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2017年8月31日 (木)

文芸時評9月・ 芥川賞と直木賞は合体はどうか=石原千秋氏

 芥川賞を受賞した沼田真佑「影裏(えいり)」の「選評」がでた(文芸春秋)。選考委員会は喧嘩(けんか)だったと言うから読み応えがあるだろうと期待していたが、肩すかし。それぞれ自分の評価を書いただけだった。紙の上の喧嘩を見せて、盛り上げてほしかった。5月に書いたように「影裏」は新人賞としてはみごとだったが、芥川賞を受賞するとは思わなかった。だから、「美しくもおぞましい」(高樹のぶ子)と言われると褒めすぎだと思うし、「あの巨大な震災など、この小説のどこにも書かれていないと感じた」(宮本輝)と言われると、「では、どう書けば書いたことになるのか」と問い返したくなる。上手に省筆したという人がいれば(堀江敏幸)、書きすぎだという人がいる(村上龍)。ただし、これだけ評価の割れた作品を受賞作としたのは見識だった。
 「文芸家協会ニュース」(7月号)の「読書推進運動」に関する座談会を読んだ。「読書は大切」という大前提を問い直す必要さえないかのように話が進むのには違和感を覚えた。たとえば、「読書をしない人は無教養に感じられる」とすれば、それは「読書をしてきた人から見て無教養に感じられるだけだ」という程度の意識はないのだろうか。文芸家協会は社会に開かれていないのではという疑念さえわいてくる。
《参照:産経=受賞作が「つまらない」 芥川賞と直木賞は合体させたらどうか 9月号 早稲田大学教授・石原千秋

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2017年8月29日 (火)

赤井都さん「そっと豆本、ふわっと活版6」(三省堂・神保町)

前号(6月発行)では、新作のレイアウトをしていました。今、8月、印刷まっただなかです。活版印刷と、パソコン
プリントと、ドライポイントの3種類を組み合わせる計画で、とにかく計画と自分を信じて、一枚ずつ刷るのみ。
部屋を広く使って、印刷紙を乾かしています。これを製本する段階のことまでは、今は心配できる余裕は
ありません。今の印刷のことだけ考えています。
結局、気持ちが入るとか、集中するとか、そんなことで
結果が変わる気がします。9時から5時までやったから結果が必ず出るような仕事のタイプではないのです。
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■次のイベント予定
「そっと豆本、ふわっと活版6」
会 期 2017年9月26日(火)-10月2日(月)
会 場 三省堂書店 神保町本店 内 1階神保町いちのいち
Creator'sTABLE(シーズテーブル)
出展者 赤井都、Bird Design Letterpress 
協力:andantino、弘陽(三木弘志)
活版印刷ワークショップ、豆本ワークショップ同時開催
ご期待下さい!
この時に、新作豆本を持っていければと思っています。
小さな本の教室は9月2日と16日、一席ずつ空いています。この機会にぜひどうぞ!
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■言壺便りについて
最近、ふと気づいた「お化粧」ということ。全部断捨離してしまっていたので、新しいのを買いそろえたら、今のお化粧品の進化はすごくて、肌ストレスもなく、快適です。かわいくなるので、お化粧をするのが楽しいです。自分のために、自分で好きですることは楽しい。
製本の時は、万一の色移りを考えてしないですが、イベントの時なら構わないかなと考えるようになっています。
そして、エレガントなゴス服を手に入れました。バレエで、「ハイウエストから体を使う」ということを再三言われて、
コルセットに興味を持ったのがきっかけです。着たいと思える服に出会ったのも久しぶり。着て出かけるのが楽しみです。

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2017年8月28日 (月)

