文芸時評8月「芥川賞受賞へのミニ講義」石原千秋・早大教授
おそらく、コンビニで働くことだけが生きる意味となっていて、「コンビニの『声』が聞こえた」(幻聴?)と感じるおかしな「私」のおかしさの質も文学的な価値を持つが、それとともに、彼女をおかしな人間として書いていることが評価されたのだろう。彼女の子供の頃のヘンな行動も、いまの彼女はあれはヘンな行動だったと認識しているように書かれているし、依然としておかしないまの「私」を際立たせるために、白羽という常識人を配置してある。きっちり計算された「おかしさ」なのである。こういう書き方をすると、「この作品は、『私』のおかしさを相対化できている」と高く評価されることが多い。僕はおかしな人間をそれと自覚しないような書き方も好むので、こういう「文壇版道徳の時間」には白けてしまうのだが、世の中はこうなっているようだ。息が詰まるような「正しさ」の蔓延(まんえん)である。
《参照:息が詰まるような「正しさ」で評価されがちな村田沙耶香の「コンビニ人間」 石原千秋 芥川賞受賞へのミニ講義》
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