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2016年4月30日 (土)

「第22回文学フリマ東京」は5月1日に東京流通センターで

  「第二十二回文学フリマ東京」が2016年5月1日(日)のGWの最中に開催されます。「文芸同志会」と文芸同人誌「砂」がブースを連携して出店します。けっこう実売が期待できるので、増刷をして持ち込みます。
 その連休の間に、これまで読ませてもらっていた文芸同人誌についての提案を「文芸同志会のひろば」に連載しておきます。見えざる力の支配への抵抗を意味しています。硬い話を、どうしたら、柔らかく、面白いように書けるかの実験です。
 話の要点は、資本主義社会における商業主体の文化活動が、大資本や官僚の支配のシステムに組み入れられている現状から、その枠外にある労働力と印刷費を自己負担している文芸同人誌をもっと活用し、世間の声としての表現力を持とうではないか、ということです。
  これは、すでに文学フリマの出品作品には見られる傾向です。このところニコニコ超会議が、テレビニュースで報道されています。これなどは、社会の枠外とされたマニアたちがネットだけのつながりを活かして、実際に現場をつくって集まろう。顔を合わせて、リアルな世界を形成しようというドワンゴの狙いが、成功しつつあるということです。

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2016年4月29日 (金)

文芸時評4月(東京新聞4月8日付)佐々木敦氏

鹿島田真希「少年聖女」底なし『深淵へと誘う』
今村夏子「あひる」寡作の天才 鮮やかな筆
《対象作品》鹿島田真希「少年聖女」(「文芸」夏号)/今村夏子「あひる」(新雑誌「たべるのがおそい」創刊号)。
            ☆
 今回の対象作品は2作に絞られている。本欄を佐々木敦氏が担当して1年になるという。いわゆる文芸雑誌の作品の批評というか、紹介の方法も変化してきている。今回の「少年聖女」に関しての評は、ただの紹介に終わらず、批評というのに該当している。一読を勧め。というのは、次のようなことが記されているからだ。
――先日、私は「ニッポンの文学」という新書を上梓した。そこで私は「文学」とは芥川賞の可能性がある小説」すなわち「文芸誌に掲載されている小説」のことであるという身も蓋もない定義を提出し、従って「文学」とは、ミステリーや「SF」などと同じく一種の「ジャンル小説」なのだ、という主張を展開した。結局のところ「文学」と「文学以外」を分かつのは、文学の専門誌であるところの「文芸誌」に載ったかどうか、ということでしかないのだと。――「ニッポンの文学」(講談社新書)で、講談社メールマガジンでの紹介解説は次のようなものである。
  批評家・佐々木敦氏による『ニッポンの思想』『ニッポンの音楽』から連なる待望の3冊目。
  今回のテーマは「文学」。各主要文芸誌でも精力的にすぐれた論考を発表している著者が、あらためて「日本」の「文学」を解き明かします。
 戦後、とりわけ70年代末からの日本の文学シーンにはどのようなことがあり、どのような歴史があるのか。つまり、ニッポンの小説はどのような歴史=物語を持っているのか。前2冊と同じく、80年代(70年代末)から始まるヂィケイド論で論じていきます。
 「文学」と呼ばれている小説と、一般的には「文学」と見なされていない小説とを、全く同等に扱うという視点で日本の小説史をたどり直す試みは、今までなされて来ませんでした。
  狭義の「文学」と他のジャンル小説を同一平面上で語ってゆくことで、「芥川賞/直木賞」という制度によって今なお維持されている「文学」の聖性を相対化しようとするのが本書の目的です。
 プロローグ 「芥川賞」と「直木賞」
第一章 村上春樹はなぜ「僕」と言うのか?
第二章 「八〇年代」と作家たち
第三章 「英語」から遠く離れて
第四章 かなり偏った「日本ミステリ」の歴史
第五章 さほど偏っていない「日本SF」の歴史
第六章 サブカルチャーと(しての)「文学」
第七章 ポストバブルの「九〇年代」
第八章 「ゼロ年代」─ジャンルの拡散
エピローグ 「文学」はどこにいくのか?
あとがき

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2016年4月28日 (木)

