文芸時評12月・毎日新聞(12月21日)田中和夫氏
フランスの矛盾「イスラーム政権が解決?」
《対象作品》ミシェル・ウエルベック「服従」(大塚桃訳・河出書房新社)/金石範「終わっていなかった生」(「スバル」)/リービ英雄「ゴーイング・ネイティブ」(同)/牧田真有子「絵姿女房への挨拶」(「群像」)綿谷りさ「履歴のない妹」(「文学界」)。
フランスの矛盾「イスラーム政権が解決?」
《対象作品》ミシェル・ウエルベック「服従」(大塚桃訳・河出書房新社)/金石範「終わっていなかった生」(「スバル」)/リービ英雄「ゴーイング・ネイティブ」(同)/牧田真有子「絵姿女房への挨拶」(「群像」)綿谷りさ「履歴のない妹」(「文学界」)。
綿矢りさ「手のひらの京(みやこ)」(新潮)は、京都に住む凛、綾香、羽依の3姉妹の、結婚や就職をめぐるあれこれを書いたもの。京都が主役で、そこに3姉妹を浮かべてみた現代版『細雪』の趣だが、300枚ではちょっとした思いつきを形にしただけだ。こういう趣向ならば、いかにもいま風に、3姉妹の心の小さな動きなどいちいち書き込まずに、京都の街を前面に打ち出して千枚書いてほしいものだ。率直に言って、本気度がまったく足りない。「呉服問屋の店先では二千円や三千円の激安浴衣が売っていて、たくさんの女性が群がっている」は「激安浴衣を」の方が自然で上品ではないだろうか。こうした文章の調子も京都とうまくマッチしていない。
産経新聞12月27日《文芸時評1月号 オックスブリッジ流「頭の体操」に堪える文学がほとんどない 早稲田大学教授・石原千秋》
記憶の継承は体験者だけの仕事ではない。戦争を知らない若い作家も新たな戦争文学に挑んだ。
戦地の日常を活写したデビュー作で注目された高橋弘希さん(36)は『朝顔の日』(新潮社)で、内地の病院を舞台に人の生と死を静かに見つめた。
「いま書かなければ、声なき声は消えていく」と戦争体験者に聞き取りを重ねたのは中脇初枝さん(41)。戦禍を生き抜く女性を描く『世界の果てのこどもたち』(講談社)は、国境を超えた絆の形を探る希望の物語でもあった。
産経新聞=文芸 心に響く苦い記憶の物語
題「歴史を描く」
ミツコ田部さんの「記憶は過去形ではない」(「ガランス」23号、福岡市)、波佐間義之さん「鉄人たちのレクイエム」(第七期「九州文学」32号、福岡県中間市)
「龍舌蘭」190号森千枝さん追悼特集より岡林稔さん「森千枝 経歴と作品・著作」、芝垣功さん「満腹屋」(「詩と眞實」798号、熊本市)、「あかね」102号(鹿児島市)特別寄稿より川涯利雄さん「河野裕子の相聞歌」・上村直巳さん「七高造士館の独語教師たち(1)」
今年メインで取り上げた作品は以下。
4作品:「九州文学」、「詩と眞實」
2作品:「火山地帯」(鹿児島県鹿屋市)、「龍舌蘭」(宮崎市)、「海」(福岡市)、「南風」(福岡市)、「季刊午前」(福岡市)
文芸同人誌案内掲示板:ひわき さんまとめ
【「ゆくえ」野々山美香】
これは、結婚して新しい生活に入った娘の境遇が、あまりにも不幸に感じて心を痛める両親の姿を描いたものである。人間の肉親関係を端的に表現している。嫁にやった娘の亭主は、浪費家で、自分で家賃を払えなくなると、妻の実家に住んで、家賃の節約ができると、同居を求める。娘は妊娠している。娘可愛さで、それを親が受け入れると、娘の亭主は、会社の同僚を読んで麻雀三昧。とにかく社会人としての、矜持がないクズ男だが、娘は夫を愛しているという。
かつての「みのもんた」のテレビバラエティの人生相談にありそうな話である。しかも、人間の家族構造の原理からしても普遍性がある。作品では、父親が娘の亭主を殺してやろうと、刃物とロープを用意する。そして、娘の亭主を殺す夢を見るが、目が覚めて、その凶器を探すが見つからない。そのまま時が経つところで話を終わらせる。いかにも同人雑誌でなければ読めない素朴な味わいがある。現代は、子どもが成人したら親は親、子どもは子供と、別人格がはっきりしているものだが、日本人の家族意識の伝統がまだ健在な世代もあるということを示している。
【「沙也可」白井康】
韓国人名の家族の祖先が日本人だというので、そのルーツを秀吉の挑戦征伐の時代からたどる話と、若者の恋愛交際の進みぶりを描く。半分ずつ成功している感じ。
【「カイロプラクティック」長沼宏之】
日本人のサラリーマン生活のいじましさと鬱屈した側面を、丁寧に描く。読むのに長いの気になるが、好きに書けるのが同人誌だから、それもいいのでは。
【「加齢臭」空田広志】
男の高齢者の性的な欲望について書いたもの。それを加齢臭と同じ嫌悪すべきものと描く。いまはやりの消臭剤の宣伝になるような、普通感覚で、そうですか、というしかない。リアルさを超えた真実味を発見する努力をみせれば文学になるが、これは書きかけで終わってそれがない。
