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2016年10月 2日 (日)

文芸同人誌「澪」第8号(横浜市)

 本誌の【「クラシック日本映画選2『東京裁判』」石渡均】については、ジャーナリズムの一部と読み、紹介も長くなったので、暮らしのノートITO≪「映画評論「東京裁判」(石渡均)の意味」≫に述べた。
【「私は ずっと昔から こうよ」柊木菫馬】
 横浜に住む麻衣子という女性のライフスタイル小説であろう。恋人の宗佑という自衛隊員がいて蜘蛛のタトーを入れている。彼と付き合っているうちに、彼女も脊中に蜘蛛の刺青を入れたらしい。それから溝口という10歳上のバツイチ男との交際もするが、漠然とした関係でしかない。そもそも、麻衣子の男女関係は作者のいうように恋愛なのか。自己主張があるようでない。現代女性の生活のありさまから、日本の時代の迷いが見える。
【評論「ハイデガーを想う(Ⅰ)(『形而上学とは何か』を中心に 等)」樫山隆基】
 誰の言葉か忘れたが「思索を語ることこそ最大の自己表現である」ということを感じさせる。自分にとっては形而上学というのは、日常生活にはなくてもあっても、どうでも良いことの世界で、その反対の形而下学は、日常生活にかかわる具体的なことがらに関する学問であろうと思っている。
 ハイデガーといえば著書「存在と時間」での、実存哲学論が著名だ。この評論では彼の書いた「形而上学とは何か」という著書に関する研究評論である。形而上学があるので、形而下学もある。現実生活は常に形而下学的世界のなかにある。空飛ぶ鳥は夜ねぐらに帰り、野のユリはただ咲いて誇ることがない。動物的生命体の範囲内にある。このように、考えるのは私が世俗人としての立場にあるからであろう。
 ここでは、作者の世俗的な体験感覚のなかで、存在への認識を意識する出来事を、存在感感覚と結びつけた思索を展開している。
 まず、キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」のラストシーンでシュトラウス作曲「ツァラトゥストラかく語りき」が使われていることについて、哲学者ニーチェの「永劫回帰」思想を念頭に置いていると述べる。
 そしてそのシーンの一部から、川端康成の「末期の眼」の一節が浮かんだという。そこから若き日の心臓病による死との直面体験を語る。死への想念を思索するため、キルケゴール、ニーチェ、カミユ、カフカ、サルトルと読みこんだという。
 その結果、存在することの不思議さを認識する思索、つまり哲学することの意義を知ることができる。サルトルの「嘔吐」の主人公が、存在者としての自己が、樹の根っこの存在感に負けるというか、嫌悪するシーンが引用されている。改めてサルトルの実存主義感覚の西欧性を感じさせるものがある。
 従来、同人誌に掲載された哲学論および評論をかなりの数読んできた。それらの多くは、たしかに私の知見を広くし、学ぶものがあった。しかし、その知見によって、自己認識を強めることはなかった。それに対し、本論では、思索における人間の存在の在り方について、自己認識を強める行為の有効性に力を与えてくれるものがあった。
発行所=〒241-0825横浜市旭区中希望ヶ丘154、石渡方。文芸同人誌「MIO・澪」の会。
紹介者=「詩人回廊」北 一郎

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コメント

(◎´∀`)編集子さん、最近乗って書いてますね。素晴らしいです。やはり、書き手が注目しているということで、編集子さんもノリノリなんでしょうね。

投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2016年10月17日 (月) 07時46分

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