:ひわき さんまとめ)


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2018年1月 2日 (火)

文芸時評12月(東京新聞2017年12月28日)=佐々木敦

沼田真祐「夭折の女子の顔」軽い語り、大きい主題
多和田葉子「文通」混濁の渦が、呑み込む
≪対象作品≫沼田真祐「夭折の女子の顔」(「すばる」1月号)/多和田葉子「文通」(「文学界」1月号)。

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