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2017年1月30日 (月)

文芸同人誌「季刊遠近」第62号(川崎市)

 創刊20周年記念号ということで、同人雑誌で活動する作家たちの寄稿特集がある。下澤勝井、豊田一郎、五十嵐勉、坂本良介、藤田愛子、高橋光子、山之内朗子、小沢美智恵―各氏が同人雑誌に関わる事情を述べている。
 たまたま、今日のネットニュースで、米国ではフェイスブックで「知り合いの輪がどれだけ広がるか」をテーマに調査をしたところ、知り合いになるのは同好の人々だけになるので、それほど知人の輪は広がらないということが判ったそうだ。
【「『歌と日本語』補遺」勝又浩】
 角田忠信の近著「日本語人の脳」(言叢社)を読んだことによる感想である。角田理論には、日本人には情緒を刺激する虫の声が、西洋人にはただの雑音にしか過ぎないという脳の構造の解説がある。さらに「日本語人」は左脳=言語脳で母音も子音も受け取るが、西洋人が左脳=言語脳で受け取るのは子音だけ、母音は右脳にいってしまうこと。母音を基礎にした五十音図がつくれるのはほとんど日本語のみ、という説を紹介している。
 自分も、日本語の言語美の象徴として、万葉集の歌を「漢語系」の外国人に説明したが、理解されなかった記憶がある。しかし、最近の日本人は、山のキャンプに行くと、子供が渓流の音や、虫の鳴き声がうるさいと、運営者にクレームをつけるそうである。
 自分はいつからそうなったのかを、調べたいと思っている。
 また、勝又氏は「同人雑誌神社」をつくる案を提案している。じつは文芸同志会では、かつて「文芸神社」を作ろうと、芸術の対象の神社(弁天神社)や廃止神社の再興の道をさがしていたことがある。一時は、鳥居の穴だけの廃神社跡をみつけ、その交渉にかかったら、それをきっかけにしたのかどうか、再興の話が出て、実際に新しい鳥居ができてしまったことがあったものだ。
【「戦禍と悪夢」(二)藤元】
 なんとなくきな臭くなったこの世界。日本の過去の戦争被災体験を生々しく語る。よく書いている。これがどれだけ実感を伴って受け取られるかが、問題であろう。文学的価値より社会的な価値に優っている。
【「寒桜」難波田節子】
 佑子は未亡人だが、子供がひとり。職業婦人である。祖母が孫の面倒を見に同居している。結婚を考えている男がいるが、彼は生命保険のセールスウーマンと親しくなってしまう。あれやこれや、創作上の人物を造形して現代風俗を描く。お話のつくりが巧みなので、読んで退屈しない。素材がなんであっても読ませてしまう文章技術には感服する。
【「倒れたわけ」河村陽子】
 事実を語ったものだとしたら、その記憶力の正確さに驚かされる。
【「夏の夜の唄」花島真樹子】
 大病をして入院をしていると、かつての恋心を抱いた僧侶が見舞いにやってくる。自らが生死をさまよう大手術のことで、変に思わず会話をするが、あとで、その男は同じ病院で先に亡くなっていたことがわかる。ありふれているようで、幽冥の世界を見事に表現している。
発行所=〒215-0003川崎市麻生区高石5-3-3、永井方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2017年1月29日 (日)

