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2017年1月29日 (日)

文芸時評(東京新聞2016・12月) 上田岳弘「塔と重力」=評・佐々木敦氏

  『すばる』1月号の特集「17」には驚かされた。もちろん2017年にちなんでいるのだが、とにかく「17」という数にこだわって、谷川俊太郎、角田光代、平野啓一郎、吉本ばななら総勢十四名によるエッセイ「十七歳のとき」、青山七恵、滝口悠生(ゆうしょう)、上田岳弘(たかひろ)の鼎談(ていだん)「『十七歳小説』を読む」、一九一七年に立ち返って夏目漱石没後一〇〇年にかんする水村美苗と小森陽一の対談、ロシア革命一〇〇年をめぐる亀山郁夫、島田雅彦、前田和泉の鼎談、さらには俳人の堀本裕樹の「十七音の遠き海」、数学者・森田真生(まさお)の「数をめぐる十七の断章」など、ヴァラエティに富み過ぎとも思える記事が並んでいる。
  特集といえば『群像』1月号では「五〇人が考える『美しい日本語』」をやっている。蓮實(はすみ)重彦、吉増剛造、橋本治、内田樹(たつる)、リービ英雄、穂村弘、堀江敏幸、村田沙耶香、等々が各々(おのおの)「美しい日本語」を選び、エッセイを寄せている。私も書いている。このタイミングでの特集の企画意図については特に誌面では触れられていないのだが、私も含めた何人もの寄稿者が「美しい」と「日本語」の接続に微妙な違和感を表明しているのがなかなか興味深い。そういう反・ナショナリズム的な反応自体も今や紋切り型ではないかと思いつつ、ついつい留保をつけたくなってしまうということだろう。
 その中で、佐佐木信綱「夏は来ぬ」を挙げた片岡義男の「美しい日本語は、言葉としては残っている。活字で本のなかに印刷された言葉だ。僕がそのような言葉のほんの一端を知ったとき、そのような言葉が描いたはずの日本の風物は、とっくに消えていたと僕は思う。実体はかたっぱしから消えていき、言葉だけが残る」という述懐が心に残った。
 上田岳弘の中編「塔と重力」(『新潮』1月号)は、デビュー作品集『太陽・惑星』、三島由紀夫賞受賞作『私の恋人』、芥川賞候補となった『異郷の友人』と、人類史を丸ごと相手取った極端にマクロな世界観のもとに荒唐無稽な物語を紡いできた注目作家の「種明かし」のような作品として読んだ。なにしろこの小説には、上田作品ではお馴染(なじ)みのSF的にぶっ飛んだ設定は出てこない。
 フェイスブックをはじめとするSNSが物語の中枢に置かれている。「神ポジション」という言葉が出てきて、文字通り「あたかも神のごときポジションからやたらと壮大な視点で語ること」なのだが、それを実体化させると過去の上田作品になるわけだ。「僕」の経歴は作家自身のそれと意識的に重ねられている。上田岳弘という小説家は、どうしてあのような奇妙な小説ばかり書いてきたのかという問いへの、もちろんフィクションではあるのだが、切実な返答らしきものが、この作品のそこかしこに覗(のぞ)いている。「種明かし」とはそういう意味である。これを書くのはかなり大変な、ある意味でしんどい作業だったのではないか。しかしそれに見合う力作に仕上がっている。
 (ささき・あつし=批評家)
《参照: 「すばる」1月号特集「17」 上田岳弘「塔と重力」 佐々木敦

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