文芸時評(東京新聞5月30日)佐々木敦氏
高橋弘希「日曜日の人々(サンデー・ピープル)」造詣巧み、主題に真っ向/古川真人「四時過ぎの船」祖母なき家の片付けでー。
《対象作品》高橋弘希「日曜日の人々(サンデー・ピープル)」(「群像」6月号)/古川真人「四時過ぎの船」(「新潮」6月号)/宮崎誉子「水田マリのわだかまり」(同)。
高橋弘希「日曜日の人々(サンデー・ピープル)」造詣巧み、主題に真っ向/古川真人「四時過ぎの船」祖母なき家の片付けでー。
《対象作品》高橋弘希「日曜日の人々(サンデー・ピープル)」(「群像」6月号)/古川真人「四時過ぎの船」(「新潮」6月号)/宮崎誉子「水田マリのわだかまり」(同)。
「赤頭巾ちゃんの警句」
《対象作品》渕野千穂「水鳥/視野」(「ignea」7号・大阪府)/齋藤葉子「ダフニア」(同)/(?)「ふたごばなれ」(「せる」第101号・大阪府)/木島丈雄『或る「ネズミ男伝』(「九州文学」37号・福岡県)/小田部尚文「夜の墓参り」(「文藝軌道」25号(神奈川県)/澤つむり「蛹の季節」(「狐火」21号・三郷市)/猿渡由美子「駅に立つ」(「じゅん文学」90号(名古屋市)/沢崎元美「柳町列伝」(「月水金」40号・所沢市)/井本元義「ある弁護士の手記」(「海」17号・大宰府市)。
群像新人文学賞には当選作はなかったが、2編の対照的な小説が「優秀作」として掲載された。上原智美「天袋」は名前をこの世に刻みつけておきたい人物が主人公で、李琴峰(りことみ)「独舞」は名前を変える人物が主人公。「天袋」は天袋に籠もり、「独舞」は台湾と日本とアメリカを渡り歩く。「天袋」の主人公は殺したがっており、「独舞」の主人公は死にたがっている。共通しているのは、どちらも主人公と出来事がうまくかみ合っていない点。簡単に言えば未熟。しかし、こういう未熟さは新人には許されていい。完成度を求めすぎるとこぢんまりしてしまう。その意味では、この2作を「優秀作」とした選考委員には見識がある。当選作としなかったことも含めて。(2p抜粋)
《もっとエロスの香りを 6月号 早稲田大学教授・石原千秋》
5月26日付の朝日新聞「文芸時評」に作家の磯崎憲一郎氏がこんな事を書いている。『ー小説とはストーリーではない。大事なのは語り口でありーー』 これは円城塔作品「文学渦」について語っていることの一部だが心に残った。
続いて「楽雅鬼」を読んだところ次のような感想を持った。
【村崎みどり「ふたりぼっち」】
児童誌設を出て自活する男女の日常。猛志は仕事が長続きせず五歳年上の女に養われている。
施設の「めぐみ学園」は18歳で卒園なので、住居確保と食費に追われる日々での同棲生活の倦怠感。アサ姉と呼ばれる女性の視線で関西弁会話の多い表現で書かれている青春小説。
施設内で猛志が愛した沙織を嫉妬する。交通事故死した沙織。沙織の母と武志の父が結ばれる。
複雑な男女関係を抜け出し四国から大阪に来てふたりばっちで寄り添う日々が活写されている。
語り口に引き込まれ読み終わると余韻が残る。ーー長いあいだ生理が来ていなかったーー上手い小説なのかどうか?よくわからない。気になる作品はいつまでも忘れられない。
編集後記も無い。A5版の70頁。創刊号は2016年10月22日の「週刊読書人」で評価されている。
発行所=〒520-2132大津市神領 3-11-25、高木紹(連絡先)。文芸集団「楽雅鬼」。発行日=2017年4月20日。
紹介者=文芸交流会事務局長・外狩雅巳《外狩雅巳のひろば》
【「功徳」椿山滋】
29歳になる吉沢君恵は、清真会という宗教団体に入会して半年。素晴らしい人間に生まれてこなかったことで、両親をうらむようなうじうじとした性格だとある。少ない友達のひとり、高校生時代の弘子に誘われて入会した。この世で苦労しても功徳を積んで来世で幸せになろうという思想らしい。弘子は会費やお布施の経済的負担に耐えられず、脱会するという。やがて清真会の代表は、信者の金を遊びに使って姿をくらましてしまう。
茫然とした君恵は、家に戻ってドラムスティックゲームに没頭する。その後、近所に似たような教義の宗教団体があることにの思い当り、そこに入会しようと決心する。
君恵のもつ不可解なような性格を描くが、同時にそこにある部分は人間の業のようなもので、彼女を愚かささだけを読み取るわけにはいかない。短いなかで、内容の濃さをもつ。
【「今浦島の帰郷」高杉洋次郎】
浩介は定年退職して10年。年齢相応の病を克服するなかで、舞鶴地方の郷里に帰った話を、きっかけに、折々に過去の思い出や出来事を語る。浩介は俳句、短歌をたしなむので、作品を挟みながら、いろいろある人生の過程を引き出す。技法はいいが、話は多彩で長く感じる。人生的なこだわりを超越した視点のためで、自己表現の部分が多くなっている。その分、作者の性格が文中からにじみ出ている良さはある。
【「てぶくろ」冬木煬子】
千佐という家事に長けた女性がいて、夫の昌一と二人暮らし。「三人の子供が独立して出て行ったそういう年頃の夫婦である。」という。千佐はネット通販で、手術用の使うような手袋を買うが、これが大変便利で、特別な効用がある。これにこだわった日常生活が語られる。さらにことあるごとに―なんだかなあ―という詠嘆の言葉が出る。これで、かなり長い話が面白く読める。文字面もよく、軟らかなウイットを含んだ文芸作品である。だから、単純な自己表現より良いということにはならないが、より文学的であることは確か。