文芸時評(東京新聞2016・12月) 上田岳弘「塔と重力」=評・佐々木敦氏

  『すばる』1月号の特集「17」には驚かされた。もちろん2017年にちなんでいるのだが、とにかく「17」という数にこだわって、谷川俊太郎、角田光代、平野啓一郎、吉本ばななら総勢十四名によるエッセイ「十七歳のとき」、青山七恵、滝口悠生(ゆうしょう)、上田岳弘(たかひろ)の鼎談(ていだん)「『十七歳小説』を読む」、一九一七年に立ち返って夏目漱石没後一〇〇年にかんする水村美苗と小森陽一の対談、ロシア革命一〇〇年をめぐる亀山郁夫、島田雅彦、前田和泉の鼎談、さらには俳人の堀本裕樹の「十七音の遠き海」、数学者・森田真生(まさお)の「数をめぐる十七の断章」など、ヴァラエティに富み過ぎとも思える記事が並んでいる。
  特集といえば『群像』1月号では「五〇人が考える『美しい日本語』」をやっている。蓮實(はすみ)重彦、吉増剛造、橋本治、内田樹(たつる)、リービ英雄、穂村弘、堀江敏幸、村田沙耶香、等々が各々(おのおの)「美しい日本語」を選び、エッセイを寄せている。私も書いている。このタイミングでの特集の企画意図については特に誌面では触れられていないのだが、私も含めた何人もの寄稿者が「美しい」と「日本語」の接続に微妙な違和感を表明しているのがなかなか興味深い。そういう反・ナショナリズム的な反応自体も今や紋切り型ではないかと思いつつ、ついつい留保をつけたくなってしまうということだろう。
 その中で、佐佐木信綱「夏は来ぬ」を挙げた片岡義男の「美しい日本語は、言葉としては残っている。活字で本のなかに印刷された言葉だ。僕がそのような言葉のほんの一端を知ったとき、そのような言葉が描いたはずの日本の風物は、とっくに消えていたと僕は思う。実体はかたっぱしから消えていき、言葉だけが残る」という述懐が心に残った。
 上田岳弘の中編「塔と重力」(『新潮』1月号)は、デビュー作品集『太陽・惑星』、三島由紀夫賞受賞作『私の恋人』、芥川賞候補となった『異郷の友人』と、人類史を丸ごと相手取った極端にマクロな世界観のもとに荒唐無稽な物語を紡いできた注目作家の「種明かし」のような作品として読んだ。なにしろこの小説には、上田作品ではお馴染(なじ)みのSF的にぶっ飛んだ設定は出てこない。
 フェイスブックをはじめとするSNSが物語の中枢に置かれている。「神ポジション」という言葉が出てきて、文字通り「あたかも神のごときポジションからやたらと壮大な視点で語ること」なのだが、それを実体化させると過去の上田作品になるわけだ。「僕」の経歴は作家自身のそれと意識的に重ねられている。上田岳弘という小説家は、どうしてあのような奇妙な小説ばかり書いてきたのかという問いへの、もちろんフィクションではあるのだが、切実な返答らしきものが、この作品のそこかしこに覗(のぞ)いている。「種明かし」とはそういう意味である。これを書くのはかなり大変な、ある意味でしんどい作業だったのではないか。しかしそれに見合う力作に仕上がっている。
 (ささき・あつし=批評家)
《参照: 「すばる」1月号特集「17」 上田岳弘「塔と重力」 佐々木敦

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2017年1月27日 (金)

同人雑誌季評「季刊文科」70号/評・谷村順一氏

≪対象作品≫
内藤万博「愛a・ⅰ」(「夜咲(わら)う花たち」VOL 1・東大阪市)/早高叶「今は亡きラプンツエル」(同)/田中さるまる「イチゴの黒酢漬け」(同)/正木孝枝「春思」(「飛行船」第19号・徳島市)/渡辺勝彦「小骨」({R&W」第20号・愛知県}/高原あふち「オーバー・ザ・リバー」(「あるかいど」59号・大阪市)/泉ふみお「サンタクロースなんかいるもんか」(同)/猿渡由美子「ミスター・ヒビキ」(「じゅん文学」第88号・名古屋市)/とおやまりょうこ「リサ」(「孤帆」第27号・横浜市)/野沢薫子「寂しい朝」(「長崎文学」第81号・長崎市)/濱本愛美「だんじり祭」(「せる」第103号・大阪府)。

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2017年1月26日 (木)

文芸時評1月(毎日新聞1月25日)田中和生氏

  《対象作品》  金原ひとみ『クラウドガール』(朝日新聞出版)/羽田圭介「成功者K」(『文芸』)/青山七恵「帰郷」(『群像』)/松浦理英子「最愛の子ども」(『文学界』)。
ーー文学作品と現実の関係は、どうあるべきなのか。そんなことを考えたのは、実力ある中堅作家たちが、その関係に苦しみながら作品を書いていると感じられたからだ。――小説は小説のためだけに書かれる、という考え方もある。たしかにこの「小説らしさ」を前提とする文学観は、小説が社会に影響をおよぼす主要なメディアで、教養的にも熱心に読まれていた時代にはリアリティーがあった。しかし作家よりお笑い芸人の言葉で本が売れ、ネット上ではまんがやアニメーションが熱心に語られている現在、これは楽観的すぎる考え方だろう。
 だから意識的な書き手は、作品で「小説らしさ」を前提にせず現実との関係を作り出そうとする。まず金原作品は、父親と離婚した母親と暮らしていてその母親も亡くした、大学生「理有」と高校生「杏」という姉妹を描く。現代日本を舞台にしたその作品で、これまで現実と通じる回路となっていた作者自身を思わせる語り手や主人公は姿を消し、性的に奔放な妹と生真面目すぎる姉が、危うい印象で生きる様子が辿(たど)られている。
 作者は現実との関係を作り出し、作者自身と切り離された若い女性たちを描く挑戦をしている。しかし「理有」と「杏」が抱える生きづらさの起源が、すべてその母親にあるように感じられてくると、実は作品が作者自身を思わせる人物に強く規定されていることに気づく。
 作者自身を思わせる人物の位置づけに苦心しているのは、羽田作品もおなじだ。二〇一五年に芥川賞を又吉直樹と同時受賞し、それからテレビへの出演が増えた羽田は、羽田自身を連想させる「成功者K」という主人公を造形している。「芥川賞」や「文藝春秋」が実名で登場し、受賞から大きく環境も生き方も変わった小説家の「K」は、読者がテレビで拡散された「羽田圭介」のイメージを重ねられるように書かれている。
 それによれば、小説家「K」は近づいてくる女性たちと好きなように性交し、以前から交際していた地味な女性とは別れて若い女優とつきあい、仲間の作家たちからは少し距離を置かれている。テレビというメディアを介しているので、体験的な告白と小説的な虚構の区別がつけにくいが、だからこそ告白や虚構を経由せずに語れない真実の感触に乏しい。思うに小説が作り出す現実との関係より、テレビが生んだ作家「羽田圭介」のイメージの方が強いのである。
《参照:毎日新聞・作品と現実の回路 ありふれたものでつなぐ

