« 文学的地霊とポケモンの同居する水元公園へ | トップページ | 【文芸月評(読売新聞)8月】農業で迫る人間の営み »

2016年8月15日 (月)

「法政文芸」第12号(2016)2作品に読む時代精神

 本号の特集「表現規制と文学」については《暮らしのノートITO「法政文芸」(第12号)特集「表現規制と文学」で問題提起》にその意義を社会的視点から記した。現在と大東亜戦争前と戦時中の言論統制の歴史的事実を否定的に学んでのこと思える。だが、文学的には、当時のメディアの大本営発表までの経過は、国民が自ら陶酔状態から求めた結果、という視点もある。戦場体験を積んだ作家・伊藤桂一は戦争への反省に足りないものがあると、語ったことがある。
 ところで、掲載された小説の収穫は「僕の兄」(工藤はる花)であろう。作者は女性のようだが、作中の語り手は「僕」である。幼年時代に、兄に連れられて、自転車で見知らぬ遠い場所に連れていかれた記憶が語れる。その時の心細さと恐怖感を味わう。心配した両親のもとに戻るのだが、なぜ兄がそんな冒険をしたか、わからない。「僕は時々、子供と大人が地続きであるということがどうしても信じられない」と記す。ここに、人間の人格形成へのみずみずしい感覚の問題提起が行われている。
 しかも、その作品構成力には、修練された技量をしのばせているようだ。話は、兄が若くして死んだことを葬儀の場を描くことで、読者に示す。弟という立場からそこに至るまでの出来事を思い越す。父母と息子の兄弟の4人家族。兄は、は中学、高校と思春期の成長の過程でつまずき、家出、引きこもりの問題行動を起こす。弟の僕はそれを横目で眺めて、成長過程を問題なく通過する。世間的に普通の「僕」に対し、普通でなくなっていく兄。自死とも事故死とも判然としない自滅死をする。その兄を見る視線は、なかなか普通を超えて、兄の苦しみを不可解のまま、それを否定しきれない心情を描き出している。僕の兄は何が問題だったのか、そこに現代的な家族関係の一般的な自然な姿を浮き彫りにさせる。
 日本が成熟社会に入る以前は、引きこもりをする余地はなかった。経済的にも社会成長のためにも、僕の兄のような存在は、是非もない否定的な問題であった。
 成熟社会を迎えた今、「僕」は兄のことを考え、なにかを理解しようとすることで、心の整理をつけようとする。かつての、前肯定でなければ全否定という対立関係での発想でなく、相手のなにかを理解をしようとする存在否定をしない社会文化の変化を感じさせるものがある。
 小説「人生コーディネーター」(中橋風馬)は、まさにITアプリケーション技術の発達が素材になっている。真人は、何事にも「ニーズに対応したシステム化」が日常生活に応用され、何事にも問題や不利益を回避し、順調にいくアプリを使う。ところが、アプリ使用の終了後も、独自にアプリケーションは、真人の行動を情報収集し続けて、彼の行動をコントロールしていることがわかる。
 多かれ少なかれ、我々は自分のために多くのシステムを活用し、そのなかで生活している。それが、地球温暖化現象となって、何事にも破綻があることを示している。しかし、それを押しとどめることができない人間性を浮きただせる話になっている。
紹介者=「詩人回廊」伊藤昭一。

|

« 文学的地霊とポケモンの同居する水元公園へ | トップページ | 【文芸月評(読売新聞)8月】農業で迫る人間の営み »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 文学的地霊とポケモンの同居する水元公園へ | トップページ | 【文芸月評(読売新聞)8月】農業で迫る人間の営み »