文芸誌の発行部数と文化の拡散多極化について
雑誌「民主文学」3月号には、民主主義文学会の第27回大会(2017年5月13~14日開催)に関する特集がある。そのなかで、田島会長がインタビューに答えて、会員減により「民主文学」の昨年5月実売が2506部で、8年前の3100部より、500部減少していることを自己批判している。
それでも第3者的には、時代のなかでのカルチャーのポジションが低下しているなかで、健闘しているように思える。
竹内七奈「『民主文学』の灯を消さぬために考えたこと」、乙部宗徳「竹内七奈さんへ」の論調のなかで、純文学商業誌の実情が下記のように記されている。
(一社)日本雑誌協会による発行部数2016年7月号~9月号=「文学界」10000部、「新潮」8400部、「群像」7333部、「すばる」6000部。
これらの商業誌は、人気作家の連載で、それを後日単行本にする。一挙掲載の読み切りをなども、雑誌での読者反応を見て、単行本にするなど、雑誌単体での利益評価できない構造になっている。
先日、NHKスペシャルで、「火花」の又吉直樹の芥川賞受賞の第二作「劇場」を執筆する姿をドキュメントで追っていた。そこで、又吉は「火花」がむずかしいと言われたことにこだわり、難しくて芸術性を持つ作品ではなく、優しくて面白くて、人を力づける文学が出来る筈、という考えで創作をしていた。同時に小説は精神の鬱性を求めるとも語る。
これは、常に大衆を相手にする芸人であることからして矛盾のない発想である。
それは、大衆受けを中心にした発想である。よく、個性的というが、本当の個性というのは、支持者は一人しか存在しないはずである。商業性の個性とは、大衆の平凡性のなかにある。
しかし、そうした大衆の思いつかない発想の転換があったとしても、それは広まらない。そのことは社会の仕組み、制度の発見にも言える。
資本主義は、お金を貸すと利子がつく、時間の経過がお金を増やすシステムである。変であるが、そうなってきた。だが、今はゼロ金利という。何かが変わったのだ。
現代の文化の多極化は誰にでもわかりやすい社会の仕組みの発見されない未開状態からくるのではないか、などとも考える。
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