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2017年1月25日 (水)

神奈川近代文学館で「全身小説家・井上光晴展」開催

企画展・収蔵コレクション展16「全身小説家・井上光晴展」・神奈川近代文学館


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2017年1月24日 (火)

「詩人回廊」という場から生れた外狩作品「「工場と時計と細胞」

  外刈雅巳氏が、文芸同人誌「相模文芸」33号に叙事詩形式の「工場と時計と細胞」を発表した。《参照:政治と文学と「工場と時計と細胞」について=外狩雅巳
  当初は、作者はこれまで書いてきたものでは、まだ思いがつた伝わらない気がする、とうことで、とりあえず「詩人回廊」の場があるので、頭に浮かんだことを、そこに断片を書いておこうということにしたという。
 編集者の北一郎は、言葉はそこに置かれた意味的なモノであるという発想をもって(理解する人は少ないが)それば、並べられたモノとして言葉をどう受け止めるか、という試みで、断片を並べてみたらどうか、と賛同した。
  まさに、自分が何を言いたいのか、はっきりしないのでまず、思いついた断片を記してみようということになった。
  それを、叙事詩として読み取った北が言葉の並べ替え、順序の入れ替えなどを提案。そのことから外狩氏が納得したところだけを採用し、編集しなおしたものである。
 こうして、想いの断片を「詩人回廊」向けに書かなければ、生まれなかった作品である。このことで、書く場所があるから生まれるという、同人誌的な機能がここにもある。
 しかし、それが実験的で試作、習作的になるのは仕方がない。そこにわかっているものを、わかりやすく書くという方法の多い同人雑誌作品とは異なるところがある。

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2017年1月23日 (月)

文芸同人誌「クレーン」の作品の作者名を訂正しました。

文芸同人誌「クレーン」38号の「ライン作業者」の作者名を和田伸一郎と漢字表記しましたが、作者の指摘で「わだしんいちろう」と修正しました。

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2017年1月22日 (日)

「第一回文学フリマ京都」22日開催中-記念シンポジウム&ライブも

  今年初めての文学フリーマーケットは出店数300ブースとか。「第一回文学フリマ京都」当日企画公開(2)-記念シンポジウム&ライブ(大会議室)

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2017年1月21日 (土)

文芸同人誌評「週刊読書人」(2017年1月6日)白川正芳氏

明治大学文学部塚田麻里子研究室内群島の会編集「トルソー」創刊号より伊藤龍哉「禿の思想-「親鸞 白い道(三国連太郎監督)」・常野前彰子「知多半島稲の道」・林淳一「鏡花つれづれ草」・牧子嘉丸「ふるさとの山にむかひて-啄木と雨情」・小柳貴志「閉塞する天井」
関谷雄孝「白く長い橋」(「カプリチオ」45号)、吉留敦子「常磐線」(「AMAZON」11月号)、田中芳子「波の話」、桜井仁「よりよい短歌のために」(「静岡近代文学」32号)、紅月冴子「手のひらのいたみ」(「樹林」11月号)、浅田厚美「フランス刺繍」(「別冊 関学文芸」53号)、乾浩「乳牛ぶちとの別れ」(「槇」39号)
文芸同人誌案内掲示板:ひわき さんまとめ)

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2017年1月20日 (金)