発行所=〒名古屋市守山区小幡中三丁目4-27、中村方「弦の会」
紹介者=「詩人回廊」北 一郎
文芸評論家、伊藤氏貴さん
なんと言っても、『火花』に尽きる一年だった。新人の小説が書籍全体の年間1位に輝くとは。芥川賞・直木賞をそれぞれ同時受賞した『スクラップ・アンド・ビルド』、『流』も話題となり、20位までには入らなかったものの、売り上げを伸ばした。数ある賞の中で両賞ばかりが目立つが、それで読者の輪が広がるならよしとすべきだろう。
ただ、芸人の書く芸人小説に笑いを期待して購入した読者に、『火花』のような地味な純文学は重かったのか、ネット上の読者レビューでの評判は芳しくない。どうかこのブームが火花と散ってしまわぬよう。
ライター、北尾トロさん
芥川賞が注目された年だが、本屋大賞に選ばれた『鹿の王』(KADOKAWA、総合12位)が印象に残った。私事になるが、児童文学作家のイメージが強く、子供や女性がメイン読者だった著者が候補作になったとき、我が家でいちばん喜んだのは小学生の娘。傑作だからと言われ、筆者は初めて上橋菜穂子作品に触れたのだ。これは、全国の家庭で似たようなことが起きているのではないか……。書店員たちはその熱気を見逃さなかったのだと思う。『鹿の王』の受賞は優れた作家の会心作を売り伸ばしただけでなく、本屋大賞ここにあり、と本好きを納得させる出来事だった。
ノンフィクション作家、河合香織さん
相変わらず自己啓発本は強いが、昨年までのように成長や挑戦といった前向きなものから一転。心身を「整える」内容に変わってきた。
『フランス人は10着しか服を持たない』で食事と身だしなみを整え、『聞くだけで自律神経が整うCDブック』で神経を整え、『家族という病』で家族の問題を整理し、『一〇三歳になってわかったこと』で老後を考え、キリスト教の叡智えいちを授けてくれる渡辺和子や曽野綾子の著書で心を美しく正す。「置かれた場所で咲く」ことの真の充実を私たちは知ったのか。実は社会としての低成長時代、微衰退時代を象徴しているとも読める。
読売新聞12・18【回顧2015】年間ベストセラー 高齢化・話題性・定番 顕著に
文芸同人誌に発表した作品は同人会での合評の場で取り上げられます。書き手は読んでほしいから書くのです。読み手を期待しない作品は有りません。
しかし、応募作品は当選作等にしか批評が無く大多数は消え去ってゆきます。当選しない作品は良くない作品でしょうか。読まれなくて当然なのでしょうか。
雑誌などの同人誌作品評で取り上げられるのもほんの数編です。その他の作品は同人会内の合評が唯一の読者評を受けられる場でしょう。
作者には同人会に入るか応募以外には読者獲得の道は有るのでしょうか。元相模文芸クラブ会員の知人からこの問いに対する返答が来ました。
彼はネットの投稿サイト「エブリスタ」を紹介してくれました。ここには200万編の作品が投稿されてているという事です。
ネットの八割は若者だそうですが二割は高年者だそうです。
彼は旧作の感想が欲しく手直しし一か月間の分割で投稿を続けました。 結果。3212人の閲覧がありランキングの四位になったそうです。
閲覧者は毎回しおりを挟み連載を読み続けてくれたそうです。42のコメントと星印の評価点を寄せた人は2000を超えたそうです。少数の同人仲間の感想に終わらせず旧作品を再度投稿する勧めです。
これ以外には私たちの文芸交流会という方法もあります。
複数の同人会(の会員)が会合し他会の作品感想を交わす場です。同人誌でも個人本でも作者が出席すれば読まれ感想を受けられます。
互いの顔も見えます、討論も応答も徹底できます。月例会常連は十人未満で来年は三年目に入ります。
同人会仲間以外からの感想や討論は新鮮で盛り上がっています。
この方法を周知し参加者を増やしたいと考えています。
「相模文芸」31号と「文芸多摩」8号が会合を待っています。「みなせ」と「普恋洞」は来年発行予定です。個人出版も予定中です。
一月22日・二月29日と町田公民館の会場確保もできています。来年の月例会を充実させたいと期待しています。
《参照:外狩雅巳のひろば》
ついに100号に到達した本誌は、いつにもまして重厚な存在感がある。ここでは同人誌の社会的な地位の変化にかかわる事柄が多く記されている。
【ずいひつ「『文芸中部』前史」三田村博史】
今年6月に亡くなった作家・安達征一郎氏が88歳で亡くなったそうである。安達さんは、直木賞候補作家で「怨みの儀式」で70回、「日出づる海日沈む海」で80回の候補になった。晩年は「少年探偵ハヤトとケン」シリーズなど児童文学も手掛けた。かれは「文芸中部」の発祥もとの同人誌「東海文学」に書いていたという。そこから井上武彦氏などの本同人誌と直木賞候補の関係が記されている。