小説新潮、創刊70周年で記念号と環境の変化

新潮社の文芸誌「小説新潮」が8月22日発売の9月号で創刊70周年を迎えた。記念号となる9月号では、「日本の小説」を振り返る特集を100頁に渡って掲載する。巻頭は「文士レアショットアルバム」と題したグラビアを収録。70年の歩みをビジュアルで紹介する年表は14頁にわたって掲載した。井上ひさし、獅子文六、黒岩重吾らが同誌に初めて書いたときの小説やエッセイを収録もする。
同誌の元編集長、川野黎子氏のインタビューや、同誌に最も多く登場した作家、最も長く連載した作品をランキング形式にしたコーナーもある。本体1030円。
編集長は、時代は変わり、新しい作家、若い書き手も次々に現れます。変わらないのは「小説を読む楽しみ」を大切にすること。現代小説、時代小説、ミステリー、恋愛、官能……。ジャンルにこだわらず、クオリティの高い、心を揺り動かされる小説を掲載していきます。ーーとしている。
 たしかに、手軽な値段で、娯楽の時間を過ごせるものとして、長年にわたる役割の大きさはある。年代層にはかつての読者層がデーターベースになっている。
 もうひとつ、小説公募に応募をする作家志望者が読者であった。それが、一時期、雑誌の発行部数よりも多い小説公募数があったり、読まないで公募する人が増えたという現象もある。
  さらに、小説の公募がネットで行われるようになると、公募層の読者が減る。
  若い層は、ライトノベル系の読み物に傾斜するなど、こうした年代層のギャップをどううめるのであろうか。環境の変化に対応するのは大変であろう。

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2017年8月26日 (土)

「言葉の壁」佐 藤 裕 の多重性

 「詩人回廊」の佐藤裕「言葉の壁」には、良し悪しをべつにして現代詩の課題を指し示すヒントがある。今回の詩は、なにか具体的な事象をみつめることで、言うに言われぬ情念を発露したのであろう。だが、同時に言葉を物理的存在に等しいものとする意味にもとれる。季節の贈答品は言葉を形にのせた心の表現でもある。
 この手法の先には、対象とした出来事を散文にまで進む可能性がある。
 詩(うた)という表現がるなかで、現代詩は言葉の音楽性を失うものが多い。その代わりとして、散文的なリズム与えることも可能ではないか? という問題提起が「詩人回廊」にはある。

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2017年8月24日 (木)

文芸同人誌「季刊遠近」第64号(川崎市)

 本誌の編集後記で、ドイツ文学者の松本道介氏が亡くなっていたことを知った。私が会員制情報誌「文芸研究月報」を発行している時に、便りをいただいた。そこの時点から同人雑誌作品紹介を行っていた。当時は、会員だけの印刷物だから、文学精神に欠けた作品の典型があると、遠慮なく批判した。それが、意に適ったのか、著作を贈っていただいた。「季刊文科」の編集部に草場影郎氏がいた頃である。松本氏はドイツ哲学にも詳しいようであったが、文学畑の読者には、それを理解されたような形跡がなく、雑誌「文学界」の同人誌評も大変なのであろうと、想うところがあったものだ。
【「幻の薩摩路」藤民 央】
 書き出しは平成27年に高校の「喜寿記念同窓会」があってそれに出席したことから始まる。それを足がかりに、過去の回想のなかで、薩摩人の風土的な傾向を述べる。平成28年に「私」は、高校の教師をしていた時の女性と出会う。現在の停滞した生活から、過去の人生の越し方を回想するように出し入れに工夫をし、単調にならないように工夫をしている。特に第3章に歯のインプラントをしない話や、亡き父の幻覚を見るようなところで終る。自己生活史的散文から文学性の世界に入ろうとするところで終る。
【「戦わざる日々」逆井三三】
 幕末の幕府の老中、板倉勝静の江戸城無血開城に、蔭で貢献した人物としてその仕事ぶりを描く。歯切れのよい文体で、わかりやすい説明が説得力をもつ。歴史的な背景の解釈には多様性があるようだが、外圧だけでなく、と国内の飢饉的な情勢があったことを強調しているのは、説得される。 
【「濃霧」難波田節子】
 康介は、結婚して妻の宏美は妊娠中である。しかし、彼には幼馴染みで従妹の梨花との関係が続いている。これは家族愛的な近親的恋愛であることの表現力は流石である。それだけに絆が強く、簡単には関係が清算できない。とくに梨花には、康介と別れる気持ちは持てない。妻の知らないところで、康介と梨花の関係は泥沼状態になる。この行き詰った状態を手厚い筆法で、描く。小説巧者であるこれまでの作者であったら、手際良く主人公の心理を創って、きれいにまとめて治めてしまうことも可能であるはず。意外にも、作者は人間の情欲の業のようなものにとりついて、生き詰まるところまで行きつく。いや、どうなるかわからない。壁に当たる。壁にあたるということは、作者が前に進んでいることを示す。普通に、読み物として読むと、終わりのない話になるかもしれないが、純文的に読むと、書き続けると先があるものだ、と作者の今後に期待する気になる。文学とは、面白いものである。
発行所=〒215-0003川崎市麻生区高石5-12-3、永井方、「遠近の会」
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2017年8月21日 (月)