わたしと「仙台文学」89号の周辺=外狩雅巳

  同人には芥川賞候補になったこともある作家の佐々木邦子氏もいて、伝統のある長く続いてきた老舗の同人誌です。
  その佐々木邦子氏が昨秋に亡くなり訃報が編集後記に掲載されている。享年67歳との事です。
  私の親元が仙台なので何度か作品や因果関係を紹介して来たが今回も再録しておきます。
  外狩と言う名前から私の父が東北学院の教師だった事が牛島富美二氏が気づいて手紙も頂きました。
  牛島氏も東北学院の教職として父と同僚だったのです。牛島氏の作品は仙台維新譜の題名で14回目連載中です。
  明治維新時に東北の各藩は同盟して新政府に対抗します。その戊辰戦争時仙台藩の様々な事を書き続けています。
  郷土史等をたくさん参考にした連作長編なので「仙台文学」という同人誌名にふさわしい作品だと思います。
  また、同人だった上遠野秀治さんとは文学街の表彰式で知り合いました。まだ二十代の青年でした。
  彼からは自費出版した小冊子「内燃機関」が送付されて来ました。色々と縁の深い同人誌なのです。
  仙台には父親の墓があります。何回忌かの集まりが有るときには一度この同人会会合を見学したいと思います。
「仙台文学」89号発行日(平成29年1月10日)。発行所=仙台文学の会。 仙台市泉区向陽台4-3-20。発行人=牛島富美二。
参照:外狩雅巳(町田文芸交流会事務局



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2017年1月18日 (水)

小野友貴枝さん「夢半ば」を刊行=日記と回想のちがい

  小野友貴枝さんが、中学生時代からつけていた日記が実家で見つかり「夢半ば」として、書籍化したところ4巻になった。《参照: 「夢半ば」日記四部作の新発売に向けて=小野友貴枝
 この日記は、文学作品として書かれたものではない。リアルな日常の時の人間の率直な感情や思いの記録である。回想としての日記となると、第三者に伝えるのにどうしても物語化する必要を感じてしまう。しかし、日記は、その時の思いの断片の記録である。回想は書き手によって、精神のつながり、自己同一性が保たれている。思い出は、今の価値観で語られる。実際はその当時、何を考えていたなどは、もう忘れてわからなくなっているはずである。
 しかし、日記は中学生ならその時の書き手としての時間のなかで、人格が凍結保存されていることだ。そこが違う。「夢半ば」の第1巻は、「思春期」編である。人は年齢ともに変化する。思春期の彼女は、現在の小野友貴枝と同一であるのか。世間的には、社会的次元の異なる世界にいた自分を同一視するのである。
 1954年の中学3年生のお正月から記録がなされている。旧家の豪農の5女であったようだが、小学生の時に母親が42歳で若死にしたため、父の後妻と暮らす。
 出だしの読み処は、正月の2日の大人たちが買い物に出かけあと、彼女は、お友達の家に遊びに行くのだが、そのとき、長兄の子を背負っているのである。
 当時は、子供が自分より下の弟や妹を背負って、近所のこと遊んだのである。現在、育児を預かる施設が不足しているので、社会問題化している。つまり、この世代の子どもたちは、大人の仕事を補助する生産活動を支援する役目をしていたのだ。使用される立場にあった。
 現代は、子どもの社会参加は、「初めてのお使い」にあるように、消費者でとしてである。そして、親のお金ををもって、物のうりてから、おもてなしをうけることが、最初の体験である。
 世代の違いがどうしてできるのか、その段差の違いのひとつが、ここにある。世代の違いは、話せばわかるのか。社会に対する認識が同じで、親子が交流しているのか。社会に対する考え方が異なるのに、両者が同じように見ていると思い込んでいることが問題なのだ。

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2017年1月17日 (火)

文芸雑誌「ガランス」24号(福岡市)