そして安達氏の「憎しみの海が」映画監督・今村昌平の映画「にっぽん昆虫記」のあとの「神々の深き欲望」の原案になったことがエピソードとして述べられている。ここで自分が興味を持ったのが、同人誌と職業作家とのつながりである。
自分が安達征一郎を読んだのは2009年に川村湊(編・解説)の「安達征一郎 南島小説集「憎しみの海・怨の儀式」(インパクト出版)であった。
ここに安達征一郎年譜があって、彼が職業作家でありながら多くの同人誌にも作品を発表しているのである。それによると、
1948年には、高部鉄雄の筆名で書くかたわら、同人誌「竜舌蘭」再刊に力を尽くす。1952年に「憎しみの海」を同誌に発表。
1954年に「群像」10月号に「太陽狂想」を発表。評判が悪かったとあるが、作風からして「群像」と相性が良いわけがなく、不思議ではない。
その後「近代文学」の「灯台の情熱」、同人誌「裂果」に「島を愛した男」などのほか、「東海文学」、「文学者」などに作品を発表している。
これは同人誌の作家が商業雑誌を補完し、隙間を埋めていた時代があったということで、そこに文芸同人誌が文壇への登竜門とみなされる近代的な歴史的時代があったのだ。
よく、雑誌「文学界」の同人誌評がなくなったことと、同人誌の社会的な存在感の低下を結び付ける論があるとすれば、それは誤解であろう。それ以前から、その歴史は終わっていたのではないか。
【「五十号から百号までのあゆみなにかが書ききれていない」堀井清】
百号までの目次の一覧表である。ここには顕在しないなにかが、たしかにある。書くことには、世間に問う意味合いと、自分自身の内面を言葉にして自己確認をするという、高橋源一郎氏曰く「自己表現をしたことのご褒美」というデザートがあるからではないか。デザートは、作るも食べるも消耗的な時間として消えるものであるからではないか。
本誌は、いろいろほかに読みどころがあるが、この辺で。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
長野県松本市の市民タイムス紙に穂高健一が「燃える山脈」の連載をしているが、同氏がその特集号を掲載した。身近な歴史を広島出身の作家が、題材にしたので、地元作家も驚いたという。《参照:穂高健一ワールド》
もう長いことコールセンターで働いている。物書きを目指した自分の歴史とほぼ同じ長さだ。仕事をしながら、いつかこの経験を小説に活かせないものかと思っていた。
『ロスト』は、乱歩賞をいただいた『道徳の時間』と並行して書き進めていた作品で、受賞の発表までに書き切ろうとやっきになっていたのを覚えている。
『道徳~』が落選した時、自分の正気を保つ必要があったからだ。
今回駄目でも、この作品で絶対に世の中に出てやる。そのためにも、問答無用で面白い作品を書かねばならないと心に決めていた。
幸いにも受賞後第一作となった本作は、誘拐を告げる電話がコールセンターにかかってくる場面から始まる。七年以上の《体験取材》が、ようやく実を結んだと思うと感慨深い。
面白い作品になっている――と敢えて断言してしまおう。これが面白くな いと、困る。
最大の懸念は、職場の仲間や上司に弁解して回らねばならないことだ。
「この物語はフィクションです」と。 (呉勝浩)(講談社『BOOK倶楽部メール』 2015年12月15日号より)
【「白い灰」宇梶紀夫】
農民文学賞受賞作家であるが、これも農業生活の話である。エピソードは多彩で紹介する余地もないが、印象的なのは、都会では当たり前になった水洗便所がなく、当時はどこでも汲み取り式。鬼怒川流域のそこも、人糞を畑の肥やしにしていた。そのため、嫁さんは、嫁ぎ先の汲み取り便所の臭気などになれてくれるかどうか、迎える先で心配する話がある。そこで、すこしでも不快感をやわらげようと、便所に石灰を撒く。それが「白い灰」である。自分は、東京住まいであったが、汲み取り式が長く続いた。そのため、便所の臭気は、慣れていた。余談になるが、1980年ころ自分の子供たちを連れて多摩川にハゼ釣りにいった。当時の多摩川の河原のトイレも汲み取り式だったのか。娘たちにそのトイレを使わせようとしたら、嫌がって使おうとしない。家では水洗トイレであっても、何かの非常時には、多少の不快なトイレもつかわなければならない。そう思って、泣いていやがる娘に「これぐらい慣れないでどうする」と、ひどくしかりつけて、そこを使うことを強制した。戦時中生まれで、つねに切羽詰まった生活が記憶から離れ合自分には、当然の発想であったが、家内と子供には異常な父親と見られたようだ。そうした発想のちがいが、時代の異なる娘たちとの断絶を現在にまで及んでいるいまでも、野生の動物が人里に現れるというニュースなどをみると、戦争で食料不足になったら、それらを捕獲して食料にする余地があっていいではないか、と思わないでもないのである。我々の世界の環境の変化のため、世代間で、内面的同一性が失われてきている。
