文芸同人誌「あるかいど」第62号(大阪市)
ある文芸評論によると、現代の小説が面白くないので、芥川賞と直木賞を統一したらどうだという論を述べている。もともと、直木賞は大衆的な読み物、芥川賞は文学的芸術性の価値を賞するものである。それが、面白いことを主眼にしたとなると、すべて直木賞とし、芥川賞はいらないということになる。これはたくさんの人に読まれないと、商業的に成立しない、同時にそうでないと、データーベースとしての評論の材料に不足がでるということになる。こうして、資本主義の論理のもとに、芸術作品が衰退させられていくのである。前記の文学論は、いわゆるポピュリズム文学世相への皮肉であろう。
では、ポピュリズム文学時代の同人雑誌の実相はどうなのであろうか。普通は、そのあるべき姿を問うのが手順であろうが、自分はそれを求めて読んでいるわけではないことか。観察するだけである。そのなかで感じるのは、職業作家が編集者と話し合う余地があるのだろうが、同人誌作品は、ひとりで考えることである。指針や相談を受ける人がいない。磨きのかからない原石が魅力だが、装飾的な艶が出ていない。描写のコントラストが弱い。書き出しの重要性の認識が薄い。同じ号の作品の書き出しの文章だけを並べてみたことがあるのだろうか。どこに、どれをくっつけても同じようか、緊張感のなが気にならなければ、読者としても幸いである。
【「半径二〇三メートル僕イズム」高原あふち】
認知症となった母親を介護する僕。孤児だったのを5歳の時に、今の両親に引き取られた存在だ。町工場の多い町で、父親が工場経営をしていた。子供のころから機械の音を聴いて育つ。父親は、工場経営が苦しくなった折に、ちょうど区画整理があったので、それに乗って土地を売却、大金を手にし、株式の投資などで過ごす。僕は高校を出て町工場に就職、会社は順調に規模拡大をしている。父親が亡くなったあと、母親が認知症になると、社長は、定時で引き上げることを認める。昼休みには、自転車で母親のところに行く。その距離が、203メートルなのである。限られた行動域にこだわる表現で、その生活感の異状性を、鈴音という高校時代の女性が、引き立てる。
血のつながりのない親と、介護生活を軽い調子で語りながら、なんでこれが自分の人生なんだ? と、誰でも一度は思うであろう心が伝わる。介護体験のある人や親子関係にこだわる人には、身近な共感を産むかもしれない。
【「竜宮門」木村誠子】
イトは、孫のユータが詩を書いていて、彼が文学作品のフリーマーケット「文学フリマ京都」に出店するという。そこから文学フリマの店番をする。その独特の雰囲気が良く描かれている。それを導入部に、さらにイトのイリュウジョンの世界に展開が広がる。それを充分に拡げるには、短すぎるところがあるが、作者の世界観を展開する糸口になるのかも知れない。ちょっと、人物像を描きながら、井上陽水の歌を援用するなど、ちょっとヘンリーミラーを思わせる素質を感じさせる。
【「父からの手紙」高畠寛】
伝統型文芸同人誌では、高齢者の私小説が多いが、これは父親の終末期と同年令になった時に、生まれる感慨という的の絞られたテーマなので、興味深く読めた。ここでは、父親と対立する関係から、肯定的な気分に移るまでを描く。核家族が進んだ今は、父子関係にもその影響があり、まさに家庭の様相の個別化のなかの一例として、読者の認識を深めるのではないか。
発行所=545-0042大阪市阿倍野区丸山通2-4-10-203、高畠方。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
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