中部ペンクラブの安定的で活発な活動ぶりから

  「中部ペン」24号(名古屋)を読んているうちに、同人雑誌と現代日本文学との同期せいはどこにあるのか、考えた。作品評は多いが、活動評論はないなとおもって、考えるところを書いた。《参照:雑誌「中部ペン」第24号(2017)に読む文学活動評
 文芸同人誌にないのが現実社会の取材性であろう。身近な高齢者の生活を描くにしても、自己体験の成り行きや同世代の仲間の話だけでは、物足りない。若者たちの現状報告には、優遇するとかの手立てが必要な気がする。

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2017年8月20日 (日)

見たくはないけど「戦争資料展」を観る

  毎年恒例の「 大田平和のための戦争資料展」を見てきた。《参照:第38回 大田平和のための戦争資料展を開催=東京
 あまり気のすすまないまま、展示にどのような変化があるか、見届けるつもりで、確認しに行ったようなものだ。民家の東京空爆の資料として、絵画などが新しく出品してあった。焼け死んだ人たちの姿や、米軍の沖縄攻撃線の報道写真は、敗戦間際となって、ほぼ事実を報じている様子である。
 個人的には、生き物が死んだあと、ただの物質となることに、なぜ強い抵抗感があるのだろう、とかを考え、1日中気持ちが沈んでしまった。
 昼過ぎに、東京は雷雨に見舞われ、電車で放送していた多摩川花火大会は中止になったという。記事にリンクをしたが、各地から届く同人雑誌の地元での空爆に関する文章を読んでて、なぜ、兵器工場もない田舎に、空爆攻撃がされたのか、不思議に思っていたが、米軍には米軍の事情があってそうしたことがわかって、この世界それぞれの論理の組み合わせであることを再認識したものだ。

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2017年8月19日 (土)

投稿者とコメント者についてのちがい

  かねてより、記事へのコメントがあります。適宜、物品販売や特別な意図をもったと判断した場合は、削除しています。また問い合わせなど、公開しないですむもの以外は、極力公開しています。
  コメントの公開について、コメントと投稿との分別が混乱している事例があると思われることがありますので、
ココログのシステムについて、問い合わせをし、回答を得ましたので、システムの説明を下記に公開します。
 「ココログ」よりの回答。  
ーーココログではコメントの公開を承認制にする機能があり、本機能を有効にしている場合は、ココログにコメントをしようとすると「コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。」とのメッセージが表示されます。
 -この場合の記事投稿者とはココログ開設者である伊藤様となります。
  なお、ご質問いただいた「投稿者」がコメント投稿者を指す場合、ココログではコメント投稿者が投稿内容の公開を許可する機能はございません。ーーということです。
 

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2017年8月14日 (月)

「喪失の記憶」(佐藤裕)の詩的コラージュとロマン

  「詩人回廊」(佐藤裕の庭)での「喪失の記憶」は、言葉を唯物的に並べ置くと、ひとつのコラージュイメージが湧き出るところがある。これは、詩的な資質であるらしく、ハードドライな現代社会のひとつの表現になっている。
 イメージとイメージのつながりは読者の想像に任せられており、意味の不確定性をもつ手法で典型的なところがる。過去の作品の散文では、現代社会におけるロマンを語るものがある。いずれにしても多くの情報消費を前提としたなかで、心の癒しをえることの難しさを読むことができる。

