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2017年10月 4日 (水)

分析的説明によって、小説の描写量はどれだけ減らせるか

  モダニズム文学の一頂点を極めたと自分が考える伊藤整「氾濫」という作品について、北原武夫が同業者として、独特の解説を行っている。その一例を示した。《参照:伊藤整「氾濫」モダニズム文学の周辺と北原武夫の評論(3)》 ここで、北原は、伊藤整が官能描写を不得意としていたので、別の手法を編み出したのではないか、という推測をしている。自分は、それだけでなく、千枚にもわたる大長編を書くにあたって、面倒な描写を避けて、論理的な分析で済まして、先を急ぐという気持ちがあったのだろうとも、思う。
  小説という世俗的な出来事の羅列で物語化をするために、読者を納得させるために、やむを得ずそこに至る経過を細かく書く必要がある。話が飛ばないようにである。つなげるための部分を橋という場合もある。作者によっては、面倒だが仕方がないとする部分。
それを、伊藤整は社会的な会社人と、家庭人という側面を読者に意識させながら、人間の愛欲関係を描くという、合理的な手段を必然として用いたのではないだろうか。
 うろ覚えの記憶だが、伊藤整は作家仲間か編集者だかと共に、香港に行ったときに、性行為をナマ見せするショウーがあったそうだ。伊藤整は、そのショーを正座をして観賞。周りで、酔った見物人が騒ぐと「うるさい。静かにしろ」と怒ったそうである。
 おそらく事実としての現象と、心理的な幻想力の違いに、注目していたのであろう。

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