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2017年5月11日 (木)

文芸時評4月(毎日新聞4月26日)=田中和生氏

『実況中継 トランプのアメリカ征服』(文芸春秋)=反トランプのデモ「ウィメンズ・マーチ」などで多くの女性たちが声を上げている。
/英語圏で活躍するナイジェリア出身の作家チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの、二〇一二年に行われた講演録『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』(くぼたのぞみ訳・河出書房新社)=女性の社会進出は正しいことであっても、それを阻む現実はいつでもありうる。そんな現実に対し、アディーチェはしなやかな言葉で、フェミニストを男女の別なく「そう、ジェンダーについては今日だって問題があるよね、だから改善しなきゃね」と考える人と定義し直す。
/桐野夏生の長篇(ちょうへん)『夜の谷を行く』(文芸春秋)=連合赤軍のメンバーを取り上げたフェミニスト的な作品だ。作者が三人称で描き出す主人公の「西田啓子」は、一九七二年にあさま山荘事件を起こす直前の連合赤軍から脱走し、逮捕された経歴をもつ。内ゲバで殺人をくり返した組織にいた「啓子」に親族も世間も厳しく、正体を隠して塾講師として生きてきて、年金暮らしの晩年を迎えている。行き来があるのは、妹と姪(めい)だけだ。
 リーダーで死刑囚だった永田洋子が一一年に亡くなったことをきっかけに、かつての同志から連絡が入ることも重なり、次第に「啓子」は過去の記憶に向きあうことを強いられていく。正しさを求める「啓子」の言動と孤独な生活ぶりが怖(おそ)ろしいほどリアルで、それを強いる日本社会のあり方もあぶり出されるが、重要なのは女性の視点から連合赤軍が語り直されていくことである。背後にあるのはなぜ女性たちが、とりわけ妊娠中の女性が連合赤軍に参加したのか、という問いだ。
 殺人ができる女性兵士だったから、というのが「啓子」に突きつけられてきた理解であり、孤独の原因である。しかし作者は「啓子」の記憶を掘り起こしながら、子どもを産める女性だからこそもつことのできた理想が、そこにあったことを明らかにする。永田洋子に象徴される、男性の視点で裁かれた女性を別の側面から照らし出し、連合赤軍のイメージを更新することを迫る快作だ。
/旦敬介の中篇「アフリカの愛人」(『新潮』)は、ホテルで働く女性と結婚してケニアのナイロビで生活するようになった、フリーのジャーナリスト「K介」を描く。日本円の力で、植民地的な乱痴気騒ぎを楽しむ「K介」は、妻の目を逃れるため取材と称し、ウガンダ生まれの若い女性「アミーナ」と逃避行する。
 作品が興味深いのは、語り手の「僕」が「K介」と愛人「アミーナ」の両方を記述していくところだ。その「僕」は「アミーナ」が怖れる悪霊のように「K介」たちにつきまとい、舞台であるアフリカ的な世界をありありと描き出す。そのことに必然性があるのは、浮気がばれた「K介」が妻ではなく「アミーナ」と暮らすことを選んだという結末が示されるからだが、そうして日本語の記述とアフリカ的な感覚が結びつき「僕」が出現する。
/中原清一郎の中篇「消えたダークマン」(『文芸』)は、新聞社に勤めるカメラマン「矢崎晃」を主人公にして、一九九九年までつづいたコソボ紛争を取り上げる。表題のダークマンとは現像の担当者だが、一九九一年に起きた湾岸戦争ぐらいからカメラはデジタル化され、ダークマンが姿を消すと同時に戦争報道の管理化が進み、システムの一部として報道内容は横並びになった。
 そのことに違和感を抱く「矢崎」は、写真の力を信じて安全なベオグラードから最前線のコソボへと向かう。そうして記録されるのは、紛争に巻き込まれたセルビア人の生活であり、管理された戦争報道では見えないコソボの現実だ。しかし末尾でシステムに敗北していることを思い知った「矢崎」は、唐突に同僚を「それでも日本人か」と詰(なじ)る。おそらくそれはかつて日本も戦場だったからであり、その「日本人」という言葉は、くり返し戦争の記憶に突き当たる、古井由吉の最新作『ゆらぐ玉の緒』(新潮社)に通じている。
連合赤軍事件 女性の視点から描き直す=田中和生】
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