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2016年4月 6日 (水)

民衆の幸福の表現と文学芸術

  「工場と時計と細胞と」(外狩雅巳)は編集過程にある。今後の手直しがいくつかあるであろうが、作品の本質は変わらないであろう。なかで注目したのは、第一部の冒頭、課長のところの文末付近での「ゲスト食堂と喫茶ドームは来客も利用し、俺たちはメイン食堂で格安の昼食が食えるので妻も喜んでいる。 係長と二人の班長は良く協力してくれるが、工程の遅れは俺自らもラインで作業し、絶対に阻止している」というところである。
 現在、会社内での名ばかり店長、名ばかり課長の酷使のための肩書きとなっている風潮のなかで、管理職が、経営幹部と現場職員との板挟みに苦しむことなく、職場環境を肯定的に受け止めていることである。
 資本主義社会の特性は、労働力が時間単位に区切られた商品となっていることは、言ううまでもない。この商品は、人間的な生活可能な状況にあれば、再生産がきく。また、仕事に熟練し生産力を向上させ、企業の利益を増大させるのである。
 しかも労働力を提供するのは、契約した時間内でよく、その他の時間は、労働者は自由で、人間的な欲求を満たすことが可能なのである。この資本家の儲けの追求と、労働者が豊かな自由時間をすごせるという両者のお互いが納得する要素があって、資本主義のシステムが世界を席巻したのである。
それを具体的に、働く現場の調和を描いたのが、この作品なのだ。
 第一部で、山田はこう考えていることが示されている。「住み込みの小僧は、番頭さんや手代さんに殴られながら仕事を覚える前近代的な職場で三年も我慢した。   五年しなければ年期が明けない半奴隷的な労働が許されていた時代に覚えた機械組み立ての基礎知識。  人は平等だと学校で習った。キリスト教の学校では神のもとでの平等を説教された中学時代である。   年季明けを待てず上京し、山谷などで体力勝負の労働に明け暮れた青年時代の後に入社したこの会社だ。」
 作者はこの状況を描くのに、なんの暗さもない。これは資本主義システムが長所として働いたある時期のモデルの再現なのである。(北一郎)

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