詩人囲碁の会春の合宿で北一郎が準優勝

  このところの春の陽気にもかかわらず、気だるさ負けて手許がおぼつかない。そんなところで、詩人囲碁の春の合宿があって詩人・北一郎も参加した。《参照「詩人回廊」》有段者が多い中で、五級レベルで九目ののハンデをもらって、準優勝となった。それが世間的な話題であるが、内面的には湯河原の緑と川の雰囲気になんというか、詩心を刺激されて、あらためて詩的散文への表現意欲がました。
 また、朝日新聞の囲碁観戦記で知られる秋山賢治氏も視察がてらだろうか、姿を見せていた。詩人囲碁の盛会ぶりを文人囲碁に活かそうということなのかもしれない。北は、伊藤礼氏と話が出来てうれしかった。

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2016年4月26日 (火)

「第四回文学フリマ大阪」16年9月18日開催へ

  文芸同人誌の即売会の全国各地での開催活動が活発化している。特に、今年は第1回開催のものが多い。その中で、堺市産業振興センター での文学フリマ「第四回文学フリマ大阪」の2016年9月18日が決まった。《参照:文フリ百都市構想文学フリマ公式HP

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2016年4月23日 (土)

押切もえ「永遠とは違う一日」が「山本周五郎賞」候補作に

 新潮文芸振興会は4月21日、第29回「三島由紀夫賞」「山本周五郎賞」候補作を発表した。5月16日に受賞作を発表する。候補作は次の通り。
【三島由紀夫賞】
いしいしんじ『悪声』(文藝春秋)
山下澄人『鳥の会議』(河出書房新社)
三輪太郎『憂国者たち』(講談社)
亀山郁夫『新カラマーゾフの兄弟』(河出書房新社)
蓮實重彦「伯爵夫人」(「新潮」2016年4月号掲載)
【山本周五郎賞】
湊かなえ『ユートピア』(集英社)
中田永一『私は存在が空気』(祥伝社)
相場英雄『ガラパゴス』(小学館)
宮内悠介『アメリカ最後の実験』(新潮社)
押切もえ『永遠とは違う一日』(同)

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2016年4月22日 (金)

同人雑誌季評「季刊文科」68号=谷村順一氏

人間を描く
《対象作品》
 尼子一昭「せるの航路」(「せる」100号・大阪市)/橘雪子「その向こう」(同)/谷口あさこ「螺旋の底」(同)/木立雫「猫の塑像」(「たまゆら」100号・滋賀県)/島田奈穂子「ペギーについて私たちが知っていること」(「MON」vol.7・大阪市)(作品本誌に転載)/斉藤葉子「夜が来ると」(「ignea」6号・大阪府)/杉本雅史「路通の旅」(「風土」第15号・高知県)/池田和隆「まだまだ8町内」(「詩と真実」第800号・熊本市)。

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2016年4月20日 (水)

鼎談「新 同人雑誌評」三田文学春季号=浅野麗、佐藤康智、水牛健太郎、各氏

《今号で取り上げられた作品》
・津田一孝「送り火の夜」(「季刊作家」86号、愛知県稲沢市)
・空野元「指を無くした右手」(「文学街」337号、東京都杉並区)
・森田哲司「売れない米屋」(「mon」7号、大阪市阿倍野区)
・高原あふち「シェルター」(「あるかいど」57号、大阪市阿倍野区)
・杉本雅史「路通の旅」(「風土」15号、高知県南国市)
・七浜凪「黄昏れる。」(「海光」2号、北海道函館市)
・牧美貴江「あしたへ」(「港の灯」8号、神戸市北区)
・石塚明子「物語の続き」(「樹林」610号、大阪市中央区)
・芳司直「凪を待つ」(「深海」1号、埼玉県所沢市)
・草原克芳「物狂いの石」(「カプリチオ」43号、東京都世田谷区)
・藤川五百子「ハルニレの森」(「文芸長良」31号、岐阜県岐阜市)
・森岡久元「天皇の浜焼き鯛――尾道少年の戦後絵日記から――」
(「別冊關學文藝」51号、大阪市中央区)

九州の皆さん、ご無事でしょうか。
1日でも早く余震がおさまり、元の生活に戻れるよう祈っております。
文芸同人誌案内掲示板:「mon」飯田さん 投稿より》

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2016年4月17日 (日)