【「茨木市ドン底生活(一)」折口一大】
タイトルが直接的なので、それだけで笑ってしまったが、読み物として、これが一番面白い。現代風俗小説である。失業してミュージシャンバンドを結成しようと、メンバー仲間を集めるところである。
【「サリーと共に」野上史郎】
サリーという犬マニアの趣向の強い人間の話。行動をつなげれば、話がつながっているのだが、人間精神の論理のつながり部分を描くのを忘れたのか、抜けたところがある。読み終わって、えっと驚いた。これがマニア精神なのだろう。
【「過労死殻の逃走」紅月冴子】
残業の多い仕事をしながら、小説を描くことの大変さを述べ、それでも「ガンバル」と一直線な文学する心を描く。私もそういう境遇の時期があった。そんなとき、映画「パピヨン」の脱走兵(スチーブ・マックイーン)が、ゴムボートで海原に出て「おれは、くたばらねえぞう」という場面を想ったり、安部公房の「けものたちは故郷をめざす」を読んで、弱った力を恢復させていたものだ。その経験から、良い芸術は人生の役に立つと考えるようになった。だが、そういう思想の自分は、本当は芸術に縁遠いのだろうな、と考えるようになった。
発行人=〒567-0064大阪府茨木市上野町21番9号、大原方「日曜作家」編集室。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
【「ユンボのあした」(二)根場至】
62歳の水谷は、若い頃に魚屋の実家を飛び出し、さまざまな職場を経て、現在は警備保障会社の交通警備員をしている。そこで出会った出来事を詳しく描く。警備員の仕事の内容や、アルミ缶ゴミを集めて暮らすホームレスの生活実態を描く。それだけで面白いが、だからといって、ただの生活日誌ではない。まず、出だしに「人は望んで生まれてくるのでもなければ、目的をもって生まれてくるのでもない。」とある。それを強調する意味は異なるが、認識で同様の感覚の持ち主だとわかる。
小説というものは、読者の日々の生活において、気付かなかったり、見逃したりしていることを、改めて再認識させるか、その角度を変えて見せるもの。この作品は、それを探し求めていると感じさせる。その意味で純文学の製作過程として読める。つまらない日常を平凡に書いてあるとして、それだから読むに値しないということではない。ここに小説の受け止め方と読み方の難しさがある。
【「D・H・ロレンスの想い出」(5)尾高修也】
私は外国語がわからないので、翻訳でしか読めないが、ロレンスは読んでいる。同じ原作のものを異なる翻訳者で読むのも、原作をより深く理解できるものだ。
学者である筆者は原文で読んでいるらしいが、ここでは新訳「チャタレ―夫人の恋人」(武藤浩史・訳)を対象にその意義を述べている。大変勉強になる。私は、伊藤整・伊藤礼共訳のものである。そして、いまは、過去に裁判沙汰になった小山書店版の伊藤整訳の上下巻を伊藤礼氏より提供されたことから、その小説の意義について研究している。尾高氏は、ロレンスは小説が巧いとしているが、まさに同感である。現代は、小説に対する考え方に定説がなくなっているようだ。そのなかで、これが小説だと示せるのがロレンスの作品であろう。当然だが、ロレンスは詩も書いている。哲学や社会学的なテーマを小説芸術にするうまさは、彼が詩人であったことに関係があると思う。その思想を小説に反映させるために人間の性関係を絡ませているにところに、一般人にも読ませる技術がある。これからのロレンス論の展開が楽しみだ。
発行所=東京「朝日カルチャーセンター」尾高教室。発行人=〒346‐0035埼玉県北本市西高尾4-133、森方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。
「観光客」とは何なのか。
リベラリズムが退潮した。他者を対等な人間として扱おうという普遍主義のプログラムが、信頼を失った。代わりにコミュニタリアニズム(アメリカ・ファースト的ナショナリズム)とリバタリアニズム(グローバリズムでオッケー)がのさばっている。その両者が互いを強化しつつ並走している現代は、《二層構造の時代》なのだ。
こうした流れに抗議する「マルチチュード」(多様な人びとの群れ)に希望はあるか。抗議だけなら、帝国の裏返しだ。それを「郵便的」なマルチチュード、つまり「観光客」に昇格させよう。著者の提案である。
本書が繰り広げる議論は、オーソドックスで本格的だ。ルソーからヴォルテール、カント、ヘーゲル、シュミット、アレント、ジジェク、ノージック、ネグリへ、近代の主体のあり方が変容し、行き詰まり、息苦しい場所に追い込まれていく必然を精確に丁寧に描いていく。
なぜ息苦しいのか。《自由だが孤独な誇りなき個人(動物)として生きるか、仲間はいて誇りもあるが結局は国家に仕える国民(人間)として生きるか、そのどちらかしか》ないから。若者がやみくもにテロリストになるのは、こういう場所だ。
そんな絶望を超える可能性が「郵便」である。「郵便的」とは、《誤配すなわち配達の失敗や予期しないコミュニケーションの可能性を多く含む状態》のこと。観光客は、ビジネスの出張と違って、予期しないコミュニケーションに開かれている。《帝国の体制と国民国家の体制のあいだを往復し、私的な生の実感を私的なまま公的な政治につなげる存在》なのである。
