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2017年5月24日 (水)

東浩紀ゲンロンゼロ「観光客の哲学」橋爪大三郎・評

「観光客」とは何なのか。
 リベラリズムが退潮した。他者を対等な人間として扱おうという普遍主義のプログラムが、信頼を失った。代わりにコミュニタリアニズム(アメリカ・ファースト的ナショナリズム)とリバタリアニズム(グローバリズムでオッケー)がのさばっている。その両者が互いを強化しつつ並走している現代は、《二層構造の時代》なのだ。
 こうした流れに抗議する「マルチチュード」(多様な人びとの群れ)に希望はあるか。抗議だけなら、帝国の裏返しだ。それを「郵便的」なマルチチュード、つまり「観光客」に昇格させよう。著者の提案である。
 本書が繰り広げる議論は、オーソドックスで本格的だ。ルソーからヴォルテール、カント、ヘーゲル、シュミット、アレント、ジジェク、ノージック、ネグリへ、近代の主体のあり方が変容し、行き詰まり、息苦しい場所に追い込まれていく必然を精確に丁寧に描いていく。
 なぜ息苦しいのか。《自由だが孤独な誇りなき個人(動物)として生きるか、仲間はいて誇りもあるが結局は国家に仕える国民(人間)として生きるか、そのどちらかしか》ないから。若者がやみくもにテロリストになるのは、こういう場所だ。
 そんな絶望を超える可能性が「郵便」である。「郵便的」とは、《誤配すなわち配達の失敗や予期しないコミュニケーションの可能性を多く含む状態》のこと。観光客は、ビジネスの出張と違って、予期しないコミュニケーションに開かれている。《帝国の体制と国民国家の体制のあいだを往復し、私的な生の実感を私的なまま公的な政治につなげる存在》なのである。
 このように理路をたどる著者は、思想が育たぬこのポストモダンの時代に、真摯(しんし)に前向きに哲学者としての責任を果たそうとする。あくまでも倫理的なその姿勢は、涙が出るほどだ。欧米の思想家も誰ひとり試みていない、果敢な挑戦がここにある。
 第2部は「家族の哲学」。そこからドストエフスキー論を紹介する。
 ドストエフスキーは、父殺しを終生のテーマとする作家だ。テロに連座し死刑判決を受け、恩赦で救われた。そんな彼の作品の主人公は、社会主義者→地下室人→無関心病、と進化していく。『カラマアゾフの兄弟』では、スメルジャコフは地下室人、イワンは無関心病。社会主義者はいない。だが、未着手に終わったその続編では、少年コーリャが長じて、皇帝暗殺を試みるはずだったと、著者は(亀山郁夫氏の研究を手引きに)推測する。コーリャはアリョーシャに父をみる。だがアリョーシャは不能の父で、暗殺を止めもコーリャを救いもできない。それでも若いテロリストに、子に対するように接する。これこそいま必要な救済ではないのか。リベラリズム→コミュニタリアニズム・リバタリアニズム→観光客(誤配の空間)へ、の可能性がここにある。
 粗削りで強引な論かもしれない。だが本書には、切迫する時代に書かれざるをえなかった、説得力と熱量が具わっている。
《毎日新聞:『ゲンロン0 観光客の哲学』=東浩紀・著

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