文芸雑誌「ガランス」24号(福岡市)
【「『企み小説』の前語り」ミツコ田部】
真夜中におきると心が悲しい。共同便所でおしっこをして、また寝床にもどり、読みかけの小説を読む。そこから読んだ小説の概略の紹介になる。この小説の解説と感想を詳しく述べている。それが、読書する側の生活と精神の環境を盛り込んで語られるところが面白い。対象の小説は、金原ひとみ「軽蔑」(雑誌「新潮」2015年7月号)、上田岳弘「私の恋人」(同)。その作品の間に、読み手である作者が溶け込み作品に同化して、まるで一体化したようなストーリー紹介がある。
さらに枕頭の書とする「NOVEL 11、BOOK18」(ダーグ・ソールスター、村上春樹訳)を紹介する。ここでも、作者の読み手として感覚が発揮され好奇心をかきたてる。
これは、単なる読書記録ではない、新しい形の文学であるのかも知れない。もともとカルチャーとしての純文学読者層人口は、現在に至って減少するばかりだ。わたしがこの作品へのこだわりを語っても、どれだけの人が、その意味を理解するだろうか。それすらも心もとない。
そのなかで、ある程度世間に知られた文学作品の読者層を取りこむことで、読者数としてデータベースを広げることができる。その読者感想文そのものが文学表現であれば、これは時代を反映した新しい文学なのではないだろうか。
多くの文学作品の中に、作者の関心をもつ他の文学作品についての詳細を語ることは少ない。それは物語の腰を折るからだろう。
文学作品に他の文学作品について長々と述べることは、文学作品の読者にとって、邪道であろうか。私はそうは思わない。むしろ歓迎したい。それを読んだがゆえに、どう精神が変化したのか、しなかったのか、それを知りたい。
とくに文芸評論が、ただの作品紹介評に傾き(商業的に止むを得ないが)、リアルに現代文学に向き合うとなると、詩人の感性や哲学者の社会認識を軸にしたものが、評論として成立してきている。その場合、面白さは物語性でなく、文学的視点からの認識の姿としての面白さである。それがいわゆる純文学のジャンルを定着維持させるであろうと見ている。
こうした視点から、この「小説の企み」を読み取るという主題は、先に可能性をもった試みとして、期待したいものがある。
発行所=〒812-0044福岡市博多区千代3-2-1、(株)梓書院内、ガランスの会。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。
| 固定リンク
コメント