このように理路をたどる著者は、思想が育たぬこのポストモダンの時代に、真摯(しんし)に前向きに哲学者としての責任を果たそうとする。あくまでも倫理的なその姿勢は、涙が出るほどだ。欧米の思想家も誰ひとり試みていない、果敢な挑戦がここにある。
第2部は「家族の哲学」。そこからドストエフスキー論を紹介する。
ドストエフスキーは、父殺しを終生のテーマとする作家だ。テロに連座し死刑判決を受け、恩赦で救われた。そんな彼の作品の主人公は、社会主義者→地下室人→無関心病、と進化していく。『カラマアゾフの兄弟』では、スメルジャコフは地下室人、イワンは無関心病。社会主義者はいない。だが、未着手に終わったその続編では、少年コーリャが長じて、皇帝暗殺を試みるはずだったと、著者は(亀山郁夫氏の研究を手引きに)推測する。コーリャはアリョーシャに父をみる。だがアリョーシャは不能の父で、暗殺を止めもコーリャを救いもできない。それでも若いテロリストに、子に対するように接する。これこそいま必要な救済ではないのか。リベラリズム→コミュニタリアニズム・リバタリアニズム→観光客(誤配の空間)へ、の可能性がここにある。
粗削りで強引な論かもしれない。だが本書には、切迫する時代に書かれざるをえなかった、説得力と熱量が具わっている。
《毎日新聞:『ゲンロン0 観光客の哲学』=東浩紀・著》
【「It`s a SEXUAL World‐2‐」塚田遼】
現代人の性にからむ活動を活写。現代への問題提起になっている。今号では、四(女性 一七歳 高校生)のケース。五(男性 四十一歳 舞台俳優)、六(二十二歳 女性 大学生)など三人の人物を登場させている。質の高い小説的な濃度が充分で、ここでは、性が女性の人間性のスポイルになり、男には虚無的な面を照らすように描かれている。この段階でもかなり厚みをもち、人間存在への問いかけに迫ることを予感させるので、後が楽しみだ。
【「芬香」草野みゆき】庭の水仙の花にかかわる時間と物語が短い中で語られる。詩的要素を含んだことによる完成度は高い。
【「ヒア、ボトム」とおやまりょうこ】
三人兄妹の長男の晴樹、一番下の妹の優美が会う。両親と結婚30周年と中の弟の友紀の誕生日が同じ月に重なり、ついでに優美の就職内定が出たというニュースが加わって食事をすることになった。その集まりの前に、優美に会おうと誘われ、ドーナツ屋で会う。
そこで、優美の方から、晴樹の恋人のことを聞いてくる。晴樹は優美が失恋でもしたのかと推測する。非常に個別的な話なので、関心をもつ人はそう多くないと思うが、小さな出来議ごとにこだわる表現力に注目する人もいるかもしれない。
【「腐食」畠山拓】
アクロバット的な語り口で、自由に思うがままに表現する。おそらくこの手法が体質にあっているのであろう。その作家的エネルギーで、これ何だろうと、読ませる。
発行所=川崎市中原区上平間290-6。
紹介者=「詩人回廊」北 一郎
警察組織の事情に詳しい寺澤有氏の話を聞いた。《参照:寺澤有氏が「共謀罪と、警察ねつ造の覚醒剤密輸事件」 》最近は、ネット動画で素早く出すようになったので、自分のサイトの記事は不要のように思わないでもない。しかし、長時間にわたる動画を全部見切れるかというと、そうでもないであろうと、概要を記すことにした。とにかく会場には2時間近くかかるので、動画は便利だ。これで人々の考えに影響を与えるであろう。
まだ、これと関連した情報があって、それだけ単一で知ることよりも全体像がわかる。それを記事にしていくつもりだ。
《対象作品》
松家仁之さん(58)の「光の犬」(新潮、2015年9月号~)は読後、しばらく黙っていたくなる小説だ。物語の静寂の中に、たたずんでいたくなる。
物語の最終盤、町の人口は往時の半分になり、始は父親やおばたちを介護する。日本の人口が6年連続で減少したと伝えた、総務省の14日の発表を象徴するような光景だ。だが、町が静けさに包まれるほど、老いた人々の混濁した意識の中でかつて生きた人々の言葉が冴さえ返り、営まれた生の記憶は美しく輝くのだ。
今年の文学界新人賞に決まった沼田真佑しんすけさん(38)の「影裏えいり」の主人公は、同性の恋人と別れ、東京から岩手に異動して2年になる男性会社員だ。社内に遊び仲間もできた。だが、会社をやめたその友人は生活が乱れ、東日本大震災の津波に巻き込まれたのか行方不明になる。2人が自分の心の揺れを抑え込むように熱中する釣りの様子、豊かな自然の描写に精彩がある。
太田靖久さん(41)の「リバーサイド」(群像)は、大学を出て銀行員になった青年と、小学校のサッカーチームの仲間で、高校を卒業して派遣の仕事につく男との関わりを描く。面倒くさいけれど、変に「正しい」ことを語る男の存在が主人公は気になる。丁寧な筆致で出来事や感情の流れをたどり、男の突然の死がやりきれない影を落とす。
今月の文芸誌では、旦敬介さん(57)の「アフリカの愛人」(新潮)も注目作だ。南米やアフリカなど各地に暮らし、『旅立つ理由』で読売文学賞を受賞した著者の小説である。日本人の妻とケニアに滞在する<K介>が、ナイトクラブで知り合ったアミーナを愛するようになる話だ。
ベテランの森内俊雄さん(80)は、「新潮」2013年11月号から始めた計6本の連作小説「道の向こうの道」を終えた。1956年、大阪から上京して早稲田大の露文科に入学した大学生の青春をつづる。「いいかね、きみたち。露文科の学生になったからには、もはや就職はあきらめたまえ」。1年生の最初の専修科目の授業で高らかに、教授は学生たちに言い放つ。かつての大学には、紛れもない本物の文学があった。
