文芸同人誌「あるかいど」第59号(大阪市)
【「海始まる」木村誠子】
冒頭にランボーの詩「永遠」の金子光晴訳のものが、提示されている。「永遠」は、多くの訳があり、表現が異なるが、自分は堀口大学のものが好きだ。
父親が他界した時に、49歳になって急に仕事をやめた「私」は、母親に苦情をいわれ、再就職したが、そのときに、思いだしたのが、高校生時代にボランティアで参加したホスピスのことで、そこでアオオオカミと称する老人との出会いである。そして、ポルトガルの海で、ランボーの「永遠」の観照体験をすることで、社会生活を一歩進めることを決心する。ほとんど自己表現に徹した散文詩のようなもの。詩的インスピレーション表現と、散文が混在させた人間性への信頼を回復することを骨子とした作品であろう。ただ、50歳になろうという人間が、自分探しをするような時代の幼稚化に対する作者の見識を明確に表現すべきであろう。
【「サンタクロースなんかいるもんか」泉ふみお】
貧困から高校を卒業できるまでにこぎつけた俺という少年の独白体。父親が生活保護を受けるなかで、俺は高校進学をしようとするが、父親入学させないことを高校に宣言に行く。しかし、そこの高校は、俺の入学を認めてくれる。
その校長の教育精神の高さに比べ、入学した生徒の向学心は薄い。昔でいえば、不良の巣だ。だからこそ手とり足とりの教育が必要と、校長が判断したのかーー。この状況の描き方が面白い。やがて少年は、父親の心の内を知り、社会の奥深さを知る。人情味をもって夢をもちつづけることの大切さを示す意味がタイトルに込められているようだ。
【「オーバー・ザ・リバー」高原あふち】
韓国籍から日本人に帰化した準という男ががんで死亡する。その男が幽体離脱して、上から自分が残してきた家族についての回想をする。それから視点を妻のほうに移して、生活の苦労を語る。二人の交互の独白で過ごしてきた時間の中身がわかるという手法。一視点では、重くもたれるようなテーマを対話風に進めて読みやすい。また、差別意識への問題提起をさりげなく含ませるなど、娯楽小説的ななかにテーマ性を強く盛り込んでいる。
【「内臓」善積健司】
優と南上という幼馴染みで、大学も就職した会社も同じ。さらに女友達も同じで、その肌を共有するような関係の友情とライバル心を描く。同じ女友達を抱くことで、対抗心を燃やす南上の心理を描く。おちがあるので、一応の娯楽小説に読める。しかし、底が浅いのではないか。
現代のエンターテイメントでも、こうした自己存在感の確認をテーマにして味の濃いものが通常化している。日本でのミステリーとされる分野の作品が、海外では純文学と目されているものもある状況を知ってほしいものだ。それらに、共通しているのはキャラクター表現に作者の思想が盛り込まれていることであろう。反逆精神なくして文学は芸術たり得るのであろうか。かつて米国におけるレッドパージの対象となったD・ハメットのハードボイルド小説「血の収穫」は、ジイドが文学芸術性を評価したが、そこには資本主義の欠陥を指摘する視点の文体があったからだと思う。現代ではJ・クラムリーなどが暴力と金にひたる人間の愚かさを浮き彫りにした探偵小説を書いている。
【「白鳥の歌」高畠寛】
文芸同人誌で書く人にとって、面白さではこれが一番かも知れない。自己の同人雑誌生活を軸に、3・11福島東電原発事故への批評を行ったものである。作者をモデルとする邦夫は、1965年に大阪文学学校に入り、その2年後、そこの講師となる。当時から文筆にたけていたことがわかる。彼の人生は、1960年に大手不動産会社に入社し、1997年に定年退職。38年間勤めた。同人誌発表の作品と実生活の関係をノンフィクションで語る。なかには、作品が日本経済新聞社から出版の話が出るが、内容の扱いについて、不都合があり、出版を断るというエピソードもある。これは、商業性よりも自己表現にこだわる同人誌作家ならではの出来事であろう。
ただ、本編での読みどころは、小説的なドキュメントとして書かかれた文体である。散文としての新しいスタイルの変化の可能性の道を開拓する手本としても読めた。全面的に支持するものではないが、そのこだわりに共感するものがある。
発行所=〒545-0016大阪市阿倍野区丸山通2-4-10-203、高畠方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
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