文芸時評12月(産経新聞)石原千秋氏ー意味のあるつまらなさ
滝口悠生「死んでいない者」(文学界)は、お通夜の話。と言うか、お通夜に集まった者たちについての話だ。語られる人物が多すぎて、最後までつきあいきれないようなところがあるが、種明かしは冒頭近くに仕掛けられている。「人は誰でも死ぬのだから自分もいつかは死ぬし、次の葬式はあの人か、それともこちらのこの人かと、まさか口にはしないけれども、そう考えることをとめられない」「もし自分が今死んだら、夫と息子がやはりああして自分のことを見つめる、その時にはもう少し悲しげになるだろう」と。紗重と夫のダニエルが出会った「奇跡」は「確率じゃはかれない」という議論も、種明かしだ。
そう、「死んでいない者」とは「死んでいたかもしれない者」だったのである。いま彼らが「死んでいない者」なのは、単に「確率」の問題かもしれないのだ。それに「死んでいない者」が「死んでいない者」であり得るのは、「死んでいたかもしれない者」という可能性によってである。たとえば、夏目漱石が夏目漱石である固有性は、「彼が夏目漱石にはならなかったかもしれない」可能性の中にあると、柄谷行人は言っている。そこにあるのは「偶然性の問題」である。レマルク『西部戦線異状なし』は、青年兵士が死んだのに「西部戦線異状なし」と報告されてしまう残酷さと同時に、青年兵士が偶然死んだことの残酷さをも語っている。ここまで書けば、たくさんの「死んでいない者」は偶然そうであるにすぎないとわかるだろう。「死」は「誤配」される可能性があったのだと。そして心得のある人は、この小説がジャック・デリダへのオマージュだとわかるはずだ。この小説のつまらなさは十分に意味を持っている。
《早稲田大学教授・石原千秋 意味のあるつまらなさ》
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