二瓶哲也さん(48)の「墓じまい」(文学界)は顔にやけどの痕を負いながら、5人の子どもを育てる女性の造形に型破りな活力がみなぎる。(文化部 待田晋哉)
ポール・オースター回想録
米国を代表する作家の一人、ポール・オースターの回想録『冬の日誌』と『内面からの報告書』(いずれも柴田元幸訳、新潮社)が刊行された。子どものころにボールを一人で高く投げて遊んでいて大けがをしたこと、性に目覚めて彼女と唇がひび割れるまでキスしたこと……。時間が行きつ戻りつする文章に、人間の記憶とは過去から現在へ真っすぐには流れず、波打つように揺らぐものだと改めて感じる。
《 【文芸月評】三代記 一瞬一瞬で描く》
佐藤佳奈「私が描く明日の農業」第8回全国農業関係高等学校エッセイコンテスト最優秀作品(福島県立会津農林高等学校 農業園芸科3年)
「ほほづゑ」92号特集「脳とこころ」より中村久雄・片桐衣里・堀内勉の座談会、「VAV ばぶ-27」より「北村透氏インタビュー(後半) 時代の懸崖と思想の自立」、「北斗」4月号より竹中忍「訃報 清水信の絶筆」・「編集後記」棚橋鏡代
単行本では句集『遅日』高橋佳雪(発行者
三光山清光院 善済寺 高橋秀城)
広瀬有紀「奇想の映画監督・寺山修司」(「北奥気圏」12号)、松浦克子「我が亭主」(「水晶群」72号)、菊田均「歴史徒然」(「時空」44号)、速水剄一「啄木の古里」(「四国作家」49号)、田口兵「やっとここまで」(「架け橋」23号)、野中康行「スズメが群れるわけ」(「文芸誌 天気図」15号)、菊地夏樹「相棒」(「あらら」8号)
( 文芸同人誌案内掲示板:ひわき さんまとめ)
大型連休も終わり文芸同人会の活動も通常に戻ります。すでに「民主文学」や「群系」に関しての連絡が来ています。
今年に入手した各会の同人雑誌や個人出版も五月で一巡しますので六月は新趣向を試してみます。出版への反響も順調に出そろってきました。「相模文芸」33号の作品評も、北海道の根保さんと高岡さんからきました。
関東文芸同人雑誌交流会のサイトに掲載されました。
《参照: 「相模文芸」33号(相模原市) 投稿者:根保孝栄・石塚邦男》
《参照: 「相模文芸」33号 投稿者:高岡啓次郎》
小野由貴枝さんの出版反響も一段落したようです。
五月発行の「みなせ」74号の感想会を月末の29日に行って一段落することにします。
六月に「相模文芸」の発行そして夏から秋には文芸多摩や風恋洞やみなせの次号も順次発行予定です。
七月末は夏休みとしますが八月末から秋へさらに冬にかけて今年後半の活動を展開する予定です。
高齢化社会なので文芸趣味の人たちも増えてくることでしょう。交流会への連絡を待っています。
公民館活動などを調べると短歌俳句の活動が盛んにおこなわれています。文芸活動が注目されています。
個人での日記などの出版も多くなっています。交流会への連絡があれば作品感想会を行いたいと思います。
秋にかけて準備を行いたいと思います。
文芸交流会事務局長・外狩雅巳
猿川西瓜と新城理の二人同人誌で、各人が2作ずつ発表している。本誌は「文学フリマ東京」で入手したもの。二人同人誌だと、その作風と個性が単行本に近く感じられる。文芸的文章道にそった価値観では評価できない雰囲気がある。
【「歯車と綿ほこり」新城理】
レイチェルという若い女性をめぐる一種のキャラクター小説で、彼女の活躍する舞台となる世界が、歯車の構造になっているという特殊性が不明であるのは、シリーズものなのかもしれない。
【「ミドルエイジ」猿川西瓜】
体毛が濃いのか、それともそれが風潮なのか。「俺」は美容室で脱毛に励むが、脱毛をすればするほど、身体の他の部分から毛が生え、濃くなるという現象を細かく書く。まじめに淡々と語るので滑稽感が増す。
【「アドミニストレーション」猿川西瓜】
吉住という男は一般社団法人の団体職員に採用される。課長の澤田さんは、接待での酒宴で、糖尿病になってしまっている。やせてガリガリである。やがて病気が悪化して退職することになる。そのなかで、事務職員の仕事の世界と吉住はどうやってその世界に同調するかを考える。団体の事務員の作業哲学というのが面白い。
【「カスタード色の反抗」新城理】
母親が若くして亡くなり、娘の私が喪主となる。短い中に、叔母や祖母との会話、母親との思い出などを記し、悲しみを奥に置いて現代人の一生態を描くことで、運命への恨みもあるのかも知れない。
発行所=大阪市中央区粉川町2-7-711、猿川西瓜-文学フリマ「イングルヌック」。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。
美濃加茂市長の受託収賄事件で起訴され2審で有罪とされた藤井市長が、選挙で3選当選した。有罪の2審では藤井市長が主張を述べる場が与えられず、贈賄がわの詐欺罪服役中の男が贈賄の事実があると述べた。
これに対して裁判長は、収賄の事情を語った事情には、充分説得力があり、もっともらしさがある。としている 毎度の話であるが、これを小説の創作において、事実あったことをそのまま描くと、リアルでないとされ、そこにフィクションを入れると、もっともらしい、リアルさが増したと評されることが少なくない。
実際に、三島由紀夫は海外で映画化された「午後の曳航」を書く時に、横浜かどこかのヨットのオーナーに、小説モデルの取材にヨットを見せて欲しい、と見学に来たという。しかし、三島は肝腎のヨットをあまりよく観察しないで、帰ったという。そしてその小説は評判が良かった。
