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2017年12月19日 (火)

文芸同人誌「淡路島文学」第13号(兵庫県洲本市)

 農民文学賞などさまざまな文芸賞を受賞していた、北原文雄氏の追悼号である。その交際範囲の広さが追悼文を執筆した人々と多さに表れている。直木賞作家の故・伊藤桂一氏が農民文学賞の選者をしていたときの、授賞式に毎年のように出席していた北原氏だが、自分はそれをネットニュースにするために取材に行っていた。懇親会で北原氏と知り合い、「淡路島文学」の作品紹介をするようになった。北原氏の作品だけを紹介すれば良いかと、思っていたが、地域性が浮かび出ている他の作品も多く、かなり他の執筆者の作品も紹介したものだ。残念というも、そうであるが、淋しい。
【「ノーベル文学賞寸考―アンチハルキスト―」大鐘稔彦】
 村上春樹の文学性の特質について、具体的作品に触れて否定的なところを指摘している。そして、否定する前の素材として、川端康成の文体と文章を、批判的な視線を交えて引用。結果的に、文学的な気品をもった作品として「雪国」の文章を取り上げる。そのことによって、この評論の作者が、しいて言えば、芥川龍之介のような、文法的な整合性を持った文章を文学性のために支持していることがわかる。
 このことは、文学性とは何かという問題に深く係わってくる。したがって、本評論は、村上春樹の文学性否定すると同時に、現代文学に対する主張を述べていると解釈できる。
 その思想の延長上で、ドストエフスキー、トルストイの作風に触れ大江健三郎の好き嫌いを述べている。
 その上で、ノーベル賞作家の候補に村上春樹が対象になることに対し、不賛成の立場から、作品における欠点とする特性を述べている。
 読売新聞の名物コラム「編集手帳」の執筆者、竹内正明氏と作者は交流があるそうで、著作本を贈呈しあったり、便りがあったりするという。そこで、村上春樹氏にノーベル賞を期待するという意味のことを、竹内氏が「編集手帳」に記したことに、クレーム書を、渡辺直己氏、小谷野敦氏、西部邁氏たちと共に、送付したそうである。
 村上春樹の小説のタイトルが「ノルウエイの森」、「ねじまき鳥クロニクル」、「!Q84 」などは、こけおどし的で、内容に密着していないことや、無意味に性的なシーンを作品にはさむことへの不満を述べている。
 「アンチハルキスト」であることは、その作品をよく読むことで、春樹ファンと同様であるようだ。本文で、批判している部分も通俗的な感覚で受け取ると、なかなか面白そうに思えるし、村上がマーケティングに優れた作家として、有能さを備えているように思える。
  そういう自分は、村上が中編と短編を合わせたような作品でデビューした頃に作品を読んだ。自分は、高校時代から、ヘミングウェイ、ハメット、チャンドラー、ロス・マクドナルドなど、ハードボイルド文体の手法のなかに、文学性を読み取っていたし、その亜流作品も多く読んでいた。それからすると、初期の村上作品は、文体を良くこなしているが、重みが異なるので、米国ミステリーの甘さのある亜流い思えて、読む意欲をもたせなかった。これは、フィッツジェラルドやサリンジャーのムラカミ新訳においても、わかりやすくなったが、時代の受け取り方の違いを感じて、自分の共感するものと質が異なっていた。
  出会いの不幸という作家はあるもので、その後、あまりに有名になったので、2、3冊読み流したが、現代的な教養的読者層の嗜好を良く捉えているのでは、という手腕を認める気になった。特に、世界の読書家による文学的世界での発想の均一化傾向が、村上作品によって、実証的に捉えられたという意義を見出している。
 本作は、伝統的な日本の文学性を重視する立場からの村上春樹論(それゆえ、共感者も多いであろう)であるが、それは近代社会思想(モダニズム)の慣習的な文学観の層のように思える。ポストモダンの現在からすると、東浩紀が「観光客の哲学」に説くように、ある種の他人事のような無責任さをもった文学が否定されない時代を浮き彫りにさせるもの、として読めた。
発行所=〒兵庫県洲本市栄町2-2-26、三根方。「淡路島文学同人会」
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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