文芸同人誌「文芸中部」105号(東海市)
本誌を手にすると、常連の作家の名が多くある。皆うまく書いているのだろうな、という先入観が生まれる。水準が安定しているのだ。100号が第6回富士正晴全国同人雑誌賞の特別賞を受賞したのも、雑誌の歴史的役割と作品の水準が高いところで安定しているのが、評価されたのであろう。
【「三人二題」三田村博史】
文学論とかつての同人雑誌の活動を折り込んだエッセイである。辻原登「東大で文学を学ぶ」のなかで、「模索」(バスティ―シュ)を文学における最も重要な手法」と位置付けていることを軸にして紹介。横光利一が提唱した「純粋文学論」のなかでの、通俗小説の二大要素は偶然性と感傷性とかによってこそ生きるという説にふれている。そこで、辻原の通俗小説の偶然性は、快く読みやすいとしながら、現実生活における偶然性は、恐ろしいという。
ドストエフスキーの作品の独自性を、ジイドとともに、この世界における偶然性と現実に光を当てようとしたと、引用をしている。
現代において、文学的な視点での手法や価値観は、人々の持ち時間でみると、通俗小説の簡便さに比べ、世界への問題意識や認識のあり方を考えるには、時間を長く消費させるものがある。多忙である。
これによって、文学的な芸術性に関心を持つひとは、減少傾向にある。作家を業をする人は、一定の読者の獲得が必要であり、同人誌作家は、同人仲間の評価を無視出来ない。
そのなかで、独自の文学性を模索するには、ある程度の信念と意思の強さが求められるであろう。
本エッセイでは、清水信氏の同人誌評が関西で大きな役割を果たしたことや、その後の「東海文学」などの動向について触れている。
自分は、同人誌紹介をはじめたのは、文芸愛好家の作品から社会情勢を観察しようという意図があってはじめた。贈呈へのお礼を兼ねて、紹介文を書いてきたのだが、義務という感じではない。「文芸中部」を読み始めたのは、井上武彦氏の晩年の作品が読めたころで、神と人の生死の認識を深めるような作風に、純文学性を感じた。まもなく亡くなったことを知った。世の無常を感じたものだ。紹介しても無為のような気がしないでもないが、なにもないより、ましであろうと思う。また、各地の文学市民の生活環境が見えるので、興味は尽きない。
【「磨く」丹羽京子】
主人公の「私」は、空港の清掃会社の現場で働いて20数年の女性。46歳になるが独身である。他人には蔑まれながら、磨くことは嫌ではなく、転職することもなく、仕事第一でやってきた。両親はすでに亡くなり、裕福なところの嫁いだ友人に、現場で出会ってしまう。そこで、彼女の義父の家の清掃を臨時で頼まれる。頑固なところのある老人らしい。
頼まれた義父の家の仏壇が立派なのに感心しながら、手を抜くことなく、片付け清掃をする。すると、その老人から結婚を申し込まれる。それを軽くいなして、役目を終わらす。
その後、その義父が亡くなったことを友人から知らされる。
清掃の手順が手際よく描かれ、面白い。また、友人や義父の人物像も適度に描かれている。現代の独身アラフォーの生活スタイルが、表現されている。一種の社会の下層にいながら、それを自分の世界と割り切った精神が、作品をまろやかにしている。アクセントを弱めた書き方が、地味な印象を与える。とくに「私」の心情が、掃除好きだけ、でしか表現しないのは、物足りないところがある。だた、偉くなったり、裕福になるより、落ち着いて生活を優先する世相の風を代表するようなところを感じさせる。
【「愚痴る」堀江光男】
詩となっているが、少年時代の弟と姉の記憶から、老いて亡くなるまでの、時の流れと情念を断片として並べる散文である。叙事詩であるが、省略をした散文で文学性がある。辻原のいう「模索」のひとつにして欲しい。
【「四人で一緒に」堀井清】
独自のスタイルをもつ作家で、静かでなめらかな文章が、いつもの個性を感じさせる。話は、友人の妻と不倫を続けている男が、その秘密を同僚に知られて、脅迫的な存在になる。いつまでそれを続けるのか、と問われる。だが、当人には答えられない。そのうちに、不倫相手の夫が、それに気づき、妻にも知られる。男は友人に妻と不倫をしたらどうかという暗示的な提案をし、そうなる。それからどうなり、どうするかは不明なまま、話は終わる。当初から、行く先の知れない行動を描くことを、理解させながら、それを納得させるような文学的な作品。
発行所=〒477-0003愛知県東海市加木屋町泡池11-318、三田村方。文芸中部の会
紹介者=「詩人回廊」北一郎。
最近のコメント