要するに、事実にこだわると、もっともらしさが失われると考えたのであろう。見ずに書いたといわれたくなかったので形式的に見学したということになる。三島の小説には、実在の地名をつかったのが多い。しかし、そこの土地柄を良く表現しているわけでもない。いわゆる、非現実的な話にもっともらしさをだすための常套的な手法と読める。
現実の裁判では、贈賄の事実を述べた判決書を検察側から熟読させられ、何か月にわたって応答の練習をさせあっれ、それにそってもっともらしい嘘をのべたのではないか。というのが郷原弁護士の憶測だ。
《参照:美濃加茂市長選挙、藤井氏が当選も収賄事件判決に課題》
選挙で市民の代表を決める民主主義、しかし選ばれるのは、数の多い団体にの支持者である。なぜ、これだけ保育所が足りないという市民がいるのに、保育所がすぐできないのか。それは議員が保育所を作ろうとしない人たちの代表だからだ。規制を設けて保育所を作れないように工夫する議員がいるからだ。議員がいなければ、保育園のほしい人たちが集まって、規制を取り払って自由に保育園を作ろう。一例をあげれば、こういう考え方から出たのが新党「地方議員ゼロの会」である。《参照: 「地方議員ゼロの会」が直接民主制の構築》いまは、おそらく気運が向かないであろうが、社会的にある勢力が隆盛してるときに、その反作用勢力が少しづつ育ち、両勢力が接近したときに、そのどちらでもない体制が生まれる。それが弁証法論理だ。その底流にも見える。
すし、さしみなど、魚の生食を世界に流行らせた水産物消費大国日本。その方向性は世界に影響を与える。江戸時代からの日本の丑の日のうなぎ消費期を狙って、世界中でウナギをとるので、絶滅危惧が出ている。それを、日本がウナギでなく、ほかの肉の日にすれば、ウナギが繁殖するヒマ期間ができるという。また、タイでは何年も海の船で暮らし、麻薬密輸や密漁の温床になっている。小林多喜二の「蟹工船」よりもひどい労働者虐待があるのをグリーンピースが報道している。グリーンピースの取材がテレビや新聞でとりあげられるないのはなぜか。《参照:魚食を好む日本の国民性に、どんな国際的課題があるのか》
ながさき総合文芸誌のサブタイトルを持ち、長崎ペンクラブが年二回刊行する雑誌である。
元国会議員が会長になり理事には元県議会議員や元長崎新聞論説委員など多数を連ねている。
印刷製本も本格的で市内企業などの広告も多い。156ページの中身はエッセイを主に誌・俳句・小説である。
元長崎市助役の宮川雅一『長崎水道の恩人・日下義雄墓地・墓石について』など、地域密着記事が多いのは当然であろう。
今号は長く編集長を務めた広田助利氏の追悼記念号でもあり同誌の沿革も記されている。
写真も多用されており長崎市の総合文化雑誌の観もあり文芸同人雑誌とは一味違う読みでがある。
同封された送付案内書に----貴方に一冊、寄贈致します-----とあるのも市民文芸雑誌らしく感じた。
長崎から送付されてきた一冊を手に取り、文芸交流会の議題にどう取り上げ、閲覧するかを考えながら、ゆっくりと読み通した。
150ページの三分の一は元編集長の追悼になっておりさらに三分の一はエッセイ12作品が埋めている。
【「ハプスブルグ王朝」吉田秀夫】
小説は三作品だが、本作品が圧巻である。120枚の力作。ドイツ農民戦争期の首謀者トーマス・ミュンツァーを主人公にした歴史小説となっている。
歴史的階級闘争のお手本としてエンゲルスが取り上げたこの事件を人物本位に書いた小説である。
敗北して捕らえられたミュンツアー夫妻への拷問と凌辱。そして残酷な死刑が生々しい。
改行も無く詰め込まれた読みづらい記述に籠められた作者の感性に触れて読み通してしまった。
人誌作家で無く市の名士である医師が渾身で書き上げた作品に長崎ペンクラ
ブの真相を見たようだ。
発行所=〒850-0918長崎市大浦町 9-27、「長崎ペンクラブ」。
編集人=新名規明。発行人=田浦 直。(平成29年5月1日 発行)
紹介者=文芸交流会事務局長・外狩雅巳
国会で審議中の「共謀罪」法案の対象犯罪には「著作権法違反(侵害)」も含まれている。テロ対策とどんな関連があるのか疑問視され、コミックマーケットの参加者などからは「アニメや漫画のパロディー作品が取り締まられるのでは」と危ぶむ声も強い。実際、こうした二次創作が狙われた例もあるからだ。「クールジャパン」の土壌になってきたパロディーや同人誌文化は、共謀罪でどうなるのか。 (三沢典丈、佐藤大)=東京新聞5月12日記事
著作権違反の適用はTPPでも含まれていた。こうした作業は官僚がつくり、政治家はそれに従うだけだ。安倍政権も長期なのは、2度目でそれを理解し、官僚の方向に従っているからだろう。
そして見えるのは官僚の従米主義だ。米国はモノづくりで世界に負け、失業者が増えた。しかし、さらに芸能文化でも、貧富の格差がひどくなり高価なチケットや映画を見る人が減った。芸能人は日本市場を当てにしてやってくる。儲けるのは、映画やデイズニーの著作権だ。官僚が米国のポチであることが見えるようだ。もう、いっそのこと、米国ジャパン州になったらどうだ。財政赤字もアメリカのものになるし。
『実況中継 トランプのアメリカ征服』(文芸春秋)=反トランプのデモ「ウィメンズ・マーチ」などで多くの女性たちが声を上げている。