著者メッセージ: 川上弘美さん 『大きな鳥にさらわれないよう』

 小学生のころ、未来人の絵を描くのが好きでした。姿は、今の人間とはほとんど違わないのですが、ただ一つ違っているのは、目がもう一つよけいに、三つあること。自分では「この未来人はかっこいい」とひそかに自慢に思っていたのですが、絵を見た大人は、誰もが首をかしげるばかりだった記憶があります。
 今思えば、あのころ未来人の絵を描くのを好んだのは、巷にあふれていた、いわゆる「未来の素敵な世界」の予想に、なんとはなしな違和感をいだいていたからだったような気がします。宇宙旅行。人間につくしてくれるロボッ
 ト。世界を網羅する完璧な交通網――。あまのじゃくだった私は、おさなごころにも、「それって、ほんとうに、素敵なのかなあ」と首をかしげ、「素敵な未来世界」には出てきそうにない三つ目の人間を描いたにちがいあ りません。
 ずっと、現代の日常のこと、今ここのことを、小説に書いてきました。けれど、年をくってきて子供がえりしたのでしょうか、このごろしきりに、今ここにあるもの以外のことを書いてみたいと思うようになってきたのです。
 そうやって書いたのが、この小説、わたしたちの未来の物語です。お手に取ってくだされば、こんなに嬉しいことはありません(目が三つある未来人も、ちゃんと出てきます)。(川上弘美)
(講談社『BOOK倶楽部メール』 2016年4月15日号より)

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2016年4月16日 (土)

文芸同人誌評「週刊読書人」(016年4月1日)白川正芳氏

《対象作品》 田辺順子「小さな命へ(十二)-青い鳥を探して」(「女人随筆」137号)、前登志夫「山霧」(季刊「ヤママユ」44号) 広岡一「不用意な少年伝(三十一)軽井沢その四・結」(「黄色い潜水艦」63号)、村若昭雄「跡取り(その3)曲がり角」(「農民文学」311号)、「30」9号より中村徳昭「ハンドクリーム棚橋鏡代「斉藤緑雨文化賞(雑誌継続賞)受賞記念スピーチ」(「北斗」3月号)、志村泰治「亀の居る町」(「文芸風土」22号)、有田恵己「ダイヤモンドの砂時計」(「青梅文学」30号)、山田美枝子「花の命」(「まくた」289号)、福井京子「出雲に雲は湧きたちて」(「蒼空」20号)
文芸同人誌案内掲示板:ひわき さんまとめ)

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2016年4月15日 (金)

 秋沢陽吉氏が「レイバーネット」に「甲状腺がんについて」発表

  福島県の文芸同人誌「駱駝の瘤」《参照:甲状腺がん患者の2重の被害》を発行している秋沢陽吉 氏が「甲状腺がんの手術について考える~近藤誠の著書を手がかりに」をネットサイト「レイバーネット」に発表した。
主旨は同誌に発表したことと同じであるが、この問題は、日本のどこでも起こり得ることで、しかも個人情報のなかに隠れてしまうkとである。身近なところにフレコンバッグか、それに似たなに使うかわからないような容器のようなものがれば、かつてそこは放射性のベクレル強い物質に対応したものかもしれない。原発事故以前は、80ベクレル、子どもの場合は50ベクレルぐらいまで、といわれてきたものが、原発事故後は8千ベクレル以上が、隔離必要とされてしまっている。
  もう、どうすることもできないのではあるが、事実を理解することを怠ってはならないし、あらゆる方面で認識を深める努力は必要に思う。
    

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2016年4月14日 (木)

文芸同人誌「あるかいど」58号(大阪市)