【「『企み小説』の前語り」ミツコ田部】
 真夜中におきると心が悲しい。共同便所でおしっこをして、また寝床にもどり、読みかけの小説を読む。そこから読んだ小説の概略の紹介になる。この小説の解説と感想を詳しく述べている。それが、読書する側の生活と精神の環境を盛り込んで語られるところが面白い。対象の小説は、金原ひとみ「軽蔑」(雑誌「新潮」2015年7月号)、上田岳弘「私の恋人」(同)。その作品の間に、読み手である作者が溶け込み作品に同化して、まるで一体化したようなストーリー紹介がある。
 さらに枕頭の書とする「NOVEL 11、BOOK18」(ダーグ・ソールスター、村上春樹訳)を紹介する。ここでも、作者の読み手として感覚が発揮され好奇心をかきたてる。
 これは、単なる読書記録ではない、新しい形の文学であるのかも知れない。もともとカルチャーとしての純文学読者層人口は、現在に至って減少するばかりだ。わたしがこの作品へのこだわりを語っても、どれだけの人が、その意味を理解するだろうか。それすらも心もとない。
 そのなかで、ある程度世間に知られた文学作品の読者層を取りこむことで、読者数としてデータベースを広げることができる。その読者感想文そのものが文学表現であれば、これは時代を反映した新しい文学なのではないだろうか。
 多くの文学作品の中に、作者の関心をもつ他の文学作品についての詳細を語ることは少ない。それは物語の腰を折るからだろう。
 文学作品に他の文学作品について長々と述べることは、文学作品の読者にとって、邪道であろうか。私はそうは思わない。むしろ歓迎したい。それを読んだがゆえに、どう精神が変化したのか、しなかったのか、それを知りたい。
 とくに文芸評論が、ただの作品紹介評に傾き(商業的に止むを得ないが)、リアルに現代文学に向き合うとなると、詩人の感性や哲学者の社会認識を軸にしたものが、評論として成立してきている。その場合、面白さは物語性でなく、文学的視点からの認識の姿としての面白さである。それがいわゆる純文学のジャンルを定着維持させるであろうと見ている。
 こうした視点から、この「小説の企み」を読み取るという主題は、先に可能性をもった試みとして、期待したいものがある。
発行所=〒812-0044福岡市博多区千代3-2-1、(株)梓書院内、ガランスの会。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2017年1月14日 (土)

読売新聞【文芸月評1月】近未来 緻密な想像力で

  島田雅彦さん(55)の「黎明れいめい期の母」(新潮2月号~)は、衝撃的な近未来小説だ。
  長嶋有さん(44)の「もう生まれたくない」(群像)も、震災後の世界に対する問題意識を感じた。  
  上田岳弘さん(37)の「塔と重力」(新潮)は、高校時代に阪神大震災に遭遇した男の話だ。勉強合宿と称して宿泊したホテルが倒壊し、生き埋めとなり、淡い思慕を抱いていた女性を後に亡くした彼の約20年後を描く。
  滝口悠生さん(34)の作品はなぜいつも、胸を内側からかきむしりたくなるようなせつなさを催すのだろう。短編「街々、女たち」(同)は、離婚して一人で暮らす男のアパートに、見知らぬ若い女性が成り行きで泊まる話だ。深く交わらないからこそ、美しく残る夜の鈍い輝きがあった。
  松田青子さん(37)の『おばちゃんたちのいるところ』(中央公論新社)は、生きづらさを抱えた現代の女性たちのもとに物ものの怪けが訪れる小品などを収めたキュートな短編集。同著は、昨年創刊された小さな文芸誌「アンデル」などから生まれた。(文化部 待田晋哉)
《参照:読売新聞2017年01月05日【文芸月評1月】近未来 緻密な想像力で》

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2017年1月13日 (金)

文芸サークル誌「文芸多摩」第9号(町田市)

 本誌は「日本民主主義文学会・町田支部」の文芸サークル誌である。
【エッセイ「ヘルパーさんもいろいろ」木津和夫】
 高齢になって脊椎狭窄症でヘルパーに頼むことで生活を維持している。その折にやってくるヘルパーの人柄を観察して、そのサービスぶりから性格を読み取る文章。書くという表現を強く意識してさらに細部を描くと、良い文芸作品展開への入り口になりそうな作品。
【「四十七年前の決断」木原信義】
  1967年にY市のH国立大学の教育学部体育科に入学した牧野雄介を主人公にした、過去と現在の思想と生活を記したもの。話は、その年に入学した同級生のクラス会に参加したことから始まる。その当時は、全学連の70年代の安保闘争の末期の混乱情況が残っていた時期。
 作品では、国立H大学での中核派や革マル派の活動ぶりが描かれているので、その後の情況が記録として読める。主人公の牧野は、大学での共産党系の民青に同調することになる。その後の大学内の学生自治主権を巡る争いで、全共闘系を排除し学生自治の秩序を取り戻す。そのことから牧野は思想を共産党と共にする。
 何十年ぶりに母校の同窓会に出席すると、在学当時の学内自治活動のことは、話題にもされず、病気と親の介護などの生活状況的な世間話しか出ない。牧野は、そうした雰囲気に浮いた存在に感じ、失望をする。このような光景は、多くの団塊の世代で見られる現象であろう。
 そうして、これまでの町内会の役員や日本共産党後援会、憲法9条を守る会、退職教職員の会などの役員をしている自分の社会活動に自信を深め、さらに現代の政治状況の右傾化に抵抗する意思を固める。短いながらも記録として、社会的価値に重点がある。主人公が自分の人生に自信をもつ根拠には、ヘーゲルとマルクスによる、社会が段階を経て発展するという歴史観に従って、その発展段階に参加しているという思想がある。そこに、ニヒリズムやデストピアに対抗するところがあると見るべきであろう。
【「メイコの選択」原秋子】
 メイコという小学四年生の視点で、日常生活を描くもの。童話的な面白さをもつ。後半二部での、物の見方について、メイコが自分の考えを主張するところに関しては、ぎこちない。親が子供に説くようなことが、逆になっている。誰に読ましたいものなのか。思想の伝達法の検討をして欲しいところ。
【「転機」大川口好道】
 英治は戦争中の米軍の空襲爆撃を逃れて疎開していたが、高校を卒業して、絵画を学びながら働き場所を求めて、上京してきた。
 時代は、戦後間もなくの敗戦復興の時期であろう。高校時代の同級生のつてで、菓子メーカーに就職する。大企業製菓会社の下請けの作業の実態がリアルに描かれている。おそらく体験が反映されているのであろう。そこでのトラブルに巻き込まれてしまうが、なんとか会社を馘首させられずに済む。作者の真の意図は、判らないが、当時の労働力を商品とするなかでの、不自由さが描かれたプロレタリア文学としての訴求するところは、伝わってくる。
【「峰を乗り越えて」佐久健】
 定年退職した仲間たちで、ホノルルマラソンに毎年参加してきたが、今回は古希の仲間が2人もいるという。その様子を子細に描く。高齢なのにホノルルまで行ってマラソンをするという状況に驚かされる。「マラソンルート」と「人生の峠を越える」という現状への忠実なレポート。伝えたい意気込みが感じられる。目下の人生の主眼がマラソンをして元気でいることであるのはわかる。マラソンレポートから良き文芸にする方にも、精進をして欲しいものだ。
発行所=〒194-0015町田市金森東2-26-5-111、大川口方。日本民主主義文学会、東京・町田支部。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2017年1月12日 (木)