/英語圏で活躍するナイジェリア出身の作家チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの、二〇一二年に行われた講演録『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』(くぼたのぞみ訳・河出書房新社)=女性の社会進出は正しいことであっても、それを阻む現実はいつでもありうる。そんな現実に対し、アディーチェはしなやかな言葉で、フェミニストを男女の別なく「そう、ジェンダーについては今日だって問題があるよね、だから改善しなきゃね」と考える人と定義し直す。
/桐野夏生の長篇(ちょうへん)『夜の谷を行く』(文芸春秋)=連合赤軍のメンバーを取り上げたフェミニスト的な作品だ。作者が三人称で描き出す主人公の「西田啓子」は、一九七二年にあさま山荘事件を起こす直前の連合赤軍から脱走し、逮捕された経歴をもつ。内ゲバで殺人をくり返した組織にいた「啓子」に親族も世間も厳しく、正体を隠して塾講師として生きてきて、年金暮らしの晩年を迎えている。行き来があるのは、妹と姪(めい)だけだ。
リーダーで死刑囚だった永田洋子が一一年に亡くなったことをきっかけに、かつての同志から連絡が入ることも重なり、次第に「啓子」は過去の記憶に向きあうことを強いられていく。正しさを求める「啓子」の言動と孤独な生活ぶりが怖(おそ)ろしいほどリアルで、それを強いる日本社会のあり方もあぶり出されるが、重要なのは女性の視点から連合赤軍が語り直されていくことである。背後にあるのはなぜ女性たちが、とりわけ妊娠中の女性が連合赤軍に参加したのか、という問いだ。
殺人ができる女性兵士だったから、というのが「啓子」に突きつけられてきた理解であり、孤独の原因である。しかし作者は「啓子」の記憶を掘り起こしながら、子どもを産める女性だからこそもつことのできた理想が、そこにあったことを明らかにする。永田洋子に象徴される、男性の視点で裁かれた女性を別の側面から照らし出し、連合赤軍のイメージを更新することを迫る快作だ。
/旦敬介の中篇「アフリカの愛人」(『新潮』)は、ホテルで働く女性と結婚してケニアのナイロビで生活するようになった、フリーのジャーナリスト「K介」を描く。日本円の力で、植民地的な乱痴気騒ぎを楽しむ「K介」は、妻の目を逃れるため取材と称し、ウガンダ生まれの若い女性「アミーナ」と逃避行する。
作品が興味深いのは、語り手の「僕」が「K介」と愛人「アミーナ」の両方を記述していくところだ。その「僕」は「アミーナ」が怖れる悪霊のように「K介」たちにつきまとい、舞台であるアフリカ的な世界をありありと描き出す。そのことに必然性があるのは、浮気がばれた「K介」が妻ではなく「アミーナ」と暮らすことを選んだという結末が示されるからだが、そうして日本語の記述とアフリカ的な感覚が結びつき「僕」が出現する。
/中原清一郎の中篇「消えたダークマン」(『文芸』)は、新聞社に勤めるカメラマン「矢崎晃」を主人公にして、一九九九年までつづいたコソボ紛争を取り上げる。表題のダークマンとは現像の担当者だが、一九九一年に起きた湾岸戦争ぐらいからカメラはデジタル化され、ダークマンが姿を消すと同時に戦争報道の管理化が進み、システムの一部として報道内容は横並びになった。
そのことに違和感を抱く「矢崎」は、写真の力を信じて安全なベオグラードから最前線のコソボへと向かう。そうして記録されるのは、紛争に巻き込まれたセルビア人の生活であり、管理された戦争報道では見えないコソボの現実だ。しかし末尾でシステムに敗北していることを思い知った「矢崎」は、唐突に同僚を「それでも日本人か」と詰(なじ)る。おそらくそれはかつて日本も戦場だったからであり、その「日本人」という言葉は、くり返し戦争の記憶に突き当たる、古井由吉の最新作『ゆらぐ玉の緒』(新潮社)に通じている。
【連合赤軍事件 女性の視点から描き直す=田中和生】
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気候の寒暖差のせいか、自律神経が狂い、(アタマはもとから)寝ていても目が回って鼻がつまり息苦しい。眠れないついでに早起きで、文学フリマ東京の平和島へ。75歳の年寄りは、その様子を写真にとった。《参照:文学フリマ東京(第24回)会場設営(ボランティア)の風景》
【「女主人の家」逆井三三】
京子という気位の高さと節度を失わない利発な女性の一生を描く。普通の田舎の素封家の出身から、健康して夫の働きで資産家になる。その事業の詳細は省略して、夫との死別や息子の家出を短く紹介し、その後の京子のゆとりある生活ぶりを丁寧に描く。人生後半に絞って、生涯を穏やかに終わるまでを描く。晩年の近田というマッサージ師との関係も自然な流れに沿って客観的に書く。二人の関係を激しく感情的に表現することも可能であろうが、作者の視線は、人生の幸せは、穏やかな日々の積み重ねにあるというところに納められている。読みやすく退屈させない。作者の視線が人生観を物語っているような作品。
【「鏡の中」花島真樹子】
あかねという女性は鏡を見るのが好き。結婚しても、夫にそれほど関心がなく、鏡の中の世界をイメージする生活。ある日、車の運転中に幻想にとらわれ、事故を起こし、病院に運ばれるが、夫の五郎に見守られながら亡くなる。あかねの着ていた鏡に映していた服が沢山残される。
