文芸時評3月(毎日新聞3月29日)=田中和生氏
<一部抜粋>森友学園の問題は、わたしが見るところ現政権に近い思想信条をもつ者が、特別な便宜を図ってもらえると感じていたこと、またそのことに対するチェックが、公的機関でもマスメディアでも甘くなることに本質がある。現在の日本では報道の自由だけでなく、公的機関の公平さが失われつつあることを示す、象徴的な出来事と言っていい。力作揃(ぞろ)いの今月の作品で、そこまで想像力が届いていると思ったのは、黒川創の長篇(ちょうへん)『岩場の上から』(新潮社)である。
作品は戦後百年の「平和維持」を訴える少数派となった人々と、殺し殺される戦場を目前に基地から脱走を企てる若者たちの、偶然と必然の出会いを追う。その蝶番(ちょうつがい)となる、原発事故後の放射能汚染の問題、世界規模で結びつく戦場と貧困の問題は驚くほど生々しく、岩場に上がってそれを指摘しようとする者がいなくなるなか、ついに日本は戦争状態に突入する。登場人物の生活ひとつひとつにリアリティがあり、小説として非常に読みごたえがあることが怖くなる、傑作という以上に黙示録的な作品だ。
笙野頼子の長篇「さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神」(『群像』)。猫の意識をもつ「荒神」が作品全体の語り手となっていることに特徴がある。それは飼っていた猫の死後に、実は「私」の方が見守られてきたと信じるからだが、そのことはそこで語られる苦しい家族史や病歴に強い説得力をあたえている。その「私」が、女性作家たちの拠点であったキッチンから「戦争を止めよう」とする言葉を引き出している。
ドン・キホーテ的な意図とサンチョ・パンサ的な世俗性が混在する作品だが、時代に訴えようとする長篇を書いているうちに、前提となる「舞台が壊れてしまう」という「私」の切実な危機感を評価したい。これらの作品に示された鋭い感覚から考えたとき、大きな話題となっている村上春樹の長篇『騎士団長殺し』(新潮社)や又吉直樹の長篇「劇場」(『新潮』)は、いわば「奇妙に平穏な日常」に収まっている安全な作品だと言える。
いずれの主人公も、女性にもたれながら自分の世界を追求するが、ここには日本人が好きな「母子の濃密な情緒」(江藤淳『成熟と喪失』)が生きている。かつて江藤淳は、それが六〇年代に崩壊したと論じたが、だからそれは小説でしか成立しない安全な世界である。だとすれば、そうした情緒が存在しない場所から作品が書きはじめられているという意味で、今村夏子の長篇「星の子」(『小説トリッパー』)が注目に値する。
作者は病弱だった「わたし」を語り手に、中学生になるまでの出来事を辿(たど)る。次第にわかってくるのは、両親が「わたし」の治癒と引き替えに新興宗教らしきものに入ったことで、我慢強い「わたし」の語り口から、崩壊した家族の空間が宗教の原理で満たされた世界が見えてくる。オウム真理教事件が起きた、九〇年代以降の日本の現実に、ようやく正面から立ち向かう作者が現われた。(文芸評論家)
《参照:想像力の先の現実 作家の切実な危機感=田中和生》
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