文芸同人誌「あるかいど」60号(大阪市)

【「太陽の塔」住田真理子】
 1970年の大阪万博の開催の時期、主人公は12歳であった。その頃、母親は万博見物に出かけるために、ショートパンツで行くつもりだったが、太ももの痣が隠せないので、諦めてスラックス系にする。
 万博見物にうかれているうちに、岡本太郎の太陽の塔の作品を目の当たりにして、母親が気分を悪くして倒れてしまう。母親が、太陽の塔に表現されたものなかに、人間の残酷さや悲惨さ、暴力的に崩壊させられる暗黒的側面の意味が含まれていることを読み取ってしまったのだ。それが、母親のトラウマを直撃する。
 そこから母親の太平洋戦争の空襲の出来事の独白に入る。女学生たち全員が海軍工場で作業に駆り出されていた時に、米軍爆撃機の攻撃にあい、みんな逃げまどうが、運命の紙一重で、生死がわかれてしまう。ことに母親の友人であったカヨちゃんは、身体を破壊され、奇跡的に助かった母親の腹の上に重なって絶命する。母親は、その時に腹と太腿に傷を負ったのだった。母親もしばらくは、行方不明者のなかにいれられていたが、やがて発見され命は助かる。カヨちゃんの家族は、カヨちゃんが、どこでどなって死んでいったか、知りたがるが、母親はあまりの悲惨さに、事実を語らずにいるという話。また、その語れないということも深いトラウマになっているのだ。
 岡本太郎の太陽の塔の表現の奥深さ。私は取材であったが、新婚間もない妊娠中の妻を伴って、万博に行った。塔のエネルギーの強さが、ある圧迫感で迫ってきたのを記憶している。
  太陽の塔の人間の業の裏表の存在を浮き彫りにする迫力と、母親の過去の悲惨な体験を娘に記憶させるという、重ね合わせた手法は迫力と説得力がある。
 芸術はゲーテ「若きウェルテルの悩み」やピアフのシャンソン「暗い日曜日」のように、若者をたち自殺にさそうほどの力をもつことがある。
 現代は、ピコ太郎の「PPAP」のような、視覚とリズムに強烈に訴える刺激の強いものがあふれる。そのなかで、文章による視覚的効果への挑戦として、よく計算されている。
 ほかにも、現代風俗に絡めた作品があって、触れる気であったが、今回はこの作品で充分と思った。襟を正さねばという思いがする。
 なお、編集後記のなかで、善積健司氏が2016年(原文は2017年となっているが気が早すぎる)9月の第4回「文学フリマ大阪」が開催され、雨天の中2000人が来場したことや、100部以上売り上げた同人誌の存在もあることを報告している。
発行所=〒545-0042大阪市阿倍野区丸山通り2-4-10-203、高畠方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2017年1月11日 (水)

