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2017年9月26日 (火)

文芸時評10月(産経)原稿の分量ワード換算しない文芸誌=石原教授

新連載の上田岳弘「キュー」(新潮)は、はじめからネット配信されるという。スマホで読める。タブレットやスマホはおろかケータイさえ持たない僕は、本以外では「本」を読もうとは思わないが、日本に電子書籍を読む習慣が広く根付かない限り、文学は早晩終焉(しゅうえん)を迎えると確信するようになっている。だから、こういう試みが成功してくれるといいと願っている。しかし、肝心の文芸誌は若者に開かれていない。「中編146枚」だの「中編126枚」だの「220枚」だのといった表記が踊っているのだから。いま所属している学科では卒業論文を「80枚以上」としている。ほとんどの学生はワードで換算するから「2万字まで書けました」と言うのだ。いくらネット配信しても、心が原稿用紙ではね。かつてケータイ小説を論じたとき、学生に「あれは先生が読むものじゃありません」と説諭されたものだ。「キュー」をスマホで読んだ学生に同じことを言われそうな気がする。ネット配信だけではね。
《参照:原稿の分量いまだにワード換算しない文芸誌


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