この作品では、農業地帯の人間関係と土地の自然との係りが描かれているのだが、ある意味で昭和という時代小説というジャンル分けが可能ではないか、とも思わせるものがある。
【「湿った時間」宇佐美宏子】
現在は落ち着いた家庭生活を営んでいる「私」は、大学時代に、1年先輩の沓子と同性愛的な性生活を送った経験がある。その沓子が夫を殺害した嫌疑で、警察に追われている。「私」のところを立ち回り先として、手配し見かけたら連絡するように、警察から連絡が入る。案の定、沓子から連絡がある。「私」の夫がそれを知って警察に連絡してしまう。なかで、沓子との関係を回想することにページが割かれている。それが「湿った時間」ということらしい。闊達な文章で、筆力があるので、面白く読ませる。
物語性が強いので、一般的読物の範囲をでないのであるが、性的な関係が女同志、男女の夫婦関係とどう異なるのか。性的な欲望のなかに潜む人間愛の姿の追及にまで筆が及べば、純文学としての世界に入り込める作風である。文学に対する作者の姿勢がはっきりしないのが惜しい。
発行所=〒511-0284三重県」いなべ市大安町梅戸2321-1、遠藤方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎
同人誌「相模文芸」の忘年会と合評会を12月16日に行いました。合評会25人、忘年会22人の参加です。
30号の最終合評会なので欠席者の作品を行いましたが、作者不在でも全員発言でした。
さらに、発行したての31号が配布されました。200頁の中に24名の27作品が詰め込まれています。
会合では外部交流の件も討議されました。市の文化団体連合との関わりを主に話しました。
詩歌等の団体とのコラボ合評は会場確保や、担当者の問題などで現状は無理であろうということになりました。
高齢化と35人の会員を抱える「相模文芸クラブ」は月二回の合評会で手一杯のようです。
市役所生涯学習課・図書館等への配布と同人誌「文学街」や雑誌「文芸思潮」等への発送も大変です。
合評会も毎回二作品を全員発言で実施すると三時間前後を要しています。
内部活動のみで、多くの読者獲得のための広がりをする余裕の無い現状を「町田文芸交流会」が補う事を考えています。
外部からの作品評を受け他の会の同人による作品感想を発表できる場として活用するのです。
現在までに七人の方が交流会に顔を出し、五人の方が継続出席を行っています。
会員に文書で良く説明し、積極的に呼び掛けて交流会への参加者を増やすつもりです。
16日には二人の見学者があり「相模文芸クラブ」の知名度の高さがわかります。
16年間の活動で市内外で知れ渡っている当会はまだまだ伸びると思います。
文芸実践の場を求め入会する方たちへ外部交流も出来る事を広告します。
交流会の活動が相模文芸クラブ等の個別同人会の強化拡大に役立つようします。
「文芸同志会」の伊藤氏が披露する文学の知識と世界紹介を大いに利用します。
参加する各会からの出席者を増やす取り組みに力を入れたいと思います。
《参照:外狩雅巳のひろば》
【「思い出づくり」友修二】
瀬戸内海の近くに住む山田亮は、妻と子どもと円満な家庭をもっている。仕事は自治体に情報機器を納入する営業をしている。会社では、やり手の同僚がいて、彼に対抗できず、あまりぱっとしない存在である。ちょっとしたことで、評価が上がったり落ちたりする。山田はお役所との立ち回り下手で、ある。ライバルの社員は自腹を切って役人にお歳暮などを送っているという。
そんな同僚たちの出世意欲とは別に、山田は釣りを趣味にしている。そこに役人の広野という釣り好きの男がいて、職場の規則で禁止されている釣りボート遊びに山田が便宜をはかってやる。そのとき、ひろみという若い女性が同行することになり、心を浮き立たせるが、結局、芯が真面目な山田は浮気をしないで、何事もなくほのかな恋心を終わらす。そして(出世、肩書き、お世辞、嘘……)をどれだけ捨てられるかわからないが、それを捨てた分だけ家族との大切な思い出が蓄えられていくのだーーと、考える。
毎日のサラリーマン生活の中で、小さな世界でおだやかに暮らすことが、幸福の原点であるという思想が、読みやすい私小説的手法のなかに盛り込まれている。文学的には古典的で平凡だが、同人誌作品ならではの癒しの創作になっている。
【特別寄稿エッセイ「いつかえる緑花咲くふるさとへ(小高区へ)」吉岡千善】