文芸同人誌「私人」第90号(東京)について=外狩雅巳

  文芸学習を行っている人たちの作品集です。「相模文芸」33号を贈ったら年末には役員の一人、小保方氏より連絡があった。
ーー私どもの「私人」は全くの素人が尾高修也先生の指導のもと、短編を読み、短編を書くという作業を月二回の教室で行っています。この継続する意思が何かを生み出せるのではないかと願っています。ーー とありその成果としての第90号を年末に完成させています。
  104頁の整ったとした体裁で年四回発行の今年第一弾となります。創作6編と尾高氏の連載が一つ掲載されています。
他に「プリズム」という三段組の随筆集を設けて四人の作品を掲載しています。
編集後記は次のように記されています。
ーー小説の内容が作者の実体験そのものと思われることがあります。身近な素材を取り上げることが多いので、そう思われても仕方がないところがあるのですが、小説はフィクションで事実そのものではないと、私は思います。そのまま書いたらさしさわりがあるので設定を変えている人もあるでしょうし、聞いた話をさも自分のことのように書いている人もいるでしょう。だからといって嘘ばかりというわけではなくて、作者自身がつかんだなにがしかの真実といったもの小説の中に埋め込まれていれば、そしてそれを読む人感じ取ってもらえたら、大成功と思います。---
とあります。これを読んで内容よりも文体に惹かれました。著者の真摯な姿勢や一語一語自分と会話しながら書き進め高のような文章で読者に迫ろうとする工夫の一つを見ました。文章教室に通い創作を作り上げようとしている人たちの息吹きを感じたような気分になりました。皆様もよいお年をお迎えください。
「私人」発行所・朝日カルチャーセンター 🏣163-0204 新宿区西新宿2-6-1  発行人・森由利子
《参照:外狩雅巳のひろば

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2017年1月10日 (火)

一色編集長と「詩と思想」新人賞・及川氏の日本的古語リズムの継承

 詩誌「詩と思想」の2017年新人賞贈呈式に行ってきた。《参照:若い世代の未来を拓く「詩と思想」新年会と第25回新人賞贈呈式
 話題性としては、一色編集長が70歳を機に、編集長の座を降りるということであろう。それと対照的に、1970年以降の世代である詩人・及川氏の新人賞受賞作品は、日本の伝統的な古語のリズムを主体にした、韻文の復活をしてみせたもの。現代詩は。言葉のリズムを失い、散文化させてきた世代と新世代の古語の復活は、じつに奇妙な日本の現状を象徴している。
  テレビ番組表をみていたら、「初めてのお使い」が復活していた。わたしの1940年以降の世代は、社会の参加は親の家業の手伝いで、家内労働の担い手としてであった。叱られながら生産することが初めての社会的参加あのであった。しかし、1960年代以降は、親からお金を与えられ、お使いをすること。つまり消費者としてである。店からお客としてもてなされる。生産者と消費者。この違いが、日本人の人類学的転換点だと思う。
 
 

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2017年1月 7日 (土)

文芸同人誌「澪」の単独同人展を見に行く。

  文芸同人誌「澪」の同人会展を鑑賞しに行った。《参照: 「澪 MIO」の同人展を1/6~9日まで開催=横浜市
  理想的なのは、会場で即売できればいいのだが、およそ市民の税金での会場には制約がある。しかし、直接読者との対話ができるのは、有意義であろう。

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2017年1月 5日 (木)

文芸同人誌「白雲」43号(横浜市)&「クレーン」38号(前橋市)

 新年早々から今年完成の同人雑誌が続々と届き出しました。先ず「白雲」43号と「クレーン」38号の二つの雑誌を紹介します。この二誌の代表者とはかって関東同人雑誌交流会で知り合って以来毎号発行毎に同人雑誌交換して来ましたので気合いを入れて読んだ。
 ☆「白雲」43号☆
 短歌俳句の会が小説も掲載するようになったらしい体裁なので70頁の前半が短歌・俳句で公判が随筆と小説です。 小説は二編です。
【「少年Ⅿの回想記」穂積実】
 少年の目で書いた昭和初期の様子が33回に渡り連載中です。
【「快男児・喜楽」山本道夫】幕末明治初期に活躍した茶道・華道の達人の実話らし行動記録がつづられている。
 会話も多く活気のある文章だ。喜楽と親交のある勝海舟筆の幟旗の写真も掲載されている。連載20回目である。
 10頁程度の連載2編と紀行文や随筆が30頁を埋めている。窮屈な編集に成っている。
発行所=〒233-0003横浜市港南区港南 6-12-21、「白雲の会」代表・岡本高司。