 純文学商業誌の有力なものは数誌を読めばよいようで、文芸時評を読んで作品の選びようがある。ところが同人誌となると、どれを読めば良いのか、わからない。本誌は十二作品があると、後書きにある。若い人も多いらしく、それが作風に感じられる。気になるのは、世代の差で、共通の価値観で読み取れているかどうかだろう。
【「アゲハの卵」小畠千佳】
 珠名は、食堂に違和感をもち、医者に胃カメラで検診をうける。神経性胃炎程度で異常はみつからないという。しかし、彼女にはそこに虫がいるのが見える。小説としては、それだけでかなり問題なのに、彼女には入絵という姉が同居していて、別々に住みたがっている。これも問題である。おまけに珠名は子供を事故でなくし、自分も交通事故にあって、一時体の不自由なときがあったという。材料を並べ過ぎの感じで、短編小説として、そんなに材料が必要とは思えない。カフカのザムザは、存在が虫なったのに対し、本作は虫がつく話。あれこれ語って、全体的に、自己存在感の不協和が語られるのであるが、珠名のこの世がいやになってしまう気分が、読んでいやになるほど伝わってくる。
【「僕とマリーとヘソの夢」赤井晋一】
 僕のへそが移動していると彼女に教えられて気づく。実際にへそはお腹のまわりを一周しているのだという。それが元の位置に収まるまでに、マリーという彼女との関係が妊娠という出来事を通して無事進行する。なんでもないようなことが、大事なのだとわかる。何事もなく、それでいいじゃないのかなーーと感じさせられる。
【「ホッパー」西田恵理子】
 大学生の生活生態をソフトなタッチ文体で描き、なかなか面白く読ませる。魅力を感じさせるものがある。拓海という若者が崖から落ちて死んでしまうのだが、なんとなく無念という気分を表現して、残念に思わせるような吸引力がある。このような雰囲気小説というものが、描かれた同世代人にどう受け止められるのか、気になるところ。
【「赤塚山のチョンス」住田真理子】
 昭和二十年の戦時中に、朝鮮半島から徴用されて日本の赤塚山で差別をされながら働かせられていた若者たちが、米軍の空襲で壊滅したので、それを機会に逃げ出す。
 朝鮮半島人へ日本人が抑圧してきた歴史を受難者側からの素材で描く。作品に力があり、読ませる。歴史認識への思慮を深めるためにも、現在こうした事情を描くのに意義を感じる。
 参考資料として、「豊川海軍工廠の記録 陸に沈んだ兵器工場」(これから出版)と「歌劇の街のむひとつの歴史 宝塚と朝鮮人」(神戸学生青年センター出版部)があげられている。こういう書き方も必要であるが、別の角度から内面に隠された不幸感に踊らされてしまう、人間性の側面を明らかにするのも文学の仕事であるような気がする。
【「いつもここで朝になる」善積健司】
 夢のなかの自己探究になりそうな作品であるが、「赤塚山のチョンス」と対をなしたところまで到達点が見えればもっとよかったかも。
 他の作品も読んだが、それぞれ文学的な表現法にこだわったもので読み応えがある。とくに今回の高畠寛「同人誌評」欄の「雑木林」16号掲載の評論・安芸宏子「北川荘平論」は、「暮らしのノート」サイト「雑木林の会ひろば」でも紹介をしている。大阪文学学校の歴史の重みを感じさせる。
発行所=〒536―0042=大阪市阿倍野区丸山通2-4-10-203、高畠方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2016年4月12日 (火)

「実際に体験した者でなければ話すことができないもの」について

 小説におけるリアリズム手法を超える表現に、裁判における自白の信用による判決理由がある。栃木県で起きた少女殺害事件は、8日のTBSTVニュースでは、「判決は自白の内容について、「被害者の遺体や、遺体が遺棄された現場の状況という犯行の根幹部分は自白と矛盾しない。特に被害者を刺したときの状況などは、想像に基づくものとしては特異とも言える内容が含まれ、実際に体験した者でなければ話すことができないものだ」と指摘しましたと報道した。
  「実際に体験した者でなければ話すことができないもの」となると、作家の想像力をだけでは、真迫性のある表現は不可能となり、表現の限界を示すものと受け取れる。これについては、《元信者菊地直子被告の裁判を素材にした新型評論を書く=伊藤昭一》で、この判決と対照的な事例を挙げた。
 他の報道機関では、自白のなかに「刃物で刺して、血の鉄さびのような匂いを感じた……」というところが、「実際に体験した者でなければ話すことができないもの」のひとつというのもあった。しかし、鮮血ですぐ鉄分の匂いがするとは思えず、また、異常事態のなかで、冷静な犯人の観察力に違和感を覚える。これは殺人現場を後から検証することが多い警察官の体験を語っているように聞こえるのだ。犯人かどうかはわからないが、自白のここにはもっともらしい警察による作文の匂いを感じる。
 なお、この事件の概要は下記の新聞記事にある。
 平成17年に起きた栃木県今市市(現日光市)の小1女児殺害事件で、殺人罪に問われた勝又拓哉被告(33)の裁判員裁判の判決公判が4月8日、宇都宮地裁で開かれた。松原里美裁判長は求刑通り無期懲役を言い渡した。被告は商標法違反罪などの区分審理でも有罪の部分判決を受けており、これを踏まえた量刑。
 被告は捜査段階で殺害を自白したが、公判では無罪を主張。直接証拠がない中、捜査段階の自白の信用性や状況証拠の評価が争点だった。勝又被告は17年12月2日午前4時ごろ、茨城県常陸大宮市内の林道で、吉田有希ちゃん=当時(7)=の胸をナイフで多数回刺し、失血死させたとして起訴された。
 検察側は「自白は具体的で迫真性がある」と主張。自宅方面と遺体発見現場方面を往復した車の走行記録や、遺体に付着した猫の毛の鑑定結果が被告の当時の飼い猫と矛盾しないことなどから「被告と犯人を結びつける客観的事実が多数存在する」としていた。
 弁護側は「被告が犯人であることを示す証拠は、自白を除くとないに等しい」とし、殺害時刻など自白の重要な部分が客観的事実と矛盾すると主張。また、長時間の取り調べや警察官に「刑が軽くなる」と利益誘導された末の自白には任意性がないと争い、公判では取り調べの録音・録画が7時間超再生されたが、地裁は先月18日、自白調書を証拠採用していた。(産経新聞2016.4.8 付け) .