五郎は、その後ほかの女性と付き合うが、京子の好んだ洋服と彼女が鏡の中にいるような気がして、独身を通す。そして、ある日、彼が無断欠勤したので、会社の人が見に行くと、五郎があかねの服に包まれて、満足気な表情で死んでいた。
退屈な現実から逃れて非現実の世界に。鏡の中に魅せられた夫婦の、精神的な華麗さを感じさせる。奇妙な味の奇譚。
【「悲しみの日」難波田節子】
5月5日は、イスラエルの「ホロコースト」記念日だそうである。その儀式の様子や、イスラエルには「ホロコースト否定禁止法」というものがあるという。本文では、それらの話からわが国の歴史と、戦時の民衆による言論抑圧行動などに話題が移る。作者の父も、空襲で亡くなったことになっているが、遺体はなく行方不明のままだという。アウシュビッツ見学の体験や、ナチスの追跡から逃れるユダヤ人を救済した人々の事例が紹介されている。
人類の差別意識と憎しみ、連帯と博愛は、一人の一人の心にある。富沢有為男とかいう昔の直木賞か芥川賞だかをとった作家は、「文学は人間性の悪の部分を描き出すので、良くない」と、評論を新聞に書いていたそうだ。現在のテレビ報道を見ると、絆とか明かるいとか、付け焼刃で元気のでるようなものが多いが、実際は暗い世の中だからそうしているのかも知れない。
【「あさきゆめみしゑひもせず」藤民央】
心筋梗塞とか心臓病にかかった体験記。同病ではないが、治療生活の一端に惹かれて読んだ。闘病ドキュメント。
【「手術まで」森重良子】
40代の頃から悩まされていた股関節の不具合が、年をとったら痛くて歩けなくなる。しかし、医術に進歩と名医の存在で痛まなくなったという体験ドキュメント。
【「検査入院」島有子】
自治体の胃がん検診でポリープがみつかり、検査入院した体験記。同じような体験をしてるとしても、それぞれ人によって細部はちがうのだろう。
発行所=〒215-0003川崎市麻生区高石5-3-3、長井方。
紹介者=「詩人回廊」北 一郎
文学フリマ東京に出店しました。交流のなかで、全作家協会にも会いました。《参照:第二十四回文学フリマ東京に出店!コミック評論が好調》大阪の善積さんとも会い、彼が「あるかいど」で同人誌評を始めたことから、その難しさについて話題にした。今後そのkとにつて書くことがあるかも。
先日、小説の売り込みはどうなっているのか、という質問を会員から受けた。そこで、ネットに無料で投稿するサイトが沢山あり、そのなかの人気ランキングがあって、上位作品を出版社が本にして出す傾向や、まず芸能人になって名がうれてから本を出すのが手堅いと、説明したら、その傾向説明に大変感心して新鮮におもったようだった。それが正確かどうかはわからないが、一部の職業作家しか大衆知られていないジャンルで、カルチャーの主流ではなくったことは確か。
それだけに、アマチュアには自由な表現の世界になっている。先日、詩人囲碁の湯河原合宿で、伊藤礼さんにお会できたので、じつは「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳で猥褻罪に問われた本が、手元にないと話したら、持っているので、送っていただけるということになった。そして、それを手にしてみたら、いろいろなことがわかった。そこで、「詩人回廊」に連載を開始。「文章における猥褻表現の定型はあるのか」という題にして書き始めた。カルチャーとして、この作品を猥褻であると主張する検事の裁判での文言の一部を検討する。
伊藤整全集からコピーしたのを持っていたのに、紛失してしまった。慌てて以前あった図書館に確かめに行った。すると、その全集は置き場所の関係か、別の図書館の保管になっていた。明日は、電車に乗って置いてある全集のどの巻にそれが記録されているのがあるか調べに行くつもり。
以前は、松本清張の裁判小説を調べるのに全集を探していたら、処分されていたことがあった。どうなるやら。
【「猫・猫・猫」市川しのぶ】
猫ブームというより、日常生活のなかに溶け込んでいる猫。人間と猫の関係から、猫の本質的性格とキャラクター的な個性のありさまを描く。いやとにかく面白い。内容やテーマは猫の存在に結ぶ付くことで、それぞれに多彩な物語がある。文章の簡潔さと手際の良さがで読む楽しみを導き出す。読みようによっては、文芸的表現の新手法に向けて参考になる。エッセイの長いものという視点から離れて可能性を検討する意味で、最初に紹介した。小説を読んでいる気がしないで読んでしまう文学の形式にならないのかということが浮かんだ。
【「普通の人々」長沼宏之】
両親に問題があって養護施設で生活していた由美が、ある日、里親に引き取られて思春期を迎える。そこから、里親との仲がわるくなり、施設に戻ったりする。その後、視点が変わって、里親の母親役になっていた妻ががんで亡くなる。里親になった夫婦の事情が語られる。養護施設の子供と里親の関係をかなり詳しく調査した形跡がある。
そこに描かれた人物の人間性には、ぎこちないところもあり、人により受け止め方に違いが出るかも知れないが、テーマの啓蒙的な効果は大きく、自分も学べた。タイトルの「普通の人々」というのは、意味深長で、考えさせられる。
【「初夏の翳り」岡田雪雄】
