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2016年9月 2日 (金)

文芸時評9月(産経新聞) ヘンな「私小説」 早稲田大学教授・石原千秋

  「細雨」は、夏目漱石における『吾輩は猫である』のような位置づけになりそうだ。25歳の図書館員の倉持里沙の目を通して、彼女が気むずかしい中年作家・宇留野伊織に頼るようになる心の揺れや、彼の図書館でのやや滑稽なあれこれが語られている。猫と苦沙弥(くしゃみ)先生の関係だ。エピソードを読んでいくうちに、現代の図書館事情がわかるのも面白い。
 冒頭の第2段落はこうだ。「倉持里沙は、相変わらずきょろきょろと周囲を見回しながら、改札へ向かうのであろう階段を降りた。改札を抜けるとまた地上へ出たが、案の定そこは商店街だった」。傍点部は、ふつうなら「改札へ向かう階段」となり、「案の定」は書かれないことが多いだろう。つまり、語り手は倉持里沙の視点を離れないぞという宣言である。しかし、「相変わらず」は語り手の判断だろうから、倉持も語り手に見られている。この微妙なバランスがいい。宇留野が「閲覧室で妙な本を見ているおじさんがいたな」と言えば、倉持は「自分もおじさんであることはわりあい忘れているらしい」と思う。この距離感もいい。そして、他の図書館に異動が決まって宇留野にその挨拶(あいさつ)をした最後の段落に、別れと出会いが同時にやってくる春の趣があってことにいい。
 《おかしさがこみ上げてくるヘンな「私小説」 早稲田大学教授・石原千秋

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コメント

私小説という区分けの仕方は、日本だけのことで、世界の文学ではそのようなことがない・・・ということは、日本列島のみに通じる文学用語というわけで、文学もグローバル時代の物差しを用いないと・・・という気がするのだが・・さて・・・。

投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2016年9月 6日 (火) 02時45分

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