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2016年4月29日 (金)

文芸時評4月(東京新聞4月8日付)佐々木敦氏

鹿島田真希「少年聖女」底なし『深淵へと誘う』
今村夏子「あひる」寡作の天才 鮮やかな筆
《対象作品》鹿島田真希「少年聖女」(「文芸」夏号)/今村夏子「あひる」(新雑誌「たべるのがおそい」創刊号)。
            ☆
 今回の対象作品は2作に絞られている。本欄を佐々木敦氏が担当して1年になるという。いわゆる文芸雑誌の作品の批評というか、紹介の方法も変化してきている。今回の「少年聖女」に関しての評は、ただの紹介に終わらず、批評というのに該当している。一読を勧め。というのは、次のようなことが記されているからだ。
――先日、私は「ニッポンの文学」という新書を上梓した。そこで私は「文学」とは芥川賞の可能性がある小説」すなわち「文芸誌に掲載されている小説」のことであるという身も蓋もない定義を提出し、従って「文学」とは、ミステリーや「SF」などと同じく一種の「ジャンル小説」なのだ、という主張を展開した。結局のところ「文学」と「文学以外」を分かつのは、文学の専門誌であるところの「文芸誌」に載ったかどうか、ということでしかないのだと。――「ニッポンの文学」(講談社新書)で、講談社メールマガジンでの紹介解説は次のようなものである。
  批評家・佐々木敦氏による『ニッポンの思想』『ニッポンの音楽』から連なる待望の3冊目。
  今回のテーマは「文学」。各主要文芸誌でも精力的にすぐれた論考を発表している著者が、あらためて「日本」の「文学」を解き明かします。
 戦後、とりわけ70年代末からの日本の文学シーンにはどのようなことがあり、どのような歴史があるのか。つまり、ニッポンの小説はどのような歴史=物語を持っているのか。前2冊と同じく、80年代(70年代末)から始まるヂィケイド論で論じていきます。
 「文学」と呼ばれている小説と、一般的には「文学」と見なされていない小説とを、全く同等に扱うという視点で日本の小説史をたどり直す試みは、今までなされて来ませんでした。
  狭義の「文学」と他のジャンル小説を同一平面上で語ってゆくことで、「芥川賞/直木賞」という制度によって今なお維持されている「文学」の聖性を相対化しようとするのが本書の目的です。
 プロローグ 「芥川賞」と「直木賞」
第一章 村上春樹はなぜ「僕」と言うのか?
第二章 「八〇年代」と作家たち
第三章 「英語」から遠く離れて
第四章 かなり偏った「日本ミステリ」の歴史
第五章 さほど偏っていない「日本SF」の歴史
第六章 サブカルチャーと(しての)「文学」
第七章 ポストバブルの「九〇年代」
第八章 「ゼロ年代」─ジャンルの拡散
エピローグ 「文学」はどこにいくのか?
あとがき

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