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2016年4月10日 (日)

「工場と時計と細胞」に読む資本主義のなかの社会主義

 詩人回廊「外狩雅巳の庭」には、「工場と時計と細胞」の断片的な執筆動機が述べられている。読者にとって書かれた動機にはそれほど関心がない。テクストとして読むだけである。ただ、ここに描かれた情景が、書き手にとって、良い印象の時期であることは、活き活きとした状況の表現から伝わってくる。作者は、この時代における製造業労働者の問題点となる苦々しい記憶を排除していることに気付くであろう。そこには、ひとつの合理的な資本と労働の妥協点が見いだせたと思わせる、このシステムの良いような側面をひとつの「モデルケース」として捉え得ることを明らかにしている。会社は繁栄し、資本を増強し、労働者も豊かになった。プロレタリア文学が、力を失ったのは、この側面を無視し、所得分配のための闘争を革命運動とを混同した混乱があるためであろう。
 ここには資本家の勢力に対抗することへの期待。パワーバランスがとれていたという、ひとつのモデルが浮き彫りにされている。この労働者の団結と資本家の対立構造のバランスが、いわゆる革命が必要という意識を変化させてしまったと言える。本来のマルクス主義思想は、唯物史観にもとづいた社会の歴史的発展段階を前提にし、そこから人間の意識が変化し、そのことが社会を次の段階に発展させるとしていた。資本主義のあとの共産主義社会は、意識改革後のビジョンとしては、予測不可能であることを述べているではないか。
 しかし、その後の労働運動は、たとえ社会主義的な思想をもつとしても、資本主義を基盤としたものしか提示できていない。ケインズの財政政策論も、ピケテイの資本主義論も、所得の再分配論として、マルクスが指摘した資本主義の欠陥の修正であって、意識改革を前提にしていない。
 現在、ウルガイのムヒカ前大統領が来日して話題を話題なっている。彼は若いころは、革命ゲリラ戦線の闘志であり、権力によって、刑務所暮らしをしていた。それが後に大統領になり、ゲリラ戦線の仲間は大臣になった。これが可能だったのは、時代における国民の意識が変わったからである。ムヒカ氏のスピーチにはは、マルク主義思想を根底にし、上での意識改革の必要性を説くものが多い。
 現在の外狩作品の断片の背景には、労働者も管理者も、システムのなかの自存在感を実感することの喜びが表現されていることに注目する。それはなぜか? それを考えることが文芸的な課題であるように読める。(北一郎)

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2016年4月 8日 (金)

「すばる舎リンケージ 発掘プロジェクト」で新人作家発掘

  これまでに商業出版をしていない人を対象に、新人作家を見出す「すばる舎リンケージ 発掘プロジェクト」がはじまった。年齢やジャンルは問わない。タイトル案、企画主旨書、構成案、独自性の要素、サンプル原稿を郵送またはメール、ホームページにある応募フォームから送る。応募の締切日は5月15日。発表は6月1日の予定。

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2016年4月 7日 (木)