☆「クレーン」38号☆
 【「ライン作業者」わだしんいちろう】
 わずか7頁と短いが引き締まった掌編に成っている。ヨーグルト容器を作る現場の記録風の描写が続く中に、作業員たちの会話を織り交ぜている。生産点の日常を覚めた筆で実写する事で訴える文章である。外国人労働者が、ごく普通に就労する単純労働の現場。作者は淡々と事実を提示するが無機質な痛みが伝わって来る。
 日本資本主義の底辺を支える労働者群。その内実を表現する事の意味を読み取れるか戸惑いながら鑑賞した。 井上光晴の薫陶を守る和田さんの真価を見定めようと三度も読み直した。       
発行所=〒371-0035前橋市岩神町3-15-10、「前橋文学伝習所」わだしんいちろう方。
紹介者=外狩雅巳(町田文芸交流会事務局

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2017年1月 3日 (火)

近藤圭太氏と原田マハ原作ドラマNHK『本日は、お日柄もよく』

 米国トランプ新大統領の候補選で知られるようになったスピーチライターという職業。会員として「近藤圭太の言葉の力」で情報発信していたが、ここまで話題性をもつ素材とは…予想外。でも、何かがあるのは感じる。
《参照:原田マハ原作ドラマ『本日は、お日柄もよく』に比嘉愛未、長谷川京子ら

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2017年1月 2日 (月)

文芸時評1月世界の形を決める 早稲田大学教授・石原千秋

  テクノロジーは自動作用があるかのように進歩する。それを止めることができるのは文化しかない。どこまで進歩させるかを決めるのも文化しかない。大学では、文系学部の縮小は止まりそうもない。それは、僕たちが世界の形を決めることができなくなることを意味する。僕はただこのゆえに、文系学部の縮小に反対する。ただこのゆえに、文学に期待し、だから厳しくありたいと思っている。新しい年を迎えるに当たって、これだけは書いておく。
  今月は論評すべき文学作品は一編もなかった。これが今月の論評である。
《産経:文化が世界の形を決める 早稲田大学教授・石原千秋

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2017年1月 1日 (日)

文芸同人誌「風恋洞」44号(秦野市)

 本誌はfriendという副題を持つ。編集の狙いはサイト<作家・小野友貴枝の広場>にも記されている。
【「久美子の家族」小野友貴枝】
 久美子が結婚した娘の家庭に出入りし、孫と交流する過程でのさまざまな出来事と想いを記録している。もし、結婚して家を出た娘の家庭と関係を持っている人たちが、これを読んだら、生々しい記録ぶりに共感か、もしくは反論をしたくなるであろうと思わせる。書かれたことの社会的意味づけを理解することなし、この作品の面白さは理解できないかもしれない。教科書的な意義をもっている稀有なものと思う。
 登場するのは、久美子の娘の珠江と孫の二人、それに夫の姿が少しばかり見える。すべて久美子の視点をもって、描かれている。そして長女の珠緒と一緒にいると、「触れている部分がなんとも言えないざらざら感、そこから緊張感が流れてくる。自分の娘でありながらこれは何だろうと思う。そしてその異物感は、いつからどのように感じ始めたのかわからない。物体でなく、感じるものなので、具体的に説明しようがない」
 まさにその感じが、その周辺が鮮やかに切り取られている。作者の書く意欲が、随所に象徴的な意味をもって、読者に迫るのである。当然、その事情に解決はない。
【「息子と私」盛丘由樹年】
 父親「私」から感じた息子との関係である。息子は、しばらくの間、独居して社会生活をしていたが、何かの理由で、両親の家にもどり、就職しないで生活をしている。運転免許も更新しない。いわゆる引きこもりに属する状態なのであろう。
 「私」は、そうなった原因を、自分と息子の間に何かがあったに違いないと、親子関係のこれまでを、少年時代からさかのぼって、回想し点検する話である。
 息子は、「私」が会社からいわれて50代で希望退職した時期に、東京のアパートで一人暮らしをしていた。息子は、高校をでたと同時に漫画家になるのだといって、家を出て独り暮らしを始めた。あとから、漫画家志望というのは、家を出る口実であったのかもしれない、と「私」は、推測する。「私」は、息子の将来を案じるが、それは息子自身に委ねるしかない――。そしてこの問題にも解決はない。
 文学においては、人間性を掘り下げるために、また認識を深めることに面白さを求める。痛快な活劇を観たり読んだりする面白さではない。本誌の2作品はその意味で、事情を読者に投げ出して語り、その認識を問いかけるというスタイルは、ありそうでなかった文芸同人誌の新しい道を拓く可能性をもっているのかも知れない。
発行所=〒257-0003秦野市南矢名1-513-4F,小野方、「秦野文学同人会」。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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