3・11の東日本大震災と原発事故で、避難した福島県の牧畜業の話である。ほとんどの牛は殺処分され、何頭かは逃げ延びて野生かしたのであろうか。なかに「これからの私達は放射能との生活に覚悟をしなければならない。今のおれは大学の研究牛を管理しながら牛との触れ合いもあり、日々そんなことに感謝している」とある。そして先の見えないなかで、行政のつくる未来に期待するしかないと語る。末尾に(本作品は、被災牛と歩んだ700日―東日本大震災におけるー畜産の農家の苦悩―特定非営利活動法人懸の森みどりファーム発行より転載したものです)とある。このような社会的テーマ性を持った地域誌であるのが、本誌の特徴であろう。
発行所=〒309-1722茨城県笠間市平町1884-190、田中方。文学を愛する会。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
《対象作品》やまのうえ ようこ「メジロは「チピ」と呼ばせて」(「播火」96号)、北原武夫「るんるん山頭火 7」(「微燈」2015号) 「ベルク 山の文芸誌」120号より中野■太郎の短歌「森の小径」
「群系」35号「内向の世代-昭和戦後の文学 その2」特集より沢田繁晴「ある欠落-坂上弘」・草原克英「芥川賞「火花」(又吉直樹)を読んでみた」
広岡一「不用意な少年伝(三十)軽井沢その三」(「黄色い潜水艦」62号)、「長谷川龍生ロングインタビュー」(「樹林」8月号)、旭爪あかね「シンパシー」(「民主文学」11月号)、奥野忠昭「マイ・メモリー」(「せる」100号)、和田恵子「ふるさとの家」(「千尋」4号)
文芸同人誌案内掲示板:ひわき さんまとめ
「詩人回廊」工場と時計と細胞と(仮題)で描いた時代は、押しの強さもなく、頑なな意固地もなく、く優柔不断な少年でした。
良く言えば他人の意見には素直で何でも吸収し八方に気使っていました。
キリスト教系中学で受けた平和主義を元に15才から職業人になりました。
郷里での丁稚奉公を手始めに上、京後は町工場を転々として来ました。
夜間高校と大學二部に終業後の通学を続け社会観を形成しました。
世話好きなのでクラス委員・自治会委員を率先して引き受けて来ました。
神の教えに従い仲良く譲り合い平和な世界を作る事は可能と信じて来ました。
職場でも労使の融和は可能と思っていましたが、25才の時に変わりました。
大田区の工場勤務中に、電柱のビラを見たのがきっかけでした。
「職場の悩みを解決する一人でも入れる労働組合」と書かれたビラでした。
労組とは何だ?。素直な私はそのままビラの発行元に聴きにゆきました。
全国金属労組糀谷地域支部に行きました。そして階級と賃労働を学びました。
働く者の社会を作る必要を学びました。職場から日本を変える事を学びました。
愛や善意で社会が成り立っているのではなく、階級支配が有るのだと学びました。
労働者階級が主人公になるための段取りとしての意識変換を学びました。
革命という言葉を知りました。歴史観も学び労組作りも学びました。
高度に発達した資本主義社会の日本では労働者が会社工場の主役に成る事です。
会社有っての社員ではない、労働者有っての工場・会社だと意識変換しました。
基幹産業の生産点を抑え日本の国力の源を握り政権奪取を行うと学びました。
全ての職場に労組を結成しすべての労働者に階級意識を持たせることです。
労働者階級の政党は共産党だと学びました。職場に党を確立する事です。
小林多喜二の小説「工場細胞」「党生活者」等を夢中で読み耽った青年でした。
そして半世紀後の今。様変わりした状況の中で改めて社会変革を考えました。
情報化社会・グローバリズムの中で階級的自覚とは何だろうかと考えました。
労組は弱体化し、社会変革の力量はあるのか、働く者と労働者は同義語なのか。
戦争法案が成立した今、社会主義国の変質した今、革命は可能か?。
小説の枠を超えてでも作品化し発信したいと思い立ちました。
思い出話ではなく社会変革の可能性を説く作品にと書き始めました。
文章構成力がないので不成功でも取敢えずは第二章以降へと進めてみます。
《参照:外狩雅巳のひろば》
出版取次大手の日本出版販売(日販)とトーハンが2015年12月1日に発表した年間ベストセラーランキングによると、総合1位は「火花」で発行部数240万部を記録。芥川賞受賞作が年間1位となったのは初めてだという。「3万部売れればベストセラー」とも言われる昨今では驚異的な販売部数だ。出版界の通例として、書籍の印税は「定価と部数を掛けたものの10%」がもっともポピュラーとされる。
「火花」の書籍販売総額は、定価(税込1296円)に部数(240万部)を掛けたおよそ31億円。想定の域を出ないが、書籍だけで3億円を超える印税が著者に転がり込む計算だ。ドラマ化、映画化となるとさらに膨らむ。
