文芸同人誌「私人」第88号(東京)
本誌は朝日カルチャーセンターの尾高修也氏の小説教室のメンバーによる。発行所は新宿住友ビルのセンターであるが、発行人は埼玉県在住の森氏になっている。総体的に、作品は創作意識の強いもので、指導精神のかたちが伝わってくるものが多い。それに忠実な作品ばかりではないようだが。よい先生がいるのに余計な口出しであろうが、紹介文を記す。
【連載・傍観録(二十八)「D・H・ロレンスの思い出(二)」尾高修也】
ロレンスは19世紀的な手法の作家であるが、その作風はどこまでも小説的で、私も良く読むことが多い。伊藤整の訳もいいが、福田恒存の訳もいい。それぞれ訳者の異なるものを読むと、じわじわとロレンスの精神のニュアンスが伝わってくる。登場人物は肉体と精神のつながり方にこだわり、作家の好みを反映しているが、読んで退屈しない作家である。その根底には、生活の中に非日常を生み出していく手法があると思われる。
ここでは、ロレンスの作品が出来た経緯が女性関係をからめて解説している。尾高氏が、ロレンスがフリーダと旅をしたという辺鄙なサルデーニャ島に行ったところ、カメラを向けると逃げ出すような原住民の存在があったというのが、面白い。前から、ロレンスの旅行体験をもとにした作品を読んで、よく変なところに行ったものだ、と感心したが、そんなところがまだあるのか、と驚いた。
【「ロシアンヒルの記憶」えひらかんじ】
海外で武者修行したというか、文学的流浪したというか、ロシアンヒルでの米国留学生活で、学んだ経験が描かれている。昭和15年生まれの時代の人の視点から、農耕民族の土着的な人間関係の絆に縛られている日本人の生活からの見方で、非日常的なところが、書きどころ、読みどころであろう。
【「石川君」根場至】
小学校時代に同級生であった石川君という気になる生徒がいて、それは定年退職後、偶然地域の水道工事かなにかの業者に石川組という業者がやっている。その社長がその石川君であるらしいが、会わずに終わってしまう。それだけのことで、まさに日常生活そのものを描く。これはこれでまとまっているので、悪くはないが、長すぎる。凝縮力が欲しい。せっかくの文芸表現の技術を学んでいるのであるから、人間の精神性に触れた表現をする発想をもちたいところ。生活状況の文章化だけでは、よくできた作文に範囲に終わってしまう可能性がある。
【「岐阜の記憶」櫻井邦雄】
父親の晩年を描いて、それなりに人生の波乱を経ながら、終末を向かった父を思う。息子の供養の文章であるが、意味性は「石川君」と似ている。
【「ウサギの時間」宇田川淳】
出だしは、前作と似たようなところがあるので、これはこういう作風の特集かと思ったが、途中から一転、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」ウサギの時間に入り込む。これは非日常性への展開があり、なるほどと納得させる。
【「水ようかん」伊吹萌】
これは姉と妹の関係を追求できる設定であり、妹の性格が良く描かれているので読物として面白い。出来事も日常性を超えたエピソードがある。読物的な色彩に覆われ、文芸的な成果にまでたどりついたかというと、もう少し…といった感じ。
【「遠い家路」松本佐保子】
女性らしい感覚で、家族の生活ぶりを描く。日常そのものであるが、結びに「人の晩年はあいまいなまま消えていくものだという気がした」と結んでいる。要するに作品の問題的に対する回答である。文学作品的には、その曖昧さを表現的に強調できるかという技術を検討する段階にあるのではないだろうか。
発行人=〒364-0035埼玉県北本市西高尾4-133、森方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎
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