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2016年4月10日 (日)

「工場と時計と細胞」に読む資本主義のなかの社会主義

 詩人回廊「外狩雅巳の庭」には、「工場と時計と細胞」の断片的な執筆動機が述べられている。読者にとって書かれた動機にはそれほど関心がない。テクストとして読むだけである。ただ、ここに描かれた情景が、書き手にとって、良い印象の時期であることは、活き活きとした状況の表現から伝わってくる。作者は、この時代における製造業労働者の問題点となる苦々しい記憶を排除していることに気付くであろう。そこには、ひとつの合理的な資本と労働の妥協点が見いだせたと思わせる、このシステムの良いような側面をひとつの「モデルケース」として捉え得ることを明らかにしている。会社は繁栄し、資本を増強し、労働者も豊かになった。プロレタリア文学が、力を失ったのは、この側面を無視し、所得分配のための闘争を革命運動とを混同した混乱があるためであろう。
 ここには資本家の勢力に対抗することへの期待。パワーバランスがとれていたという、ひとつのモデルが浮き彫りにされている。この労働者の団結と資本家の対立構造のバランスが、いわゆる革命が必要という意識を変化させてしまったと言える。本来のマルクス主義思想は、唯物史観にもとづいた社会の歴史的発展段階を前提にし、そこから人間の意識が変化し、そのことが社会を次の段階に発展させるとしていた。資本主義のあとの共産主義社会は、意識改革後のビジョンとしては、予測不可能であることを述べているではないか。
 しかし、その後の労働運動は、たとえ社会主義的な思想をもつとしても、資本主義を基盤としたものしか提示できていない。ケインズの財政政策論も、ピケテイの資本主義論も、所得の再分配論として、マルクスが指摘した資本主義の欠陥の修正であって、意識改革を前提にしていない。
 現在、ウルガイのムヒカ前大統領が来日して話題を話題なっている。彼は若いころは、革命ゲリラ戦線の闘志であり、権力によって、刑務所暮らしをしていた。それが後に大統領になり、ゲリラ戦線の仲間は大臣になった。これが可能だったのは、時代における国民の意識が変わったからである。ムヒカ氏のスピーチにはは、マルク主義思想を根底にし、上での意識改革の必要性を説くものが多い。
 現在の外狩作品の断片の背景には、労働者も管理者も、システムのなかの自存在感を実感することの喜びが表現されていることに注目する。それはなぜか? それを考えることが文芸的な課題であるように読める。(北一郎)

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