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2017年8月12日 (土)

同人雑誌の紹介の方法としての展示会=外狩雅巳

  私の所属する「相模文芸クラブ」は、4月現在で32名の会員で、創刊17年目の活動を行っています。
  月に二回の合評会では20名前後の出席者で、二作品程度を全員発言で徹底討論しています。
  半年ごとの発行なので毎号十回程の時間をかけ、ほぼ全作品を網羅した感想を出し合うのです。
  作品掲載者は全員に読まれ感想ももらえるので満足し外部からの評価を気にしていないようです。
  文芸同志会通信や文芸誌での作品評を積極的に求める事もなく、会内部だけで完結して来ました。
  文芸同志会通信などの同人雑誌作品評は一つの雑誌から数編を選び切り込んだ評価を行います。
  大多数の作品には一言も触れられません。作者は自分の作品が読まれているのかもわかりません。
  文芸同人会は全員平等な組織です。外部から注目された作者のみの会ではないのです。
  外部評の無い大多数の会員が納得する同人雑誌紹介もあって良いと思います。
  そこで思いついたのが同人雑誌展示会なのです。多数の同人雑誌を一堂に並べてみました。
  少人数の文芸同人会でも多数の人に読まれる機会が出来ると思いました。
  会員が納得して加入活動できる同人会の為にも紹介方法にも工夫が必要でしょう。
  同人誌作品文芸評論家の紹介から外れた多数の同人誌作家作品の存在を考えています。
《参照:外狩雅巳のひろば

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2017年8月11日 (金)

中年の祭典となったコミケ92の東京ビッグサイト

  同人誌販売という名称エロ漫画販売のことに定着させたのも、コミック・マーケットその92夏に行ってきた。《参照:メディア出版
 日本人は全般に若見えがするけども、30代から60代まで、幅広い入場者が多い。コスプレは、外人や若者が多いが、それでも中年外人がいた。

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2017年8月10日 (木)

同人誌評「図書新聞」(2017年8月12日)評者=越田秀男

 ・『春の電車』(山名恭子/長良文学・21)は、新美南吉の同名の詩から採った。主人公は夫の七回忌を済ましてようやく遺品の整理に気を向けるほど、夫への想いを残している。春の電車に乗って夫は誰に会いにいったのか、夫の遠い過去に嫉妬するのも面白い。男より長生きの女は夫の死で開放感ばかりに漬っているわけではない?
 ・ 『ボッコの行方』(丸山修身/文芸復興・34)のボッコはポンコツ自転車の愛称・蔑称。最期まで乗りつぶしてハラ立てて不法投棄、すると車に轢かれて無残。主人公に重苦しい過去が蘇る。母の最期に対して自分がとった不甲斐ない態度、さらに愛していた飼い猫の無残な最期。罪責感と悲しみの三重奏。
 ・『水谷伸吉の日常』(国府正昭/海・95)は市井の臣の強調。妻に先立たれた70過ぎの理容店主の日常が主声部だが、伴奏の、伸吉と鳥達とのやりとりが、それ自体小さな物語にも――梅の枝に刺した蜜柑……期待したメジロがやってきた。今度は梅の木の下に飯粒やらパン屑を、雀がチュンチュン。シジュウカラなんて来ないか、と撒き餌を購入、試すとキジバト、追い払う。ラストシーン、メジロ用蜜柑が食いちぎられて落ちている。ボサボサ頭のヒヨドリがふてぶてしく……。
 ・『あなぐま』(宇江敏勝/VIKING・799)は村人に“棲み分け”の心がある世界だ。あなぐまは、その村では“つちかい”と呼ばれ、女に化けて男を誑かす。山・里双方にこえてはならない規律がある。作者は衰微しやがて廃れるだろう寒村を、あるがままに描き、読み手に安らぎやその半面の切なさを届ける。
  ・『半家族』(湖海かおる/異土・19)の“半”とは? アラウンド50の主人公、その家族は夫と娘と主人公より六つ年下の実妹の四人。妹は精神障害をかかえ自立できていない。娘も成人しているものの発達障害。そんな折、夫が脊椎性筋無力症で入院。その間隙を縫って、懸案の妹の障害者年金受給申請、受給率ワーストワンの地域での奮闘。一生懸命な主人公に家族も少しずつ感応していく。で、“半”はどこ?
  ・『「ワイ」を殺す』(下川内遙/佐賀文学・34)はあり得ない。いや、昭和初期までなら……。「ワイ」は路上生活の女で自分の名さえ知らない。自分をワイと呼ぶのでワイに。この小説はワイを殺した容疑で逮捕された男の供述で通している。勝負は日常ではあり得なくても虚構の世界で然もありなんと思わせるかどうかであり、その点合格。一億総背番号の世、「ワイ」は現代に対する反語か。
  ・『分離する人』(磯貝治良/架橋・33)の“その人”。作者と同年齢ぐらいって60安保世代? なのに、2~3㌔のウォーキングコースをシャドーボクシング。酒を酌み交わしても思想信条など語ったことなし。突然姿を消す。どこだかの箱に留置されていた。そしてまた消息を絶ち、お終いでは寂しいので、と沖縄基地闘争に“その人”を配してみた。するとこの付録部分が一番劇的に。分離する人は“その人”なのか作者自身なのか。
  ・『フィクションの可能性』(片山恭一/季刊午前・55)。2000年にわたり人々を酔わせた『聖書』という物語、自由・平等・友愛といった虚構が綻びてきたとき、頼りとなる虚構はもはやマネーしかない?――「貨幣よりももっと人を惹きつける、魅力的なフィクションを作ればよい」「この行き詰まった世界は、広々としたところへ出て行くことができる」。
(「風の森」同人)
《参照:タイトルに込められた“想い”の競演――行き詰まった世界を超えていく新たなフィクションを(片山恭一) 》

