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2018年1月18日 (木)

総合文芸誌「ら・めえる」第75号(長崎市)

 本誌は長崎ペンクラブによる「ながさき総合文芸誌」という独自のスタイルをもった地域誌のようだ。地元の文化資料として宮川雅一「終戦直後に斉藤茂吉の書いたハガキ」については、別サイトで紹介している。
【「夢の中の教会への巡礼・ローマ劫掠一五二七」吉田秀夫】
 1520年代の欧州を席巻したローマ帝国とルタ―宗教改革運動、権力の内部争いの歴史が、鳥瞰的な視点で物語化されている。こうした分野には門外漢だが、密度の濃いヨーロッパ史である。そのなかに、人間性の善なるものへの志向と、善悪を超えた動物的本能に支配される暴力性と、性的征服欲の欲望を持った存在であることを示す視点が読み取れる。
【「夢の中の教会への巡礼の旅」筑紫龍彦】
 人は如何にして学者になるか、ということの一例として、興味深いものがある。タイトルを教会に結びつけたのは、クリスチャンの立場なのであろうか。話は、長崎での戦後の父母の生活との戦いから、子供の立場から、新聞配達を行い社会体験とする。
 いわゆる働くことで社会と接触し、そこから自らの人生を切り開いた世代の話。自らの知恵でエリート社会への道を切り開く。社会の生産活動に加わる世代に対するに、現代っ子は、お使いで消費者として、「はじめてのお使い」が社会との接点となる。こうした自伝記はへの印象は、世代によって、受け取り方が異なるであろう。
 作者はカント哲学の学者のようである。人生いかに生きるべきかを根底に、キリスト教だけでなく、佛教、禅宗、などに幅広い知見をもつことがわかる。
 自分は生活に追われて、また学者や文学者になるための努力もしないでいるが、ただその日その日を無自覚に過ごしてきた、いわゆる典型的な俗人の立場から、時間をかけて読み、なるほどそういうものか、と同世代における学者の姿を知って、何かが見えたように感じ、感慨深いものがあった。
 この二つの作品は格調が高く、読むのに時間がかかった。それだけの意味はあって、俗物なりの理解ができたように思う。
【「治にいて乱を忘れず」藤澤休】
 これには<註>がある。我が国の安全保障に関するもので、1、「空想的平和主義からの脱却ー日米同盟は戦争への道か」(2015・05・03)と、2、「中国の南シナ海侵略と日本」(2015・08・13)と、3、「敵基地反撃能力の保有」は友人限定のフェイスブックに載せたものだという。それに、4、「国内政治の危機ー安倍おろし運動は正しいのか」(2017・08・20記)が掲載されている。いわゆる、野党の政治活動を批判し、反発する論理をのべている。日本の保守思想というか、現政権の主張とほぼ重なるもの。国民の主張のなかで、このような考えが多くあるので、安倍政権が単独過半数をとる理由がわかり、面白い。真っ向からこういう意見を出すのは、政治家しかいないので、国民の大多数の声として読む意義はある。
 ただ、フェイスブックでは、こうした論調でよいであろうが、活字になると、公論としていくつかの説明不足が目立つところもある。戦前の軍部の主張と重なるところも見受けられる。それと、政治活動と歴史認識の思想とは、異なるので他国を一方的に侵略国扱いするのは、感情的にすぎるように思う。
 また、ジャーナリズムは権力者の横暴を許さないように見張る役目があり、批判しかしないというのも、仕方がないところである。バランス上必要であろう。
 ただ、こういう意見を掲載する地域雑誌は少ないので、いいのではないか。
 連絡先=〒850-0918 長崎市大浦町9-27、長崎ペンクラブ」事務局。代表者:田浦直。編集人:新名規明。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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