文芸同人誌「海」92号(いなべ市)
【「白い灰」宇梶紀夫】
農民文学賞受賞作家であるが、これも農業生活の話である。エピソードは多彩で紹介する余地もないが、印象的なのは、都会では当たり前になった水洗便所がなく、当時はどこでも汲み取り式。鬼怒川流域のそこも、人糞を畑の肥やしにしていた。そのため、嫁さんは、嫁ぎ先の汲み取り便所の臭気などになれてくれるかどうか、迎える先で心配する話がある。そこで、すこしでも不快感をやわらげようと、便所に石灰を撒く。それが「白い灰」である。自分は、東京住まいであったが、汲み取り式が長く続いた。そのため、便所の臭気は、慣れていた。余談になるが、1980年ころ自分の子供たちを連れて多摩川にハゼ釣りにいった。当時の多摩川の河原のトイレも汲み取り式だったのか。娘たちにそのトイレを使わせようとしたら、嫌がって使おうとしない。家では水洗トイレであっても、何かの非常時には、多少の不快なトイレもつかわなければならない。そう思って、泣いていやがる娘に「これぐらい慣れないでどうする」と、ひどくしかりつけて、そこを使うことを強制した。戦時中生まれで、つねに切羽詰まった生活が記憶から離れ合自分には、当然の発想であったが、家内と子供には異常な父親と見られたようだ。そうした発想のちがいが、時代の異なる娘たちとの断絶を現在にまで及んでいるいまでも、野生の動物が人里に現れるというニュースなどをみると、戦争で食料不足になったら、それらを捕獲して食料にする余地があっていいではないか、と思わないでもないのである。我々の世界の環境の変化のため、世代間で、内面的同一性が失われてきている。
この作品では、農業地帯の人間関係と土地の自然との係りが描かれているのだが、ある意味で昭和という時代小説というジャンル分けが可能ではないか、とも思わせるものがある。
【「湿った時間」宇佐美宏子】
現在は落ち着いた家庭生活を営んでいる「私」は、大学時代に、1年先輩の沓子と同性愛的な性生活を送った経験がある。その沓子が夫を殺害した嫌疑で、警察に追われている。「私」のところを立ち回り先として、手配し見かけたら連絡するように、警察から連絡が入る。案の定、沓子から連絡がある。「私」の夫がそれを知って警察に連絡してしまう。なかで、沓子との関係を回想することにページが割かれている。それが「湿った時間」ということらしい。闊達な文章で、筆力があるので、面白く読ませる。
物語性が強いので、一般的読物の範囲をでないのであるが、性的な関係が女同志、男女の夫婦関係とどう異なるのか。性的な欲望のなかに潜む人間愛の姿の追及にまで筆が及べば、純文学としての世界に入り込める作風である。文学に対する作者の姿勢がはっきりしないのが惜しい。
発行所=〒511-0284三重県」いなべ市大安町梅戸2321-1、遠藤方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎
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