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2017年1月18日 (水)

小野友貴枝さん「夢半ば」を刊行=日記と回想のちがい

  小野友貴枝さんが、中学生時代からつけていた日記が実家で見つかり「夢半ば」として、書籍化したところ4巻になった。《参照: 「夢半ば」日記四部作の新発売に向けて=小野友貴枝
 この日記は、文学作品として書かれたものではない。リアルな日常の時の人間の率直な感情や思いの記録である。回想としての日記となると、第三者に伝えるのにどうしても物語化する必要を感じてしまう。しかし、日記は、その時の思いの断片の記録である。回想は書き手によって、精神のつながり、自己同一性が保たれている。思い出は、今の価値観で語られる。実際はその当時、何を考えていたなどは、もう忘れてわからなくなっているはずである。
 しかし、日記は中学生ならその時の書き手としての時間のなかで、人格が凍結保存されていることだ。そこが違う。「夢半ば」の第1巻は、「思春期」編である。人は年齢ともに変化する。思春期の彼女は、現在の小野友貴枝と同一であるのか。世間的には、社会的次元の異なる世界にいた自分を同一視するのである。
 1954年の中学3年生のお正月から記録がなされている。旧家の豪農の5女であったようだが、小学生の時に母親が42歳で若死にしたため、父の後妻と暮らす。
 出だしの読み処は、正月の2日の大人たちが買い物に出かけあと、彼女は、お友達の家に遊びに行くのだが、そのとき、長兄の子を背負っているのである。
 当時は、子供が自分より下の弟や妹を背負って、近所のこと遊んだのである。現在、育児を預かる施設が不足しているので、社会問題化している。つまり、この世代の子どもたちは、大人の仕事を補助する生産活動を支援する役目をしていたのだ。使用される立場にあった。
 現代は、子どもの社会参加は、「初めてのお使い」にあるように、消費者でとしてである。そして、親のお金ををもって、物のうりてから、おもてなしをうけることが、最初の体験である。
 世代の違いがどうしてできるのか、その段差の違いのひとつが、ここにある。世代の違いは、話せばわかるのか。社会に対する認識が同じで、親子が交流しているのか。社会に対する考え方が異なるのに、両者が同じように見ていると思い込んでいることが問題なのだ。

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