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2017年5月14日 (日)

日本と世界の底流ー議員は必要か。地球環境の現在

 選挙で市民の代表を決める民主主義、しかし選ばれるのは、数の多い団体にの支持者である。なぜ、これだけ保育所が足りないという市民がいるのに、保育所がすぐできないのか。それは議員が保育所を作ろうとしない人たちの代表だからだ。規制を設けて保育所を作れないように工夫する議員がいるからだ。議員がいなければ、保育園のほしい人たちが集まって、規制を取り払って自由に保育園を作ろう。一例をあげれば、こういう考え方から出たのが新党「地方議員ゼロの会」である。《参照: 「地方議員ゼロの会」が直接民主制の構築》いまは、おそらく気運が向かないであろうが、社会的にある勢力が隆盛してるときに、その反作用勢力が少しづつ育ち、両勢力が接近したときに、そのどちらでもない体制が生まれる。それが弁証法論理だ。その底流にも見える。
 すし、さしみなど、魚の生食を世界に流行らせた水産物消費大国日本。その方向性は世界に影響を与える。江戸時代からの日本の丑の日のうなぎ消費期を狙って、世界中でウナギをとるので、絶滅危惧が出ている。それを、日本がウナギでなく、ほかの肉の日にすれば、ウナギが繁殖するヒマ期間ができるという。また、タイでは何年も海の船で暮らし、麻薬密輸や密漁の温床になっている。小林多喜二の「蟹工船」よりもひどい労働者虐待があるのをグリーンピースが報道している。グリーンピースの取材がテレビや新聞でとりあげられるないのはなぜか。《参照:魚食を好む日本の国民性に、どんな国際的課題があるのか

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