クナウスゴール氏「小説執筆は、現実理解のための手段だ」

 スティーヴ・エリクソンさん 芸術は自分ルールで 「小説だけでなく映画や音楽に触れながら『創造とは何か?』を考えてきた。どれも自分にとっては大事なのです」
 このほど邦訳が出た長編『ゼロヴィル』(柴田元幸訳、白水社)の主人公は、米映画『陽のあたる場所』(1951年)の1シーンの入れ墨をスキンヘッドに施している。映画を偏愛し特異な編集の才を発揮する男の歩みに、60年代末以降のハリウッドの変遷を重ねた。「ちょうどポップカルチャー全体が大きく変わる時代。一種の文化的な混沌が、小説の背景として面白いと思った」
「芸術は自分のルールでやっていい。ただしそのルールが通るだけの良さが作品にないといけない。そうやって、ほかの世界へと人を連れて行くのです」
《参照;カール・オーヴェ・クナウスゴール氏「小説執筆は、現実理解のための手段だ」 》産経新聞。

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2016年4月 6日 (水)

民衆の幸福の表現と文学芸術

  「工場と時計と細胞と」(外狩雅巳)は編集過程にある。今後の手直しがいくつかあるであろうが、作品の本質は変わらないであろう。なかで注目したのは、第一部の冒頭、課長のところの文末付近での「ゲスト食堂と喫茶ドームは来客も利用し、俺たちはメイン食堂で格安の昼食が食えるので妻も喜んでいる。 係長と二人の班長は良く協力してくれるが、工程の遅れは俺自らもラインで作業し、絶対に阻止している」というところである。
 現在、会社内での名ばかり店長、名ばかり課長の酷使のための肩書きとなっている風潮のなかで、管理職が、経営幹部と現場職員との板挟みに苦しむことなく、職場環境を肯定的に受け止めていることである。
 資本主義社会の特性は、労働力が時間単位に区切られた商品となっていることは、言ううまでもない。この商品は、人間的な生活可能な状況にあれば、再生産がきく。また、仕事に熟練し生産力を向上させ、企業の利益を増大させるのである。
 しかも労働力を提供するのは、契約した時間内でよく、その他の時間は、労働者は自由で、人間的な欲求を満たすことが可能なのである。この資本家の儲けの追求と、労働者が豊かな自由時間をすごせるという両者のお互いが納得する要素があって、資本主義のシステムが世界を席巻したのである。
それを具体的に、働く現場の調和を描いたのが、この作品なのだ。
 第一部で、山田はこう考えていることが示されている。「住み込みの小僧は、番頭さんや手代さんに殴られながら仕事を覚える前近代的な職場で三年も我慢した。   五年しなければ年期が明けない半奴隷的な労働が許されていた時代に覚えた機械組み立ての基礎知識。  人は平等だと学校で習った。キリスト教の学校では神のもとでの平等を説教された中学時代である。   年季明けを待てず上京し、山谷などで体力勝負の労働に明け暮れた青年時代の後に入社したこの会社だ。」
 作者はこの状況を描くのに、なんの暗さもない。これは資本主義システムが長所として働いたある時期のモデルの再現なのである。(北一郎)

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2016年4月 5日 (火)

文芸誌「駱駝の瘤」通信112016年春3・115周年号(福島市) 

  本号は、福島原発事故の5年目を迎え、大手メディアの伝えない現場情報に特長がある。文芸誌ではあるが、ジャーナリズム雑誌でもある。その視点から《暮らしのノートITO》のサイトで、まず報道した。大手メデアが権力に迎合する傾向の中で、知るべき事実を伝える手段として有効であることを再認識させられた。
【澤正弘「原発小説論(六)~3・1以前の小説(㈠長井彬『原子力の蟹』について】
 この評論で、長井彬「原子力の蟹」が推理小説であり、約35年前の第27回江戸川乱歩賞受賞作であることを知った。本格ミステリーでありながら、社会問題として、原発ジプシーいわれた各地の原発を転々として働く労働者たちの様子、それを管理する会社の杜撰な人員募集体制…など、その仕組みが、2000年に東海村で起きた臨海事故で、マニュアル無視、裏マニュアルの仕組み。3・11の福島事故後の現在に至るまで、変わらない状況を示している。
 この小説には、1961年米国アイダホフォールズの実験動力炉で起きた暴走事故(核分裂現象が5千分の1秒で逸走)で被ばくして亡くなった3人の原発労働者の事故の事実が記されているという。彼らの死体は事故後の20日間までは極めて高い放射線を放出したため、その後、身体は切断され高レベル放射能廃棄物とされて処理されたことが(注)にある。
 こうした原発の非人間的な存在に警告をした本がいくつもあることを知ることができる。人間の金銭崇拝の精神が、科学への過剰な期待のための盲信につながってきた。求められるのは、人間の本性を見据えた意識改革。これが進まなないかぎり、どんな警告の書も無視されるであろうということがわかる。
【武田房子「水野仙子書館】
 福島県出身で、田山花袋に弟子入りし、当時の文人と交流のあった作家の書簡である。病に倒れたのちの手紙類だが、その生き方が垣間見えて興味深い。
【石井雄二『ウェルテル』引用の意味】
  中野重治の「歌のわかれ」の中にゲーテの「若きウェルテルの悩み」が引用されている場面を取り上げ、中野重治の作品との関係を解説している。私小説的作品のなかの文言を事実ととらえて、その検証をしているのだが、それを調べて歴史的事実と一致することがわかったのには驚かされた。また、前回、「街あるき」という作品の解説のなかに事実誤認があったとする、磐瀬清雄氏の指摘なども、よくあることで興味を誘った。
発行所=福島市蓬莱町1-9-20、木村方「ゆきのした文庫」
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2016年4月 4日 (月)

