文芸同人誌「奏」2016冬号(静岡市)
本誌には、「新資料・小川国男『藤枝教会史』」(解題/勝呂奏)が掲載されており、興味深かったので、自分なりの意義を「暮らしのノートITO」に書いた。
【「屏風のような」小森新】
話は井上靖文学館での米神礼三館長と企画展での交流と館長の突然の訃報を知るところから始まる。そこから、作者の父親の死に目に会えなかったことへの感慨が語られる。これを読んで気づいたのは、肉親との死別の事情を語ることは、その人の境遇や人生の一断面を浮き彫りにするということである。この作品では、父親の死期が近いことが分かっていても、予めそのための準備のような行為をすることをためらう心理が描かれている。そして、死別に立ち会えなかった、やむ得ない事情があったのだが、心残りの気持ちを独り胸の内にしまっておく。米神館長と父親への想いを表現する。――作品の読者としての自分の父親への思いと、比較したりした。自分の場合、父親にとって悪い息子であることを、晩年の介護生活のなかで自覚があったので、今のところその罪の意識に変化はない。
【「芹沢光治良『感傷の森』論」勝呂奏】
芹沢光治良の作品「感傷の森」の敗戦後の日本人の精神の支えを意識して書かれたことを評している。太平洋戦争の責任、敗戦の責任追及の精神よりも、戦後を生き抜くことへの努力に重心がある作品のようである。これは、やはり人間の愚行を飲み込んだ宗教的な精神が働いていたのかも知れない。
昨年だったか、都内の図書館で、ご自由にお持ちくださいの棚に、芹沢の全集の茶色のようなクリーム色のような本が並んでいたのを見た。これも時代というものだろう。
【「小説の中の絵画(第5回)太宰治『きりぎりす』―『私』の言葉」中村ともえ】
太宰治の女性の独白形式1人称小説に関する評論。内容とは異なる受け取り方かも知れないが、太宰の表現力の多彩さ、巧みさなどがわかり、小説はまだまだ技術的な可能性を多くのこしているのではないか、という気持ちになった。
発行所=〒420-0881静岡市葵区北安東1-9-12、勝呂方。
紹介者=「詩人回廊」伊藤昭一。
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