ある伝統的な文芸同人誌「砂」の典型的な動向から
文芸同人誌「砂」は、第135号まで、発行してきて、次号も発行できる余力はある。《参照:休刊間際の文芸同人誌「砂」の活性化に向けて始動》
(投稿原稿も来ているそうである)。会員数の高齢化による、減少はともかく、運営実務者が次々と病に倒れ、とりあえず運営の中の比較的若い人の有志がとりまとめて、運営実務を行ってきた。文芸同志会の伊藤も同人であるが、運営にかかわっておらず、投稿もそれほどしていなかったので、なんとなく「活動が不活発だな」と思う程度であった。そこで、昨年来、その事情を確認し、会合をしてきたが、印刷所の変更や会計担当の変更などを行って継続している現状のなかで、一度は休刊か廃刊にしようということになった。
しかし、これまで連載小説を行ってきた投稿者から継続を望む声もあり、それに押されて発行を続けようということになった。それでも、同人会の活性化は必要で、会員拡大や同人会の活動の周知をすることに、文芸同志会も活動しようといううことになった。
この「砂」というのは、1950年代から1970年代まで「雲」という同人誌があって、その会の解散後の受皿として1970年代に誕生した。
「雲」は一時は、北海道から沖縄までの会員300人弱を容し、年総会には、上野・池之端の会館を借り切ったほどの組織であった。
その運営者は、直木賞候補にもなった現役作家夫妻であったため、その指導により、当初は生活の生きがいに物を書いていた人のなかから、商業誌の文学賞や、ミステリー作家を輩出した。
そのため、「雲」という一つの同人誌の内部に、作家志望派、生き甲斐生活作文派、作家工房結成派の三つの組織が、本誌とは別にそれぞれ雑誌を発行するという事態になっていた。
伊藤は、その作家夫妻に精神的な影響を受け、結婚式の仲人をしてもらった。したがって、「雲」の運営の苦労や、一般会員の知らない事情に詳しかった。「雲」を主催する夫妻が高齢で、会を解散したあとも、その作家夫妻とは子どもを連れて、訪問していた。だが、まず夫の作家が亡くなった。その時に夫人が、「あなたは、やせているけど、年をとれば肥りますから、そのときは、これを着なさい」と先生の礼服をくれた。それは、当たっていて、今では私の礼服になっている。夫人が独り暮らしをしている時は、雑誌記者をしていて行動に、自由があったので、書いた記事を載せた雑誌や小説誌を渡していた。夫人の最期は、お子さんの家に引き取られ、住んでいた家を処分する旨の電話が、家内が受け取ったそうである。夫人が亡くなっても、息子さんが大企業の幹部であったため、両親の過去の人間関係者については、絶縁の知らせを受けた。人知れず庶民の生きがいとなって、さまざまなロマンと功績があったのに、死んでしまうと、すべてが消されてしまうものだと、実感し涙したのを覚えている。
その関係で、後継同人誌「砂」の会員になっていたのである。
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