しかし、事はそう単純でない。所属する吉本興業との間に印税配分をめぐって何らかの契約が交わされている可能性があるからだ。又吉さんは15年7月に都内で開かれたイベントで、吉本を経由して印税が支払われると明言、「吉本芸人なので全部が僕のものじゃない」と語った。
すでに「中抜き」も示唆されており、7月17日付けのスポーツニッポン電子版記事は約8300万円(当時)のうち、4000万円以上を吉本が持っていくと報じている。
《参照:240万部でピース又吉いくらもらったのか 吉本側が「半分」取るから1億円いかない?》
「詩人回廊」外狩雅巳の庭「工場と時計と細胞と」を連載してきた。これは、われわれが慣れ親しんできた経済成長社会の一現象の記憶であるらしい。編集人の伊藤は、これを労働力の商品化が、自然な成り行きとして認識された、一時代の反映とみる。これを文学的に重視した作品化するか、社会変革の過程を分析した評論にするか、作者の意向をきいて著作にすることを提案することになるであろう。
労働力の商品化で何が問題かというと、失業がその関係の矛盾を強めるということである。失業率が高いということは、労働力が商品として売れ残り、過剰な在庫として積みあがっているということ。大根やキャベツなどの物が過剰になると、保管費用がかかるので、ブルトーザーでつぶして、商品の過剰を解消できる。
しかし、労働力は過剰になっても、もとは人間であるから、消滅させることができない。失業問題が、世界の資本主義国家の最大の悩みなのである。
経済が高度成長でいる間は、人手不足で失業が少ない。その時代の特徴を再認識することは、現在のうんくさい社会体制への、比較検証となるであろう。
これらの問題意識は、文学や評論がサブカルチャーに一部になるなかでは、やはりサブカルチャーとしてのジャンルになるのであろう。すべてがサブカルチャーになると考えることで、表現の新しい道が開けるのではないか。
森博嗣氏が著書「作家の収支」で「すべてがFになる」の印税を明かした。「すべてがFになる」は78万部となり、印税は6100万円だという。原稿料だけで1000万円の案件もあり、全書籍の印税の総額は12億円を超える
《『すべてがFになる』の印税6100万円。小説家って実際どのくらい儲かるのか》
「詩人回廊」外狩雅巳の庭「工場と時計と細胞と」についてーー。
1970年代の早い時期に「民主連合政府」の成立が可能だと信じていました。
労働者の自覚が高まり職場に労組の誕生が続きました。私は二十代でした。
革新自治体も東京・大阪・京都と広がり全国網羅が目前に来るようでした。
日本を働く者の国にすると気合を入れて労組活動・政治活動に励みました。
労働学校で学びました。職場から日本を変えるのだと意気盛んでした。
国鉄の菜っ葉服で登校する青年労働者達をうらやましく思っていました。
基幹産業の生産点を労働者側が確保する事が革命の肝要だと学びました。
N.オストロフ スキーの小説「鋼鉄はいかに鍛えられたか」を読み階級性を磨く決意を固めました。
そして、半世紀が過ぎました。今民衆の認識が様変わりしています。
技術革新の結果はデジタル時代になり生産現場も国際環境も変わりました。
そんな現在に、革新政権が生まれるのでしょうか。疑問でした。
「国民連合政府」を打ち上げる共産党に展望はあるのかと考えました。
そこで書き出したのが今回の作品です。序章は当時の職場描写からです。
生活向上・大幅賃上げから説き進めて社会変革を勝ち取ろうとしました。
そんな組合ビラを撒いた半世紀前から現在を照射して見たかったのです。
二章・三章と書き進む中で労働者階級の闘争の展望を捜そうと思います。
主題が政治なので同人誌掲載は無理かと思いサイトに連載しています。
管理者の伊藤氏昭一氏が理解を示してくたのが励みです。
閲覧中の皆様に心から感謝しています。
《参照:外狩雅巳のひろば》
第二十一回「文学フリマ」東京に昨年に続き、麻布高校生による「草莽崛起」(そうもうくっき)誌の販売があった。今年の「草莽崛起」(そうもうくっき)誌のテーマは、読書と思索である。げんざい読み進めているが、その過程で、改めて、高校生の持ち得る世界観の範囲の広さが、一般社会人を上まわるものがあることがわかる。《参照:「詩人回廊」文学フリマ」物語消費》
同時に、それ以前に「「草莽崛起」(そうもうくっき)」の会という思想団体が存在していること、との比較を考えてみた。要するに、吉田松陰の思想は、高校生にも、社会思想活動家にも共通する問題意識を生み出す世相であるということなのだ。
自分は、老・壮・青という世代別の思想回路が、それぞれ乖離しながら共存している現象を、なんとか分析してみたいと思っている。その視点で、麻布高の「草莽崛起」(そうもうくっき)の特徴を読みこんでいるところである。