戦後から10年ほどした時期の大学生同士の友情関係を描く。女性にもてなそうの中山という男が恋をした。荻原は、その彼女と彼の出会いをとりもつようなことをする。荻原もじつは、その彼女に好意をもっていた。友人の男は、荻原のおかげで、彼女と接触できるが、交際を申し込んで断られてしまう。それから、しばらくして友人は突然、自殺してしまう。その原因を推理できるのは、荻原だけである。冒頭の荻原のところに遊びに来た中山が、新しい靴が玄関でなくなったという。誰かに盗まれたのだろうとなったが、死後その靴が中山のとことにあった、というところが、非常に印象的で、荻原を責めたい鬱屈した中山の心理を表しているようだ。
【「ミンシングレーン1~16番地」合田盛文】
1967年から英国で仕事をした銀行員の記録。T銀行とは財閥系と合併する前の外貨銀行であったのか。海外生活の記録。たまたま自分は経済法則に関心があるので、興味深く読んだ。欧州人にしてみると、敗戦で廃墟の国なったはずの日本人が高度経済成長をしていることに、不快と不思議さを感じていた時期であろう。
太平洋戦争中にフィリピンで負傷し、傷も癒えない元兵士に、恨みのビールを掛けられた話がある。英国人にとって日本人は不愉快な存在であるという空気は、いまもどこかに残っているはずである。また、杉原千畝とユダヤ人出国のパスポートの美談を通説に沿った説を記しているが、美談には違いないが、同じことをしても名を出さない人もいるし、このことを安易に受け取るのは、単純すぎる。とはいうものの、当時の日本人の高揚した精神が反映されている。ヨーロッパの翻訳ミステリーなどを読めば、その複雑な背景を滲ませた作品も少なくない。この問題の根源がどこにあるかなどは映画「アラビアのロレンス」などでも感じることが出来る。英国の帝国主義の負の遺産であろう。
【「絶滅危惧種」空田広志】
ここでは、下部構造にうごめく労働者像を象徴的に描いたものと読める。インコを飼って幻想を見たりするのも、閉塞感からの産物と見える。小説的な面白さと書き方の個性を感じた。
【「ある日の自画像」木戸順子】
胃がんを宣告された男が自らのお墓を探しに行く。友人や見知らぬ少女との出会いを軸に、壊れた妻子との関係を浮き彫りにする。文章と話の運びが巧みで、味わいのある作品になっている。
【「同人誌の周辺」中村賢三】
交流によるものか、送られてくる同人誌の作品評を毎号掲載している。費用もかかるであろうが、本来はこのように活字にして残すのが正当であろう。同人誌の多様性がわかって貴重な存在である。雑誌全体で、文章力抜群で、みな巧いのは日本人だからなのか?と思う。
発行所=〒463-0013名古屋市守山区小幡中3-4-27、中村方。「弦の会」
紹介者=「詩人回廊」北 一郎
(引用2/3ページ目) 文学界新人賞は、沼田真佑「影裏」に受賞が決まった。松浦理英子の選評は「受賞作『影裏』はきわめて上質なマイノリティ文学である」と、きっぱり言い切ってからはじまる。みごとな評価宣言である。
「影裏」は、首都圏から岩手は盛岡に移り住んだ今野秋一が、釣り仲間だった日浅との体験を語る小説である。今野自身が「性的マイノリティー」であることがそれとなく語られ、日浅のやや破綻気味な性格と体験、そして東日本大震災の経験も書き込まれる。森の木々や生き物の名前がきちんと書き込まれ、その森の中にこれらの出来事も埋め込まれていく。都会派のお気軽な田舎暮らしとはまったくちがった生活がそこにあることが、これらの名前の数々が雄弁に物語っている。
《参照:公共図書館に未来はあるか 5月号 早稲田大学教授・石原千秋》
創刊五年目に入り完全に軌道に乗ったようである。編集代表の大原正義氏の連載作品も開花してきた。
【「菰被り通路の涙」 大原正義】
私の記憶では歴史に題材を求めていたころの作品『酩酊船』に注目してこの場所で紹介したことが最初だった。
その後、松尾芭蕉の世界に入り込み『鬼の細道』などを掲載しているのを注目してきた。そして弟子の通路に焦点を合わせて書き込んできた。今号の『菰被り通路の涙』で佳境になって来たようだ。
俳句文学に秀でた乞食の通路を見つけ愛弟子にした芭蕉と裕福な高弟たちとの確執を掘り下げている。
高価な茶入れ器の紛失を通路の犯行だと決めつけられた事で芭蕉から見限られて自棄死にする結末である。
芸術と常識、文学と社会などの問題を俎上にした作品になっていてひりひりとした読み応えがあった。
大原代表が年四回刊のこの同人誌をさらなるステージへと推し進める意欲を毎号しっかりと受け止め読んだ。
現在同人21人、会員39人との事。関西の同人誌世界に旋風を巻き起こすかも知れない。
今後も目を離せない同人雑誌とその主催者・集団として特記しておきたい。同人費は年間一万円と掲載している。掲載費は1ページ千円である。会員は年会費千五百円である。採算点は超えているのが。運営にも注目している。
「日曜作家」(平成二十九年四月二十日発行)編集代表・発行人=大原正義〒567-0064 大阪府茨城市上野町二十一番地九号
紹介者=文芸交流会事務局長・外狩雅巳
題「内に秘めること」
和田信子さん「逢ひみての」(「南風」41号)、立石富生さん「日を数える」(「火山地帯」189号)
中村順一さん「親父って何だった(上)」(「あかね」106号、鹿児島市)、和田奈津子さん「小さな嘘」(「原色派」71号、鹿児島市)、あびる諒さん「傾耳べからず」(「詩と眞實」814号、熊本市)
「ふたり」17号(佐賀県唐津市)より白石すみほさん「曼珠沙華」
「周炎」(北九州市)が59号で終刊。同誌より八田昴さん「サラリーマン作家」
( 文芸同人誌案内掲示板:ひわき さんまとめ)
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