文芸同人誌「駱駝の瘤」通信12号(福島市)
福島原発事故で、安倍首相がアンダーコントロールにあると世界に宣言した福島の原発事故の収束作業。これの現場からの声として、評論の一部を「暮らしのノートITOこれは人間の国か、フクシマ」に掲載した。本誌の秋沢陽一「扉の言葉」には、文学的発想の紹介がある――あらゆる局面で権力側の人間は決して危険に身をさらすことがない。そこに例のフリッツ・ホルムの提唱する「戦争絶滅受号法案」の出番がある。「戦争が開始されたら10時間以内に、次の順序で、最前線に一平卒として送り込まれる。第一、国家元首。第二、その男性親族。第三、総理大臣、国務大臣、各省の次官。第四、国会議員。ただし戦争に反対した議員を除く。第五、戦争に反対しなかった宗教界の指導者」。庶民はこの立法精神を発想の根に据えたいーー。これは風刺小説にそのまま使えそうな素材である。
【評論「原発小説論」(3・11以前の小説―7―澤正宏】
1980年代の小説(二)吉原公一郎「破断 小説 原発事故」を対象にしている。この小説が3・11を予言するような事態を描いていることを検証している。おそらく発刊された時代では、原発に関する関心が薄く、その利権関係や設備の構造なども理解できなくて、それほど読まれなかったであろうと推測される。
ここでは、すでに原発の設備のメンテナンスには、作業者の放射線被ばくがつきもので、通常ではやりたがらない仕事である。そこで高給を目当てに原発のある場所を渡り歩く、専門作業員が出て来た。それを「原発ジプシー」と称して、ドキュメントにまとめるライターや写真家がいた。吉原は、彼らの取材対象と対米関係での利権関係を関連付けて予言的な作品を書いていたことがわかる。また、ここに米国からきた黒人作業員のことが記されているが、樋口健二写真集「原発」(1979年7月発行)には、米国から日本に出稼ぎ技術指導に(おそらく「GE」)きているらしき黒人の写真が掲載されている。
【「『むらぎも』論(1)二つの高台と二つの窪地」石井雄二】
プロレタリア作家・中野重治の小説「むらぎの」に関する評論である。大西巨人、桶谷秀昭の評を引き合いに出し、「むらぎも」の冒頭に象徴的に「二つの高台と二つの窪地」についてのこだわり方に意味を追求するものように読めた。
この高台の住人と窪地の住人をブルジョワ層とプロレタリア層の階級社会になぞらえたものと表現したことへの中野の階級意識の本心をさぐる。
現在、マルクス主義思想による階級対立社会としてとらえる世界認識は、全的に肯定されない状況にある。どのような認識での評論になるのか興味深く思うと同時に、時代背景への理解を前提としたものになるようにも思える。
発行所=福島市蓬莱町1-9-20、木村方。「ゆきのした文庫」。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一
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