「みなせ文芸」会員が、「相模文芸」誌の作品評を書きました。作品対象該となった当同人会員に知らせました。
外部評に感謝していました。会員外に読まれる機会は少ないのです。「みなせ文芸」の岡森編集長が仲間に回覧してくれた結果が出ました。
現在は「相模文芸」同人が「飛行船」18号に興味を示して閲覧中です。日本は広いのです。多数の文芸同人会があります。交流を続けます。
市役所関連も訪問中です。交流会説明と行政との提携の模索の為です。図書館等の担当部署には市内外のサークル誌情報が多数あります。
これ等に交流会参加を呼び掛けようと活動内容説明を説いて回ります。生涯学習・文化都市宣言をした市なので文芸興隆の主旨は共通します。作文教室・文学講座・同人誌作り・市民文芸誌等の具体化を協議します。
さらに、町田市・秦野市・東京大田区に広がる交流会メンバーと活動を説明中です。市内の文芸サークル名簿なども聞きました。多くの会があります。
文芸同志会の伊藤氏がこのサイトを印刷してくれました。活用中です。パソコンを使用しない高齢者などに紙で読んでもらう為です。月例会だけでは意思疎通が難しいので通知文に同封してもいます。ネット社会です。全国に発信されるサイトの威力を実感して貰います。紙に保存し各種情報と合わせ強力な宣伝効果を狙う工夫を模索中です。
町田で会合する交流会には近郊に無数の対象者が存在します。八王子・横浜・東京などからの出席者を増やす事が狙いです。全国各地から同人誌が送られてくる交流会を増強させたいのです。
今日も「奏」31号(静岡市葵区北安東1-9-12の勝呂奏氏発行)が届きました。168頁の同人誌ですが書籍サイズにして小型の本を思わせる装丁です。本棚に納めやすいのです。読み捨てにしにくい形です。伊藤氏が作品紹介を書くことでしょう。こうした工夫のある同人誌等も送られてくるのも交流会ならです。
全国区としての周知される中で月例会を鍛えてゆくつもりです。
《参照:外狩雅巳のひろば》
福島県郡山市出身の作家、古川日出男さん(49)が中心となって東日本大震災の被災地で開く「ただようまなびや 文学の学校」が11月28、29日に郡山市であった。「肉声、肉筆、そして本」をテーマに、第一線の作家ら7人が小説や翻訳、批評などの講座を行い、県内外の約200人が参加した。(海老沢類)
《ディスカッションに先立ち、郡山市内の高校生と交流。その際の様子も話題に》
1人の女の子から「本を読むのも映画を見るのも好きだけど、表現することができない」と質問を受けたんです。僕は別に表現できなくてもいいと言ったんです。表現できないなら(自分の)引き出しに入れていけばいい。それは後で役に立つんです。表現できないことを恐れてはいけない。
《28日には川上未映子さんの講座に顔を出し、一人称で書くときの心得や卓抜な比喩の秘密を明かした》
一人称のうまい書き方は「耳で書く」こと。音を意識して書くといい。音読しなくてもいいんだけど、文章を目で追いながら自分の中で音を響かせるようにするんです。
比喩はサプライズを与えないと使う意味がない。平凡でもあまりにとっぴでもだめで、ちょっとズレているのがいい。それに瞬間芸です。言葉の引き出しをいっぱいにしておかないと出てこない。
《産経新聞12月7日: 「読んで欲しい一文をあえて書かない」 作家ら「文学の学校」》
恋愛模様と作品の関わり紹介
文学があるところには、様々な形の愛がある。作家の中島敦、三浦綾子ら12人の恋愛模様と作品との関わりを紹介した『愛の顛末てんまつ』(文芸春秋)をノンフィクション作家の梯かけはし久美子さんが刊行した。
プロレタリア作家の小林多喜二は、作家になる以前、小料理屋風の店に勤める女性のタキを見そめた。互いにひかれながらも結局、彼女は生活の問題などから自ら身をひき、102歳まで生きた。小説『夏の花』を残した原民喜たみきは、最愛の妻を1944年に亡くした。<もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残ろう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために>と考えていた。だが、広島で原爆を体験し、その死者のためにもう少し生きることになった。純粋な言葉や愛を追い求める著者自身の魂が、読みやすい文章にさりげなく映し出されている。
《参照:読売新聞【文芸月評】「揺らぎ」こそ作家の証》
題「人生を決めた時」
後藤みな子さん「高円寺へ」(「イリプス」Ⅱnd、17号、奈良県香芝市)、西田宣子さん「朝顔」(「季刊午前」52号、福岡市)
