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2016年2月 7日 (日)

場で考える文学的社会観を外狩的イメージで展開

  「詩人回廊」で外狩雅巳「工場と時計と細胞と」(仮題)が連載されている。もし、作者が発表の場を、同人雑誌だけに限定していたら、このようなイメージ優先のスタイルを思いつくことはなかったであろう。ネットの断片的コミュニケーションの応用が通用するなかで、その場があることにより生まれたものとして、貴重性がある。今後、どのような展開があるか、作者自身予測ができていないかも知れない。そこにはまさしく、書いて考える現在の作者の感性が含まれているはずである。
現在の自分のの世界観がどこから来ているか、それをみずから探求する。作者にとって現在の本当の自己存在の位置に姿、思想・感性の表現になる可能性がある。現代日本文学の先端に竿を指すことになるのかも知れない。ちなみに、ここには、ある時期の資本と労働者の対立が、数の量的な争いとして捉えられている。
  もともと、プロレタリア文学というジャンル名称はすでにないが労働者文学は存在している。科学的内容的には、社会主義とも言われるマルクス主義の思想において共通している。マルクス主義は、資本を社会の共有財産に変えることによって、労働者が資本を増殖するためだけに生きるという賃労働の悲惨な性質を廃止し、階級のない協同社会をめざすとしている。 いわゆる社会科学としての階級闘争の図式と論理が思想的な力をもっていた時代のモデルである。
 それらはあくまで社会学であり経済学のジャンルであるが、そこに文学がどようにして入り込む余地があるのか、評論を予定している北一郎は、そのことを考えることになるであろう。
 もし、同人雑誌という発表の制約に気付いていれば、本当の自分をどこまで表現しているかを再考するヒントになれば、「詩人回廊」サイトの存在意義もあることになる。

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