著者メッセージ: 加藤元さん 『蛇の道行』

悪って何だろう。
  出発点は、その問いでした。悪という言葉には、どこか甘い香りがするもので、例えば犯罪者や悪党が出てくる映画を観ると、だいたい彼らに肩入れしてしまう。それが作りごとの良さであり面白みで、魅力的な俳優がこちら の共感を呼ぶように演じてくれているから、そうなる。実際、犯罪者の実録などを読むと、ほとんど同情に値しないものです。彼らはたいがい他人の弱みにつけ込んで、まじめに生きる人間を傷つけ、苦しめる。醜い存在です。
 それなのに、その醜さの底の方に、強く心を惹きつけるものがある。
  悪って何だろう。戦中から戦後にかけての時代を生きる、主人公のひとりであるトモ代は、紛れもない「悪」です。犯罪とはいえない、ささいな部分から、徐々に他人を食いものにしていく。トモ代だけではなく、ほかの登場
 人物たちも、それぞれがそれぞれの「悪」を抱え込んで生きています。悪って何だろう。書き終えても、確実な答えは見えないままです。(加藤元)(講談社『BOOK倶楽部メール』 2016年4月1日号より) 

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2016年4月 3日 (日)

西日本文学展望 「西日本新聞」16年03月30日朝刊・長野秀樹氏

題「別れの季節」
緑川すゞ子さん「白い手」(「九州文学」第7期33号、福岡県中間市)、いいだすすむさん「初恋の頃」(「飃」101号、山口県宇部市)
「九州文学」より中村弘行さん「さよなら、父さん」・野見山悠紀彦さん「幻湯記」・岬龍子さん「廃橋」、「詩と眞實」801号(熊本市)よりKさん「シュガー」
「ひびき」(北九州市)は第9回北九州文学協会文学賞受賞作品集。小説部門憂愁使用は白川光さん(青森市)「泣面山に雨」と中川一之さん(京都市)「金魚」・佳作に神宮寺ほづみさん(久留米市)「すれ違った人」と古岡孝信さん(大分市)「牛を飼う女」
文芸同人誌案内掲示板:ひわき さんまとめ)

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2016年4月 2日 (土)

文芸月評3月(読売新聞3月29日)文化部・待田晋也記者)

震災受け止める長編/衝撃よみがえらせ、「その後」描く
《対象作品》
桐野夏生(64)「バカラ」(集英社)/同「OUT」(1997年)/吉田修一(47)「橋を渡る」(文芸春秋)/蓮実重彦(79)「伯爵夫人」(新潮)/最果タヒ「十代に共感する奴はみんな嘘つきj(文学界)/小林エリカ(38)「宝石」(すばる)/大前粟生(23)「彼女をバスタブにいれて燃やす」(GRANTA JYAPAN With 早稲田文学03)。

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2016年4月 1日 (金)

文芸時評3月(東京新聞3月31日)佐々木敦氏

 蓮実重彦「伯爵夫人」(「新潮」4月号)度を超して助平
 保坂和志「地鳴き、小鳥みたいな」形式の自由 体現
《対象作品》
 蓮実重彦「伯爵夫人」(「新潮」4月号)/同「陥没地帯」(1979年)/同「オペラ・オペラシオネル」(1994年)/保坂和志「地鳴き、小鳥みたいな」(「群像」4月号)/同「朝露通信」/同「未明の闘争」(文庫)。

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