所得格差と社会変革の動きを 「工場と時計と細胞と」に読む
「工場と時計と細胞と」(仮題)ー詩人回廊・外狩雅巳の庭ーが一段落した。このサイトでは、まだ、はっきりとまとまらない創作をメモ風に記すことができる。そのため、同人誌などに正面切って発表する段階でない、イメージなども表現できる。このような場がなければ、頭の中だけで存在し、文章にすることのないまま消えてしまうものもでてくると思う。作者はこれをまとまった形でどのように表現するかを、編集人と打ち合わせを重ねることになるであろう。文芸同志会では、それなりの基準があるので、話し合いが不調であれば、発行しないこともある。それが同人雑誌の同人とは異なるところでもある。
この草稿のなかでの特殊性は、社会の発展段階において、資本家階級と労働者階級の利害の対立が生じる時代があること含む歴史観が軸になっていることであろう。。
この視点はヘーゲルの弁証法をもとに社会は段階を踏んで発展していくものであるーーという思想によっている。それをマルクスが「資本論」で、労働者と資本家の闘争的段階があること、やがて資本主義社会は、高度に発達すると社会の矛盾が激化して、労働者の革命運動によって、共産主義社会になることを理論化したことによる。
いわゆるマルクス主義思想であるが、その根底には、社会の構造的な変化を前提したものである。
それが、階級闘争に労働者が勝利することだけに焦点を絞るようになった。労働者の団結によって、資本家から有利な報酬を得ることで、労働者の勝利とするような発想に変わってしまった。大企業の組合は、資本家の仲間になってしっまった。賃上げ闘争に終始するうちに、資本家内労働者団体と資本化団体の収益の分配をめぐる戦いになって行った。
それが、いわゆる国民の所得の再分配という考えになり高度資本主義のなかの社会民主主義的な低所得者所得補償制度への変化となった。
これがアメリカの大統領選挙で、ヒラリー候補の対抗馬としてサンダース候補の登場した要因でもある。
ピケティの資本主義論も、所得格差の解消論であって、人間の意識革命のない社会的政策論である。
マルクス主義における革命には人間の意識も変わって発展する社会というものを目指しており、それを革命としているはずである。
現在では、マルクス主義は終焉したとする時代になったがようだが、こうした思想によらずに、人間社会の発展の把握はないかというと、そうでもない。人間の本質には、変化を好み、同じ状況を好まないーという生物であると考えると、それが発展へ向かうか、破滅に向かうか不明だが、とにかく現状を否定する性質をもつのではないか。中東で検問に引っかかって、現地から強制的に退去させられた若者は、日本に住むのがいやになったという理由だそうだ。現在の状況を否定し、何かの変化を求める人間的な欲望にかられた行為なのであろう。(北一郎)
| 固定リンク
コメント