「飃(ひょう)」(山口県宇部市)創刊100号より渡壁忠紀さん「文藝同人誌『飃』の履歴」・藤山伸子さん「かずうさあのいた町」、「季刊午前」より井本元義さん「瑠璃の陸橋」・小山多由美さん「太宰治と檀一雄終焉の地」
文芸同人誌案内掲示板:ひわき さんまとめ
本誌は、福島原発事故の地元から発行された同人誌で、そこには現地での環境認識がどのようなものであるかが、鋭く表現されている。その社会性の一面を《暮らしのノートITO―秋沢陽吉「吉本隆明的なるもの」雑誌「駱駝の瘤」通信10(福島)から》で紹介した。ここでは同時掲載された文学的な芸術性にかかわる評論について紹介する。
【「街あるき」再見―訂正と補遺】石井雄二】
まず、話は前号(通信9)おいて作品「『街あるき』読解仮説』」(磐瀬清雄)があることにつながる。中野重治の戦前に書いた作品「歌のわかれ」と「町あるき」という作品の文章表現の手法について論じたものである。ここでは、映画的な視覚を通じた描写の中に、作者の内面を盛り込むという表現技術に関して、小林秀雄や石川淳などの小説論を交えた長い引用がある。
同じ号に、石井雄二が「歌のわかれ』最後の一節をどう読むか」を書いているのである。ここでは、木村幸雄の「中野重治と『革新』」(「中野重治論―文学と思想の行方」について触れている。この前作に対応する訂正と補遺なのである。
作家・中野重治(1902年-1979年)は、政治思想活動と文学芸術の両面を追及した実績があり、社会的な存在としての人間性の表現と、その芸術的な表現力は、すぐれたものがある。作風において細部の描写において、その人間の精神性をよく表現している。流行作家ではないが、現代の文学が、大衆文化のサブカルチャーの一部のなかに埋没する現状からして、純文学の本質に沿うひとつの方向を示すヒントになるのではないか。
発行所=福島市蓬莱町1-9-20、木村方、ゆきのした文庫。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
滝口悠生「死んでいない者」(文学界)は、お通夜の話。と言うか、お通夜に集まった者たちについての話だ。語られる人物が多すぎて、最後までつきあいきれないようなところがあるが、種明かしは冒頭近くに仕掛けられている。「人は誰でも死ぬのだから自分もいつかは死ぬし、次の葬式はあの人か、それともこちらのこの人かと、まさか口にはしないけれども、そう考えることをとめられない」「もし自分が今死んだら、夫と息子がやはりああして自分のことを見つめる、その時にはもう少し悲しげになるだろう」と。紗重と夫のダニエルが出会った「奇跡」は「確率じゃはかれない」という議論も、種明かしだ。
そう、「死んでいない者」とは「死んでいたかもしれない者」だったのである。いま彼らが「死んでいない者」なのは、単に「確率」の問題かもしれないのだ。それに「死んでいない者」が「死んでいない者」であり得るのは、「死んでいたかもしれない者」という可能性によってである。たとえば、夏目漱石が夏目漱石である固有性は、「彼が夏目漱石にはならなかったかもしれない」可能性の中にあると、柄谷行人は言っている。そこにあるのは「偶然性の問題」である。レマルク『西部戦線異状なし』は、青年兵士が死んだのに「西部戦線異状なし」と報告されてしまう残酷さと同時に、青年兵士が偶然死んだことの残酷さをも語っている。ここまで書けば、たくさんの「死んでいない者」は偶然そうであるにすぎないとわかるだろう。「死」は「誤配」される可能性があったのだと。そして心得のある人は、この小説がジャック・デリダへのオマージュだとわかるはずだ。この小説のつまらなさは十分に意味を持っている。
《早稲田大学教授・石原千秋 意味のあるつまらなさ》
☆上田岳弘「異郷の友人」一貫した路線に気概/☆滝口悠生「死んでいない者」期待に違わぬ傑作
《対象作品》
上田岳弘「異郷の友人」(「新潮」12月号)/福永信「未来へ生きる君へダイ
イングメッセージ」(「すばる」7月号)/同「店」(「新潮」12月号)/黒川創・新連載「岩場の上から」(同)/岡田利規・戯曲「God Bless Baseball」(同)/対談・星野智幸&岸政彦「社会の断片と物語の呪文」(同)/滝口悠生「死んでいない者」(「文學界」12月号)。
(抜粋)――期待に違わぬ力作である。通夜の晩、死んでいなくなって間もない、曾孫まで居るのだからまず大往生と呼んでよかろう男の家族親族たちが、さまざまなことを話したり思いだしたりする、と言ってしまえばそれだけの話なのだが、(中略)読みながら小説の時間と自分の思い出が共振してゆく気がした。(中略)これは相当の傑作である。(後略)。
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