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2017年8月 7日 (月)

文芸時評7月(東京新聞7月31日)=佐々木敦氏

沼田真佑「影裏」技術駆使確かな筆力
加藤秀行「海亀たち」独特のグローバルさ
≪対象作品≫沼田真佑「影裏」(「文学界」5月号)/加藤秀行「海亀たち」(「新潮」8月号)/「現代文学地図2000~2020」(「文藝」秋号)。

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2017年8月 5日 (土)

文芸交流会の「文芸同人誌展示会」の意義について

  外狩雅巳事務局長の骨折りで、「文芸同人誌展示会」が実現した。その後の活動をしることができる。《参照;自由な表現の場をつくる文芸交流会の精神=外狩雅巳
 まだまだ、経済関係者などに文学とか、文芸同人誌をやっていると、大丈夫か? とか言われる。ちょっと変わり者の世界と世間では思われているようだ。だから、同人誌仲間で集まることに意義があるのかも知れない。
 このサイトも変わり者の世界を世間にさらしているのだが、リアルに現物を見てもらおうというイベントができたのは今年の収穫である。読者の少ない同人誌の強みは、独自情報が無差別的に盛り込めるということであろう。それは言論の自由の場があるということだ。

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2017年8月 4日 (金)

文芸同人誌「仙台文学」第90号(仙台市)

