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2017年9月28日 (木)

文芸同人誌「小説春秋」第28号(鹿児島市)

【「遥かなユーラシア」斉藤きみ子】
 2011年の福島の大震災と原発事故を背景に、わたしの祖母が亡くなり、女友達のユリアは、カナダに行くことになる。冒頭にユリアと私には、愛情関係があることをうかがわせる。時代を反映してか、ライトノベル風の文章運びで、軽みを帯びたファンタジックな風趣の雰囲気小説に読めた。ユーラシアというイメージが、もうすこし強く映像的に描いてもいいようにも思えるが、映像化の普及した現代では、これで足りるのかも知れない。また、祖母のバァバが小説を書いていた、という自己表現者の存在として出てくるところが、ポストモダンの色彩が感じられる。
【「桟橋」出水沢藍子】
 舞台を人が多く出入りする港の桟橋に固定し、ある家庭の小さなドラマが展開する。短い中に、伏線をきかし、息子の心理と父親の人間的な生き方にスポットを当てる。素直に、それでどうなるのかな? という気持ちで作中人物に惹き入れられ、そうだったのかと、納得させる。たしかに、これが小説のだいご味だよね、思わせる出来栄えである。
【「廃墟の眺め」福迫光英】
 交通事故を起こして、死者をだしてしまった過去を持つ男が、見らぬ土地に流れて、その町の人との交流の紆余曲折の末に、人生の再生の兆しを見出す話。高倉健が生きていたら、主演の映画にぴったりの雰囲気の渋い人情話だ。これも小説らしい本来的な物語性をもった小説である。
【「『女と刀』のアウラ」杉山武子】
 「女と刀」は、鹿児島県の「中村きいこ」という作家の作品だという。その評論である。作者の紹介によると、谷川雁の紹介で、鶴見俊輔が着目。平凡社刊のノンフィクション集「日本残酷物語」に「女と刀」の基盤となる文章を共同執筆。さらに鶴見の依頼で、雑誌「思想の科学」に実母をモデルにした小説を書く。さらに光文社から「女と刀」の題で出版され、第七回田村俊子賞を受賞。テレビドラマ・木下恵介アワーで、半年間放映され、作者は一躍、時の人になったという。
 鹿児島という土地の風土で、男尊女卑のほかに、江戸時代からの士農工商の階級意識のなかでの話として評し、中村きいことその母親の批判精神の旺盛さに着目している。
 このなかの、武士階級意識から、妻が身分的に自分の出自より低い夫を軽蔑的に見ながら、夫の間に八人の子をなしたことに、作者は疑問を呈している。が、批判精神と人間性の否定とは異なるので、「批判すれども否定はせず」。家庭の維持態度としては当然のことに思え、不思議ではないように思う。夫婦の営みは欲求の満足であり、恋人との営みは欲望の満足であろう。それにしても、核家族化の進展で、女性の社会的地位から、伝統的な家系意識が希薄になった現代では、貴重な資料であろう。文体も歯切れがよく、気持ち良く読める。
【「冬子」福本早夫】
 農村の若者が都会に出て働く集団就職の時代。異母兄妹の兄が妹によせる愛の物語。「なごり雪」の歌の小説版のようなものに読めた。
 編集後記には、鹿児島の文学の質の低下を嘆く言葉がある。それは、過去の文学的な作品の傾向だけを見ていれば、そのように見えるかも知れない。しかし、文学的な優秀作とされるものが、現代では定まっていない。そこから、おそらくどの地域でも、優れた作品とする基準が、その背景によって異なる。また、過去の個性的作家の評論を題材としながら、小説家にするような評論小説のような新形式のものも登場している。完成度よりも、それぞれの視点の現代性で世間にアピールする傾向がある。
 ちょうど、テレビ番組から歌番組のベストテンがなくなり、過去にヒットした歌謡曲の番組が増えているように、文学界においても社会的露出の定理のような基準がなくなった時代なのだと思う。
発行所=〒890-0024鹿児島市明和1-36-5、相星方、小説春秋編集所。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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コメント

北一郎様
伊藤昭一さんと以前に何度かお目に掛ったというご縁だけで、一方的に同人誌を送らせていただいております。
いつも丁寧にご批評をいただき、ありがとうございます。
同人間で合評会は行いますが、身内だけの批評はどうしても甘くなりがちですので、外部の方のご批評は大変参考になり、また励みにもなります。
今後ともどうぞよろしくお願い致します。
杉山武子

投稿: 杉山武子 | 2017年10月13日 (金) 23時18分

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