【「冬の虹」渡辺光雄】
 1964年の昭和の東京オリンピックが開催される前年。過疎地となった東北の小学校に赴任した若い教師の奮闘記である。経済高度成長の勢いがあった時代ではあるが、そこには、大都市に人口が集中し、農業や炭鉱の産業が置き去りにされた現実がある。
 その地域で、義務教育の平等性をも守って戦った教育者としての矜持を描く。実体験なしでは書けない、数々のエピソードを力強い筆致で展開する。人々の因習と貧困のなかでの物語には、読者をひきつける魅力がある。同時に、豊かさに溺れ、ゆるんだ生活意識との生命力の衰退を感じないわけにはいかない。自然に輝いていた昭和時代の精神と、無理に輝きを作りだしているかのように感じる平成時代を感じてしまった。なぜか、胸につまったものがある。それは、現代におけるこの国の変わらぬ「貧しさへの認識である。
  田坂広志・多摩大学大学院 教授はメッセージメール「風の便り」(96便)で説く。「何年か前、参議院の参考人として招かれ、 議員の方々から、次の質問を受けました。ーー 国の「豊かさ」とは何でしょうか。どうすれば、我が国は、「豊かな国」になることができるのでしょうか。ーー この質問に対して、心に浮かんだのは、 ただ一つの思いでした。 我々は、どこまで豊かになれば、自らを「豊かな国」と考えるのだろうか。その思いでした。ーー
 半世紀を超えて戦争のない国。世界第三位の経済大国。最先端の科学技術の国。世界有数の高等教育の国。ーー
 人類の歴史を振り返るならば、 かつて、こうした境遇に恵まれた国は、この地球上に存在したことはなかった。
 我が国以上に「豊かな国」は、かつて、存在したことはなかった。そのことに気がつかない。それが、この国の「貧しさ」なのかもしれません。2003年9月1日(田坂広志)。
【「橋を渡った女」牛島富美二】
 教師をしていた高浜が、図書館で昔の教え子の容子と偶然出会う。その容子が、誰かに殺害されていることがわかる。その推理を高浜がするという設定。高浜の視点と容子の視点が別になったような感じで、違和感を感じるところに妙な味わいをもつ。ミステリーでないという前提で読めば、の話だが。
【「再読楽しからずやーウイリアム・フォークナー①ミシッピー」近江静夫】
 アメリカ文学のフォークナーを読まずして、新しい文学の発想はないと思わせるほど、その手法の研究による日本文学への影響が大きかった。懐かしいと同時に、トランプの人種的差別主義で、再び脚光浴びるのかも知れない。アメリカ社会と文学の関係を再認識させるかもしれない、興味深い評論になりそう。
 発行所=〒981-3102仙台市泉区向陽台4-3-20、牛島方、仙台文学の会。
 紹介者=「詩人回廊」北一郎

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2017年8月 3日 (木)

「文芸時評」8月(産経)=早稲田大学教授・石原千秋

 浅田彰の還暦を記念して行われた(浅田彰は僕より2歳若いと改めて確認した)、東浩紀、千葉雅也との鼎談(ていだん)「ポスト・トゥルース時代の現代思想」(新潮)を読んで、「大きな物語はもう来ない」と言いながら、僕たちはいま「近代の終わりという大きな物語」のまっただ中にいるのだと思わざるを得なかった。この鼎談が説得力を持つようなパラダイムこそが「近代の終わりという大きな物語」なのだと言いたいのである。
 東は、この40年ほどの思想的な流れをまとめている。「ポスト・トゥルースというのは、実はすごくポストモダン的なネーミングです。真実などない、ということがポストモダンではよく言われていて、そのあと九〇年代、二〇〇〇年代にはむしろポストモダンに対する反動として、『真実』や『エヴィデンス』を人々が求めるようになった。ある種の理性主義と実証主義に戻ったわけですよね。ところが、現実にはポスト・トゥルースの時代が来た」と。実に見事というほかないが、このまとめ方に納得することが「近代の終わりという大きな物語」の中にいる証拠だと言いたいのである。
《参照:「近代の終わり」という大きな物語 8月号 早稲田大学教授・石原千秋

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2017年8月 1日 (火)

西日本文学展望「西日本新聞」2017年7月29日(土)朝刊=茶園梨加氏

題「死者との対話」
田島安江さん「紫の花に」(「季刊午前」55号、福岡市)、森美樹子さん「長い約束」(「九州文学」第7期38号、福岡県中間市)
佐野ツネ子さん「葉子に託されたもの」(一)」(「雑草(あらくさ)21号、福岡県筑後市)、はたたつこさん「点と線と線」(「風」19号、同県筑紫野市)、宮川行志さん「風説幕末石工秘聞「木石にあらず」」(「詩と眞實」817号、熊本市)、いいだすすむさん「黄昏(たそがれ)時」(「飃」105号、山口県宇部市)
文芸同人誌案内掲示板:ひわき さんまとめ)

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